オニが出るよ

つぐみもり

第1話

 山の中の一本道は、車二台がギリギリすれ違えるほどの狭さだった。

 片側が崖、反対側が斜面になっていて斜面にも崖下にも木々が密集している。

 時々、悲鳴のような甲高い鳴き声がして、その度に僕は身を震わせた。

 自分で自分を抱えるようにして体を縮めると、半袖のシャツからむき出しの腕が、すっかり鳥肌になっているのが分かった。

 もう何時間になるんだろう。


 車が故障して動かなくなり、運転していた叔父さんがボンネットを開けて見ていたが、すぐには直せないらしい。

「助けを呼んでくるから、しばらく待ってて」

 スマホのアンテナが圏外になっているので、せめて電話できるところまで行って、迎えを呼ぶからと行ってしまった。

 残されたのは僕ひとり。


 僕は喘息の治療のため、夏休み中は田舎の祖父母の家に泊まることになっていた。

 幸い光回線はあるので、塾のオンライン授業は受けられるようにできるそうだ。

 ここまで車で連れてきてくれた叔父さんが、詳しいので手配してくれたらしい。

 スマホの電波が届かないので、ダウンロードしてあったゲームで遊んだりしていたけれど、充電が切れたら困るので早いうちにやめた。


 車の中でじっとしているのも落ち着かなくて、外に出て、叔父さんが行った方を見てみた。

 道はくねっていて、背伸びしても森しか見えない。

 だんだん、太陽が低くなって暗くなってくる。

 心細さも大きくなってくる。

 そんな時だ。


「お前、余所者か?」

「ひゃあっ!」

 急に声をかけられて、悲鳴をあげてしまった。

「余所者が、なんでこんな所にいる」

 聞こえたのは、小学四年生の僕と同じくらいの男の子の声。

 振り向いて、僕はまた悲鳴をあげた。

 すぐ真後ろ。白っぽい虹のような不思議な色の髪をした、白い狐のお面を被った子供がいた。

 ただ、落ち着いて見たら、服装は普通の緑のTシャツと黒い半ズボンで、普通の子供だ。お面以外は。

 普通の人間だと分かったら、少しだけ不安が和らいだ。

「この先の村に行く所なんだ。車が故障して、叔父さんが電話しに行って、まだ帰ってこないけど」

「お前の眼、青いな」

 狐のお面が近づいて、僕の目を覗き込む。

 確かに僕の目は、よく見ると青い。

 突然変異なんだって、父さんも母さんも叔父さんも言ってた。

 だけど初対面で、いきなり言われて面食らった。

「君は誰? 人に向かって『お前』とか、失礼じゃない?」

「帰れ」

「えっ?」

「お前のような奴が来る所じゃない」

 そう言って、狐面の男の子は消えた。

 一瞬で消えるように居なくなった。


***


 男の子が居なくなってすぐに、自動車の音が近づいてきた。叔父さんが戻ってきた。

「桂吾、久しぶりだな。よく一人で頑張った」

 白い軽トラックを運転していたのは、お祖父ちゃんだった。最後に会ったのは小学校に上がる前だから、五年前かな。白っぽい作業着の上下に、黒い長靴。麦わら帽子。日焼けした顔をクシャッとして笑うところは変わらない。

 助手席から叔父さんが降りてきて、荷台から工具を下ろしている。

「遅くなってごめんな、桂吾。電話は通じたんだけど、直接呼びに行った方が早いかと思ってじいちゃんの家まで歩いて行ってたんだ」

 叔父さんは街で普通に会社員をしているが、フットワークが軽い。今日はオレンジのTシャツにジーンズ、スニーカーと軽装だけど、たまに山登りに出かけたりするので、装備は車に積んであるらしい。


 辺りはもう暗くて、懐中電灯の灯りの中では修理も進まなかった。

 結局、叔父さんの車は明日見に来ることにして、お祖父ちゃんが乗ってきた軽トラックで村に向かうことになった。

「簡単なバッテリー上がりかと思ったんだけど違ったな。最近、車検に出したばっかりなのにな」

 軽トラックの荷台で揺られながら、叔父さんはぼやいている。

 軽トラックは二人乗りだから、僕は荷物と一緒に助手席に乗せてもらって、叔父さんは軽々と荷台に乗ってしまった。

「本当は違反だから、警察には内緒、な」

 ここまでも通ってきたけど、山道はガタガタで叔父さんの車よりも揺れた。荷台の叔父さんが落ちやしないかと、ずっとハラハラしていた。


「さっき、子供に会ったよ」

「子供?」

 お祖父ちゃんが前を向いたまま返事をする。運転中は話しかけない方が良いのかもしれないけれど、言わずに居られなかった。

「虹みたいな変わった色の髪で、狐のお面を被った男の子……だと思う」

「そりゃ、アルビノって言うんだ。白い髪に赤い目をしてる。村外れの神社に住んでる子だ」

「帰れって言われた。お前の来る所じゃないって」

「……そうか」

 それっきり、お祖父ちゃんは黙ってしまった。

 なんとなく聞いてはいけない気がして、僕も黙った。


***


 祖父母の家に着いたころには、すっかり辺りは真っ暗になっていた。

 星明りはあるけど街灯なんかは無くて、家の玄関灯と、カーテンの隙間から漏れる明かりだけが周囲を照らしていた。

 暗くてよく見えないけれど、家自体は二年前に一部リフォームしたそうで、古いわりには外観はしっかりしていた。


 引き戸の玄関を開けて入ると、お祖母ちゃんが出迎えてくれた。小柄で、短い髪のパーマ頭。長袖のシャツに花柄の長ズボン。記憶にある通りのニコニコ笑顔のお祖母ちゃんだ。

「桂吾ちゃん、大変だったでしょ。夕飯食べる? それより先にお風呂に入ろうか?」

 ちょっと考えて、お風呂を先にした。

 疲れていたから、ご飯を先にすると寝てしまいそうだったから。


 お風呂は母屋から独立していて、短い廊下を通って隣の小さい建物へ入った。

 脱衣所と風呂場だけの狭い小屋。

 一緒に入ろうかと言われて断ったのを、ほんの少しだけ後悔した。

 母屋の音が何も聞こえなくて、外で虫や蛙が鳴いている声だけが聞こえる。

 夏の夜の中にひとりぼっち。


 湯船に浸かって、考えたのはさっき会った狐面の男の子のことだった。

 アルビノという言葉はどこかで聞いたことがある。

 白い髪と、赤い目。

 あの子の髪は、白というより虹色に光って見えた。

 目は狐のお面で見えなかったけど、どんな顔をしているんだろう。

 あんな風に「帰れ」って言われたけど、不思議と怖い気はしなかった。なんでだろう。


 外で、甲高い悲鳴のような鳴き声がした。


 あれの方がよっぽど怖い。

 慌ててお風呂から上がって、ビクビクしながら着替えた。

 母屋への短い廊下が暗くて怖くて、走って戻った。


***


 次の日は、することが何にもなかった。


 この家での僕の居場所は仏壇の置いてある部屋で、ひいお祖父ちゃんとひいお祖母ちゃんの写真が襖の上の壁に掛けてあって、見られているような気がして落ち着かない。

 見られているから、行儀悪くごろごろすることもできない。

 叔父さんが準備してくれたパソコンはあるけど、塾は休みの日でオンライン授業はなかった。

 録画の講座を見たり、宿題をしたりしてみたけれど、今日の分はあっという間に終わってしまった。

 お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、朝から畑に行っている。

 叔父さんは置いてきた自動車を見に行った。

 どちらかについて行こうとしたけど、喘息が悪化するかもしれないと、置いて行かれてしまった。

 開けっ放しの縁側から入ってくる、蝉の大合唱。

 僕は家に一人きり。

 はっきり言って暇だった。

 だから、ちょっとだけ冒険してみることにした。

「これは忘れないように、と」

 吸入器は忘れずにズボンのポケットに入れて、玄関を出た。


 小学校に上がる前に来たことがあるけれど、周囲の事はぼんやりとしか覚えていない。

 家からまっすぐのびた道の途中には、数件の民家がある。みんな仕事か畑に出ているみたいで、車がない。

 道は突き当りで二手に分かれていて、右に行けばお祖父ちゃんの畑へ、左に行けば、村に来るまで通ってきた山道に続くはず。

「村はずれってどっちなんだろう?」

 何となく、あの狐面の男の子に会ってみたくなった。

 左の方、山に木がうっそうと茂っている辺りに、赤い鳥居みたいなものが見えた気がした。

 もちろん、そちらへ向かうことにした。


***


 家を出てすぐに、僕は後悔した。

 帽子を被ってこなかったし、水筒を持ってくるのも忘れた。

 夏の田舎道はじりじりと暑くて、すぐにバテそうだ。

 それでも、ここまで来て帰るのは悔しくて、もう少し、もう少しと前に進んでいった。

 暫くして山道に入ったら、木の陰で若干涼しくなった。

 ただ、日陰に入った途端、汗が噴き出した。ここでハンカチもタオルも持っていない事にも気がついてしまった。

「僕はバカだ。情けない。叔父さんに呆れられる」

 手で額の汗をぬぐったけど、こういうの何だっけ。糠に釘? 暖簾に腕押し? 何か違う。

「焼け石に水?」

 これもちょっと違う気がする。


 息が上がってきたので、近くの木の根元に座って休んだ。

 ポケットから吸入器を出して、吸入するのも忘れない。

 これで水でもあれば良いのに。


「お前、馬鹿なのか?」

 上から声が降ってきた。あの子だ!

 僕は勢いよく顔を上げた。狐の面が目の前にいた。会えた。

「僕は『お前』じゃないよ。桂吾だよ!」

 焦って叫んだので、咳込んでしまった。喉と胸が苦しい。

「おい、大丈夫か?」

 もう一度、吸入薬を吸い込む。

 狐面の男の子は、落ち着くまで背中をさすってくれていた。


「ありがとう。もう大丈夫だよ」

「水、飲むか? すぐそこに湧水がある。少し歩くけど」

「……うん!」

 虹色の髪の男の子は、出会った時とは違って普通の様子で、立ち上がる時も手を貸してくれたから、すごく親切だ。

 先に立って山道を登っていくけど、お面は被ったままで顔を見せてくれない。見せたくないのかもしれないから、聞けなかった。


 一分ほど道を進むと、どこかから水の流れる涼しい音が聞こえてきた。

 山肌からビニール製のパイプが飛び出していて、そこから水がチョロチョロと流れ出ている。

 水は真下に置かれた金属製のタライに溜まって溢れだし、地面に小さな川を作っていた。

「ほら、これを使え」

 狐面の男の子は、立てかけてあった柄杓を差し出す。

 衛生的にどうなんだろうかとか、そんなことを考えて躊躇っていると、その子は柄杓で流れ出てくる水を汲み、お面を少しずらして水を飲んでみせた。

 色白の口元が見えただけだったけど、なんだか妙に恥ずかしさを覚えた。


 渡された柄杓を使って、真似をして水を汲んで一口、飲んでみた。

 すごく冷たくて、水道水より甘かった。

「生水だから、あんまりたくさん飲むなよ。腹を壊すから」

「えーっ! 先に言ってよ!」

 湧水が美味しくて、結構飲んだ後に笑いながら言うから、からかわれたのかもしれない。

 この子も笑うんだと、なんだか嬉しかった。


「ねえ、君の名前を教えてよ」

 日陰に並んで座って涼みながら、思い切って聞いてみた。

「雪比古だ」

「ゆきひこ? どんな字を書くの?」

 枝を使って、地面に雪比古が名前を書く。

 雪という字が、白い髪に似合ってると思ったけど、言わなかった。もしかしたら気にしているかもしれないから。

「雪比古くんは、何年生?」

「雪比古でいいよ、こそばゆい。あと、小学四年生だ」

「じゃあ、僕と同じだ」

 ふと、視線を感じた。

 お面で表情は見えないけど、じっと見られている気がする。

「お前、桂吾だったか。なんでそんなに嬉しそうなんだ?」

「だって、他に子供がいるとは思ってなかったから。同い年の友達ができて嬉しいよ」

「友達……」

「あ、ごめん。嫌だった?」

「別に」

 ふいっと横を向いた雪比古の耳が赤かった。肌が白いから、よく分かる。

「お前……桂吾は、いつまで村にいるんだ?」

「夏休みが終わる前には帰らなきゃいけないから、八月二十五日ぐらいかな」

 今が八月一日だから、ほぼ一ヶ月だ。

「そんなにいるのか」

「うん」

「早く帰った方がいい」

 そう言った雪比古の声は、少し怖かった。

「アレに見つかる前に」


***


 陽が高いうちに雪比古と別れて帰ったけれど、お祖父ちゃんの家ではちょっとした騒ぎだった。

 お昼にお祖母ちゃんが戻ったら僕がいなくて、心配させてしまった。

 台所に昼食用のおにぎりが準備してあって、夕方まで誰も帰ってこないだろうと思っていたから、誤算だった。

 お祖父ちゃんと叔父さんも帰ってきて、探しに行くところだったらしい。

 叱られなかったけれど、山奥や川に一人で近づかないようにと、山歩きに詳しい叔父さんにたくさん勉強させられた。


「友達と一緒ならいい?」

「友達だって?」

 叔父さんが怪訝な顔をする。

「うん。雪比古と友達になった。雪比古の所なら、遊びに行ってもいい?」

 ちょっと待ってと叔父さんは言い置いて、お祖父ちゃんに何か聞きに行った。

 気になるので、僕も追いかけて聞き耳を立てる。

「この村に、桂吾くらいの子供がいたのか?」

 居間でお茶を飲んでいたお祖父ちゃんは、なんとなく言いにくそうに見えた。

「村はずれの神社、お前も知ってるだろ。あそこで拾われた赤ん坊を、川辺の爺さんが世話してるんだ」

「何度も来てるけど、俺は見たことも聞いたことないよ」

「白子だから人に会いたがらないんだろう。学校もあんまり行ってないようだし。それに、噂じゃあ……」

 お祖父ちゃんは僕に気付くと、口をつぐんでしまった。もっと雪比古の事を知りたかったのに。

「噂って、どんなの?」

「子供に聞かせる話じゃない」

「ふーん? じゃあ、一緒に遊んでもいい?」

 暫く間を置いてから、お祖父ちゃんは深く息を吐いた。

「まあ、遊ぶくらいならいいだろう。どうせ夏の間だけだからな」

 身体に気をつけることと、勉強はちゃんとすることを約束させられたけど、それでも許してもらえたのが嬉しくて、その夜はなかなか眠れなかった。


 真夜中、また甲高い悲鳴のような鳴き声が響いた。


 僕は耳を塞いで布団の中で丸まった。

 これだけは、慣れそうもない。


***


 午前中に塾のオンライン授業を受けて、夏休みの宿題も今日の割り当ては終わらせた。

 お昼ご飯を食べて、咳が出ていないことを確認して、ちゃんとお祖母ちゃんに報告してから家を出た。


「何だよ、その荷物。桂吾は富士山でも登る気か?」

 雪比古の声は、なんだか呆れているようにも聞こえた。狐面で表情は見えないけど。

 帽子と水筒、それからリュック。

「やっぱりちょっと多すぎたかな?」

 叔父さんの教えの通り、万が一に備えた装備を整えたら、リュックがパンパンになってしまった。

 リュックを地面に下ろし、順に取り出していく。

 まず、二人用のレジャーシート。フェイスタオル。ハンドタオル。除菌シート。虫除けスプレー。着替えのTシャツと半ズボン、下着の上下。スマートフォン。吸入器。おやつのポテトチップス。ゴミ入れ用のビニール袋。宿題のドリル。

「宿題は置いてこいよ。あと、着替えはいらないだろ。汚れたり濡れたりしたら、すぐ帰れば済むんだから」

 僕のフル装備に、雪比古は一つずつダメ出しをしていく。結局、帽子と吸入器とハンドタオルだけ持っていれば大丈夫だろうという結論になった。

 荷物を片付けると、レジャーシートに二人で座ってポテトチップスを開けた。

「一緒に食べよう」

「いや、俺は……」

 雪比古は、ちょっと迷っているようだったけれど「ありがとう。少し貰うよ」と言って、お面を頭の方にずらした。

 肌の色が薄くて、眉もまつ毛も髪と同じく虹みたいな不思議な白色をしていた。まつ毛を透かして、真っ赤な目が見える。

 学校で飼っているウサギみたいだなと思った。

「ねえ、雪比古はどうしてお面をしているの?」

「日除けかな。あと、魔除け」

「魔除けって、何から避けるの?」

「この山には、オニが出るって言われてる。爺さんが言ってた」


 夜でもないのに、甲高い悲鳴のような鳴き声が聞こえた。


「オニが暴れる時に、生贄を捧げるんだ。生贄になるのは、髪が白くて目が青い子供」

 赤い目が、僕を見ている。

 僕の目は、よく見ると青いと言われている。

 だから、雪比古は僕に「帰れ」って言ったのかな。


***


 この村に来てから二週間経った。

 僕は毎日のように雪比古と山を遊びまわって、少し調子に乗っていたんだと思う。

「咳、なかなか止まらないねえ」

 咳込んでいる僕を、お祖母ちゃんが心配そうに覗き込んでいる。

 風邪を引いたみたいで、二日前に高熱が出た。

 熱はすぐ下がったけれど、喘息の症状が出るようになっていた。

「誠二がいれば、すぐにお医者に連れていけたのにねえ。ごめんね」

 謝るお祖母ちゃんに、僕は首を横に振るしかできなかった。

 叔父さんは僕が村に来てから三日後には街に帰っていたから、この家にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんと軽トラックが一台だけ。

 麓の町に行けば内科医院があるけれど、このまま咳が止まらなければお父さんか叔父さんに来てもらって、かかりつけの病院に行こうかという話になっていた。

 そしてそれは、村から家へ帰るということになる。

「雪比古、どうしてるかな?」

 スマホもガラケーも、雪比古は持っていないと言っていたから、連絡の取りようがない。

 家に固定電話はあるはずだけど、付き合いが無いからと、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも気が進まないようだったから、頼めなかった。

 持ってきている薬を飲んで、咳が良くなるように祈りながら寝ているしかなかった。

「風が出てきたから、窓を閉めようね」

 お祖母ちゃんが縁側の引き戸を閉めていく。

 昨日から天気が悪くて、今にも雨が降りそうな黒い雲が空を覆っている。風も強くなってきて、去年の台風を思い出した。

 気圧のせいで喘息の症状が出ているのかもしれない。

 不安が襲ってきて、すごく泣きたくなっていた。


***


 夜になって、誰か村の人が来たようだ。

 玄関のほうから話し声が聞こえてきた。


「そんな事、出来ませんよ!」

「だからこうして頭を下げて頼んでるんだ」

「だからって、孫を生贄に差し出せなんて、飲める訳ないでしょう」

「贄の保険だ。収まらなければ、もう一人寄越すって寸法だ」

「同じことじゃないか!」

「この村の人間は、皆覚悟してる事だ! ……これだから出戻りは」


 大人同士の怒鳴り声が聞こえて、怖かった。

 多分、夢だ。

 眠って、目が覚めたら、きっと大丈夫。


***


 朝になると、強風も黒い雲も無くなって、青空が広がっていた。

 嘘みたいに咳も無くなっていた。

 すごく雪比古に会いに行きたかったけれど、案の定、止められた。

 咳が無くなったと言っても、昨日の今日だからかな。


「お祖母ちゃん。出戻りってどういう意味?」

 朝食の時間に、何となく思い出した言葉を聞いてみて、失敗したと思った。

 味噌汁をテーブルに並べていたお祖母ちゃんは、なんだか落ち着かない様子で、お祖父ちゃんの方を見る。

 食卓に座って新聞を読んでいたお祖父ちゃんは、大きくため息を吐いた。

「祖父ちゃんと祖母ちゃんは昔、街へ働きに出てたんだ。桂吾のお父さんと叔父さんと叔母さんが大人になってから、また村へ戻ってきた。一回出て、戻ってきたから、出戻りだ」

「ふうん?」

 それが何か、悪いことなんだろうか。

 聞いてみたかったけど、聞いてはいけない雰囲気がしたのでやめておいた。


 せっかく天気が良いのに、外に出られないのはつまらない。

 お祖父ちゃんは昨日の強風で畑が心配だと、見に行ってしまった。

 今日はお祖母ちゃんは家にいて、洗濯をしている。

 布団で寝ているのも暇になったので、パソコンをつけてみた。

「……あれ? インターネットに繋がらない」

 スマホを見ると、叔父さんが設定していったはずのWi-Fiも飛んでいないようだ。

「また、烏かねえ? 前にも光ケーブルを烏がちぎっていったとかで、繋がらなくなった時もあるんだよ。誠二じゃなきゃ分からないね」

 電話も光電話にしていたから、固定電話も繋がらなくなってしまった。

 お祖母ちゃんは叔父さんに連絡を取ろうとしているが、今日に限って携帯の電波も弱いらしくって、アンテナが立つ場所を求めて家の中を歩き回っている。

 村に閉じ込められたような感じがして、急速に心細くなっていった。

 お母さんの声が聞きたくなって、僕もスマホの繋がる場所を探して家を出た。


***


 お祖母ちゃんに言ってくるのを忘れたので、敷地を出ないで家の周りを歩いてみた。

 アンテナが立った所で、お母さんに電話してみたけれど、繋がらなかった。仕事中なのかもしれない。


 不意に、背筋が寒くなった。

 何かに見られているような、人でない何かに、そんな気がした。


「桂吾」

 急に呼ばれて、飛び上がりそうになる。

 声の主は木の影から、狐の面の前で人差し指を立てて「静かに」と囁いた。

「雪比古、遊びに行けなくてごめんね。喘息が酷くなって……」

 言い終わる前に、雪比古に手を掴まれ、木陰に引っ張り込まれた。

 面を上げて、雪比古は顔を近づけて小声で言う。

「多分、オニが現れる。村の奴らはそう思ってるから、気をつけるんだ」

「雪比古は大丈夫なの? ゆうべ村の人が来て、僕を生贄にするとか言ってたんだ」

「俺は大丈夫だ。桂吾のことは守るよ。線香を焚いて、煙で結界を張るんだ。決して線香を絶やさないで」

 全然大丈夫じゃない気がして、不安は募る一方だ。

 そういえば、雪比古はお爺さんと一緒に神社に住んでいたはず。

「神社でお祓いとか、して貰えば済むんじゃないの?」

「今、神社に神職はいない。山向こうの村のと、麓の町のと、幾つかの神社を掛け持ちで見てるから、祭の時くらいしか来ない」

「雪比古のお爺ちゃんは違うの?」

「神社の掃除と修繕、整備を請け負う代わりに住ませてもらってるだけだ」

 それじゃあ、オニから守ってくれるのは、線香の煙だけなのか。

「僕のこと守るって言うけど、雪比古はどうなるの?」

 狐のお面を被っていて、雪比古の顔が見えない。

「桂吾は心配するな」

 それだけ言って、雪比古は消えるようにいなくなった。


 頭上から、甲高い悲鳴のような鳴き声と、羽ばたく音が聞こえた。

 怖くなって、家の中に駆け込んだ。


***


 夜になるころ、お祖父ちゃんは急に戸締りを始めた。

 普段開けっ放しの縁側の雨戸を閉めて、玄関も窓もいつも鍵なんてかけていなかったのに、何度も何度も確認して回っていた。

 物々しい雰囲気に僕は落ち着かなくて、立ったままお祖父ちゃんのすることを眺めていた。

「それで、敬一か誠二に連絡はついたのか?」

 お祖父ちゃんが、焦った様子でお祖母ちゃんに尋ねる。

「誠二には電話が繋がったから、敬一にも連絡するように言っておいたよ」

 頷くと、お祖父ちゃんは今度は天井の板を外して天井裏を確認し始めた。明らかに、普通じゃない。

「お父さんが来るの?」

「ああ、うん。お父さんも叔父さんもね、来て手伝ってもらえないかと思ってね」

 お祖母ちゃんの返答は、曖昧で要領を得ない。

 何を手伝うのか、何を恐れて厳重に戸締りをしているのか、何を聞いてもはっきりしないことに、少し苛立ちが募った。


「オニが来るの?」


 二人の動きがピタリと止まった。

「聞いたのか?」

 聞き返してくるお祖父ちゃんの声が、怖い。

「白い髪で青い目の子供が、オニの生贄になるんでしょう? ゆうべも誰か来て、僕を生贄にするって言ってたよね」

 言葉に出して言うと、現実になりそうで怖かった。

 でも、何も分からないままはもっと怖かった。

「村のもんが、そんな馬鹿げたことを言っているが、気にするな。桂吾をどこへもやったりしないから」

 お祖父ちゃんが近づいてきて、僕の肩に手を置いた。手は温かかった。

「言い伝えを本当だと思って、生贄が必要だと思い込んでいる人がいるんだよ。だから、桂吾を連れていかれないように、誰も入れないようにしているんだ」

「線香は焚かなくていいの? オニに見つからないように、煙で結界を張るんだって、雪比古が言ってた」

「オニなんて本当には居ないんだ。必要ない」

「でも……」

 それっきり、お祖父ちゃんは取り付く島もなくなって、それ以上言えなかった。


 夜中、甲高い悲鳴のような鳴き声で目が覚めた。

 電気を消した部屋は真っ暗で、雨戸を閉めているから、外の光も入ってこない。

 枕元に置いていたスマホの画面を見ると、ちょうど0時を表示していた。

 外で何か物音がした。

 オニが来たのかもしれない。

「そうだ、線香……!」

 スマホの灯りを頼りに仏壇の扉を開いて、線香を探す。

 マッチのすり方は叔父さんに教えてもらったから知ってる。

 震える手でマッチをする。何度か失敗して、やっと火が点いた。

 マッチから一本の線香に火を移そうとするけど、なかなか上手くいかない。

 焦るうちにも段々物音が大きくなってくる。

「点いた!」

 線香から煙が立ち上るのと、雨戸が大きな音を立てて破られるのは、ほぼ同時だった。

「うわ、わぁ! 来るな!」

 月明かりを背に迫る黒い影に線香を突き出したが、あっさりと払われて部屋の隅に飛んでいった。

 何か布のようなものを頭から被せられて、視界も意識も真っ暗になって、何もわからなくなった。


***


 誰かに呼ばれたような気がして、目を開けた。

 真っ暗だったけど、段々と目が慣れてくると、木造の古い建物の中だということがわかった。

「桂吾、起きたか?」

 白くぼんやり浮かび上がったのは、雪比古の姿だった。足を伸ばして座っていて、お面は付けていない。

 そこでようやく、僕は体の後ろで手首を縛られて、木の床の上で寝ていることに気が付いた。

 足首も縛られているので、苦労して体を起こした。

 どうやら、雪比古も同じ状態らしい。

「ここ、どこ?」

「神社の中だ。そこに御神体があるだろ?」

 雪比古に示されて背後を見ると、大きな鏡が祀られていた。

「何でここにいるんだろ?」

「攫われてきたんだよ」

「オニに?」

「俺たちを生贄にしたい人間に、だ」

 そうか、人間だから、線香が効かなかったんだ。

「ごめん。桂吾を守るって言ったのに」

 雪比古はすごくしょんぼりしていて、逆に僕が守ってあげなきゃと、そんな風に思えた。

「気にしないで。うん。……よいしょ」

 僕が後ろ手のまま手首の縄を外すと、雪比古は目と口をまん丸にした。初めて見る表情に、少し嬉しくなった。

「なんで縄抜けなんか出来るんだよ」

「叔父さんが教えてくれた、護身術。何回か練習したけど、手首を捻ったら意外と簡単に外せるよ」

 足首の縄も外すと、雪比古の縄も解いてあげた。

 でも、これからどうしようか。家に戻っても、僕を攫った人がまた来るかもしれない。

「このまま朝までここに居たら、駄目かな?」

「駄目だ。オニが来る」


 その時、甲高い悲鳴みたいな鳴き声が響いた。


「あれ、何? あれがオニの声なの?」

「あれは鷺の鳴き声だ。首と足が長い大きな鳥で、よく高い木の上に巣を作ってる」

 怖い声も、正体を知ってしまえば気が抜けた。

 オニが本当にいるのかも、一瞬疑わしく思えた。

「じゃあオニはどんな声をしてるの? 普通の鬼みたいに角が生えてるとか?」

「分からない」

 雪比古の答えは、想定外だった。

「オニは『隠』と書いて『おに』と読む。姿かたちも声も分からない。でも、良くないものだ」


***


 二人で相談して、山を降りようという結論になった。

 村に戻っても、また捕まって生贄にされるのがオチだ。

 かと言って、このまま山に居てもオニに喰われる。喰われるのか何をされるのか、本当のところはよく分からないけど、とにかく危ない。

 消去法だ。

 麓の町まで行けば、お父さんに連絡して迎えにきてもらえるかもしれない。

 村の人が追いかけてくるかもしれないけど、助かる方に賭けた。

 一人なら怖いけど、雪比古と二人なら大丈夫。


 建物の壁が破れた所を少しずつ広げて、無理矢理通った。補修前で良かったと、雪比古がしみじみ言ったのがなんだか可笑しかった。

 そこで、僕はパジャマで連れてこられたから裸足だということに気がついた。

 雪比古は自分が履いていたスニーカーを脱いで僕に渡すと、建物の縁の下に手を入れて何か取り出した。

 古びた樹脂製のサンダルだった。捨てるものをまとめて置いていたらしい。

 早速迷惑をかけた気がして、少し落ち込んだ。


 それから音を立てないように表の方を覗くと、赤い鳥居の所に二人、大人が立っているのが見えた。扉から出なくて正解だった。

 いつもの山道は使えないから、雪比古しか知らない獣道を通って山を降りることにした。

 灯りを持っていないから歩くのは大変で、なかなか進めなかった。

 足元が危なくなるたびに雪比古が手を引いてくれて、その温かさが、挫けそうになる気持ちを何度も奮い立たせてくれた。


 暫く走って、呼吸が苦しくなりだした。

 吸入器を持って来れなかったから、どうしても休まなければならなくなって、足手まといになったのが悔しくて、少しだけ泣いた。


 休んでいると、ふいに、甲高い悲鳴のような鳴き声が近くで聞こえた。

 正体が分かっているから、もう怖くない。


「鳥がいる」

 進む先に、大きな鳥がいた。首と足が長く、青い目をした白い鳥。

「白鷺だ」

「この鳥が鳴いていたんだね」

「待て桂吾、近づくな!」

 進もうとした僕の肩を、雪比古が掴む。

「この白鷺は、大きすぎる!」

 よくよく見ると、白い鷺の大きさは僕の身長の三倍くらいあった。まるでプテラノドンだ。

 白鷺が、甲高い悲鳴を上げた。

 大音量に、周囲の空気がビリビリと震えた。

 思わず両手で耳を塞いで蹲る。

 逃げなきゃ!

 雪比古が、僕の腕を引いて走り出した。

 道も何もない、とにかく遠くへ。出来るだけ遠くへ離れなくちゃ。

 暗い中、滅茶苦茶に走ったから、何かに躓いて転んだ。手を繋いでいる雪比古も一緒に倒れた。

 喉と胸が、ぜえぜえと嫌な音を出し始めて、すぐに立てなかった。

「……!」

 雪比古が、声にならない悲鳴を上げる。

 羽ばたく音が、近くに降りてきた。追いつかれた。


 頭に酸素が回らず、視界も狭まる中で、大きすぎる白鷺が近づいてくるのを見ていた。

 動けない僕を庇うように、雪比古が両手を広げてオニの前に立ち塞がる。

 ダメだ。行って。僕を置いて、君だけでも逃げて。

 声を出そうとしても、喉からはひゅうひゅうと苦しい呼吸音だけが漏れていた。


***


 巨大な白鷺の姿をしたオニは、雪比古の前で足を止めた。

 青いガラス玉のような目が、値踏みするように見ている。

 怪物のような姿でも、目には知性が宿っているように見えた。

『オマエハ……カ?』

 オニの声は、複数の人間が一度に喋っているような、何重にも重なった声だった。

『オマエハ、ニエ、ノ、コドモ、カ?』

 雪比古は恐怖で歯をカチカチ鳴らしながらも「そうだ」と答えた。

『ナラバ、ツレテイク』

 オニの大きく開かれた嘴が、頭上から雪比古に迫る。

 雪比古は一瞬振り向いて、笑った。

 白鷺は嘴で雪比古を挟んで持ち上げると、そのままつるりと飲み込んだ。

 目の前の光景が、すぐには理解できなかった。

「雪比古、雪比古、雪比古! 雪比古を、返せーっ!」

 恐怖は吹っ飛んでいた。

 ただ、雪比古を奪われた怒りが吹き出した。

 声の限り叫んだ喉には、血が滲んでいた。それでも構うものか。


 その時背後から、プシュッという、空気が漏れたような音が届いた。

 同時にオニの動きが止まった。

 もがきながら、どうにかして音のした方を見ると、迷彩柄の服を着た大人が、大きな銃を構えていた。

 何度か、同じ音が続く。

「サバゲー用のエアガンじゃ、化け物には効かないか」

「叔父、さん……」

 叔父さんが、来てくれた。助けに来てくれた。

「足止めにもならないか。猟銃免許を取っとくべきだったな」

 言いながら、僕の体を持ち上げ、肩に担いだ。

「逃げるぞ!」

「待って、雪比古が! 雪比古を助けなきゃ!」

「暴れるな、とにかく桂吾だけでも逃げるんだ」

 僕を軽々と背中に乗せて、叔父さんは山を降りていく。

 来る時に印をつけたから、迷わず麓まで行けると叔父さんは言った。

 でも駄目なんだ。雪比古と一緒じゃなきゃ。僕一人逃げるのは嫌なんだ。

 叔父さんに背負われているだけの僕は、無力だった。


 だけどすぐに、羽ばたきが追いついた。

 叔父さんと僕の行く手を阻むように、オニが降り立つ。

『ニエ、ノ、コドモ』

 叔父さんは僕を背中から降ろして、エアガンを構えた。

「俺が囮になるから、桂吾は逃げるんだ」

 白鷺を撃ちながら、叔父さんは叫ぶ。

『ヨコセ』

 長い首が叔父さんを薙ぎ倒す。

 絶望が近づいてくる。

 大きな嘴が開いて、口の中の真っ赤な空洞が僕に迫ってきた。

 僕は、オニに、食べられた。


***


 ジェットコースターにでも乗ったような気分だった。

 猛スピードで運ばれて、上下左右に揺すぶられ、最終的には回転しながら放り出された。

 吐き気を堪えながら体を起こすと、木の枝がたくさん敷かれた場所にいた。身体中がベトベトする臭い液体に塗れているのが、気持ちが悪かった。

 隣を見ると、同じようにベトベトの液体に塗れた雪比古が倒れていた。

「雪比古!」

 足元が悪い中、駆け寄って助け起こす。

 体は温かい。息をしている。生きてる。雪比古が、生きてる。

 程なくして雪比古は意識を取り戻し、呻きながら僕を見上げた。

 僕たちは、抱き合いながら、互いの無事を喜んで泣いた。


 一通り泣いて落ち着いてから、今の状況を確認してみる。

 木の枝が何重にも重ねられていて、深皿みたいな形をしていて、広さはバスケットボールのコートぐらいだろうか。鳥の巣のように見える。オニの棲家ではないかと推測をした。

 端の方に行って下を見てみると、地面に直接作られているようだ。大きすぎるので、木の上には作れなかったんだろうと、雪比古は分析している。

 今はオニは留守にしているようだけど、いつ戻ってくるかは分からない。

 早く逃げなければならないけど、逃げてもまた追いつかれるかもしれない。

 対策が思いつかないまま、まずはこの巣から降りることにした。

「何か、おかしいよ」

 真っ暗な空を見上げて、奇妙なことに気付いた。正確な時間は分からないけど、もう夜明けになってもいい頃なのに、いっこうに明るくなる気配がなかった。


 オニの巣からの脱出は、足場がそこかしこにあったので、最初は簡単に思えた。

 登るのは簡単だったけれど、外側はオーバーハングになっていて、最後は二人とも落ちて尻餅をついた。

 緊迫した状況なのに、また二人でいられることが嬉しくて、顔を見合わせて笑った。


 安心したのも束の間だった。近くの藪から、何かの影が飛び出してきた。

 雪比古はすぐに身構えて、僕はそんな雪比古の腕にしがみついた。

「……爺さん?」

 転がるように出てきたのは、雪比古と一緒に住んでいる、川辺のお爺さんだった。

 作務衣に白髪の老人で、何故か顔の右目の周りに青いアザが、鼻と口の周りには血を拭ったあとがあった。

「山の、頂上に、突然これが」

 荒い息の下、そう言ってオニの巣を指差す。

 昨日までは無かったはずだから、オニの巣は山頂に突如現れたことになる。

 お爺さんはもう喋るのも辛そうで、地面に座り込むと懐から何か取り出した。

 一束の線香と、百円ライター。

 まだあった、オニへの対抗手段が。

「持っていけ」

「爺さんも一緒に行こう」

 雪比古の提案に、お爺さんは、首を横に振る。

「ワシはすぐには動けない。お前たちは線香を焚いて逃げろ。アレに見つけられないように、絶対に線香を絶やすな」

 オニに狙われているのは、生贄の僕と雪比古だから、他の人間は大丈夫だとお爺さんは言う。

 でも、叔父さんもオニに襲われていたから、巻き込まれて怪我をするかもしれない。

「子供たちだけに、責を負わせるわけにいかない。早く、逃げろ」

「……分かった」

 雪比古が、僕の手を握る。強く、強く握る。

 火を点けた線香を僕が持って、手を繋いだまま麓へ向かって走り出した。


***


「やっぱり、何かおかしいよ」

 線香の煙に咽せて咳をしながら僕が言うと、雪比古が手を強く握ってくる。

 さっきから山の麓へ向かっているはずなのに、全然景色が変わらない。

 前に一度だけ頂上まで登ったけど、こんなに時間は掛からなかったはずだ。

 それに、空は暗いままだった。

「まだオニの領域なのかもしれない。とにかく、走るんだ」


 二人の声をかき消すように、不吉な羽音が重なった。

 吹き付ける強風に、線香の煙が吹き飛ばされる。

 ずっと走り続けてきた僕の足は傷だらけで、もうほとんど感覚がなかった。

 それでも前へ、前へと進む。


 甲高い悲鳴のような鳴き声が、すぐ後ろから聞こえた。

「オニが来る!」

「振り返るな!」

 首の後ろを何か鋭いものが掠めていく錯覚がする。

 片手に持った線香を咄嗟に振ると、煙が広がった。同時に気配も遠ざかった。

 そんなことを何度か繰り返し、段々と心も疲れ始めていた。


 そんな時、線香の煙が僕たちを誘導するように、前方へ流れていくのがわかった。

 その先に、小さな光が見える。

 多分、あれが出口だ。

「雪比古」

「なんだ?」

「僕は雪比古と友達になれて、良かったよ」

「これで最後みたいに言うな!」

「違うよ」

 繋いだ手を、握り返す。

「一緒なら、なんでも出来そうな気がするんだ!」

 そうして、二人で、光に向かって跳んだ。


***


 これは後から聞いた話だ。

 外から見ると、山頂は、黒い靄で覆われていたらしい。

 それが、大きな落雷のような轟音と共に、一瞬で消えたそうだ。

 叔父さんも、川辺のお爺さんも、全治三週間ほどの怪我だけれど、命に別状はなかった。

 僕と雪比古は山の入り口辺りで倒れていたらしい。

 かすり傷だけだったけれど、すごく疲れていて、丸三日間眠っていた。

 目が覚めた時は病院で、隣のベッドからこちらを見ている雪比古に気付いた時、大声で泣いて、みんなを困らせてしまった。


 あの不思議で怖い出来事の後、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは村を出て麓の町へ移った。僕を危険な目にあわせた村とは、決別するんだという。

 川辺のお爺さんは、怪我が治った後、村へ戻った。他に行くところもないから、村に骨を埋めるのだという。

 その辺りは大人の事情だとかで、詳しくは教えてもらえなかった。


 ただ、一つとても嬉しいことがあった。


 何でもない朝。

 玄関のチャイムが鳴って、僕は朝食のパンを慌てて口に詰め込む。

「いってきます!」

 ランドセルと安全帽子を取って、玄関を飛び出す。

 家の前で待っていたのは、僕と同じようにランドセルを背負って安全帽子を被った、虹色に光る白い髪と赤い目を持った男の子。


 雪比古が、叔父さんの家の居候になって、僕と一緒の小学校へ通うことになった。

 少し変わった髪と目の色をしているから、馴染めるか分からないなんて言っていたけど、大丈夫。

 僕が雪比古を守るから。


***


 遠くで、甲高い悲鳴のような鳴き声がした。

 きっと気のせいだ。そう、思うようにした。

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オニが出るよ つぐみもり @rondopiccolo

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