第3話

 その日の夜も、みんなが帰ったあとのカフェにりっちゃんのギターが響いていました。いつもと変わらない魔法のような指使いは、りっちゃんがまだミュージシャンである証のよう。

「さっきは怒ってくれてありがとうね」

 おずおずと近寄ってきたもじゃに、りっちゃんは優しく声をかけました。

 でももうあんなことしちゃダメだよ、とつけ加えて続けます。

「サーヤは歌が上手なんだよ。将来は歌手になりたいんだって」

——それじゃあ"ミュージシャン"のりっちゃんはどうなっちゃうの?

 りっちゃんの左手をきゅっと握ると、心の声が伝わったかのように、もじゃの手を握り返してくれました。

「コンサートで歌えなくても、私の音楽が好きって気持ちは誰にも取りあげられられ

 ないよ」

 もじゃはハッとしました。そうです、もじゃだって雲が好きで憧れる気持ちはなくしていません。今もちゃんと胸の中に残っています。

「だから夢を追うサーヤを素直に応援してる。もちろん、もじゃの夢もね」

「もじゃ……」 ——ううん、りっちゃん。もじゃは雲にはなれないの。

 もじゃは力なく俯きました。

「もしかして、今日は夢のことで落ちこんでいたの?」

 りっちゃんにはなんでもお見通しのようです。もじゃを抱きあげてテーブルの上に座らせると、りっちゃんはしっかり目をあわせました。

「私ね、夢って生き方だと思うの。夢が叶わないと、それまでの生き方が全部ダメに

 なっちゃうみたいで怖いよね」

 言いながら、りっちゃんは昔の自分のことを思い出していました。

 夢に手が届かない苦しさ。夢を諦めることを誰にも反対されない悔しさ。そして、かつての仲間たちが遠くへ行ってしまう寂しさ。

 今日のことだって、あの頃の自分なら耐えられなかったかもしれない、とりっちゃんは思うのです。ミュージシャンになる未来しか想像していませんでしたから、未来からかけ離れてゆく毎日を恐ろしく感じていました。

 でも今は違います。

「もじゃ、覚えておいて。夢は変化していいんだよ」

 変化。それは今日、きいたばかりの言葉でした。雲から生まれていつか雲に生まれ変わる、雨粒も使っていた言葉です。

「夢を見つめ直すのはチャンスなの。今までは思いつきもしなかった幸せを探すチャンス。大事なのは、変化する前の自分を置いていかないこと」

 雲になりたかった自分を連れて、もじゃはどこにいけるというのでしょう? まだ想像もつきません。

「私の今の夢はね、月になることなんだ」

 みんなには内緒だよ。りっちゃんは声をひそめて照れたように笑います。

「空に浮かぶ本物の月にはなれないけどね。でも月って、まんまるでも半分でも、三日月になっても輝いているでしょ。そんな月をみんな愛してる」

 りっちゃんは大きな窓から月を見あげました。ちょうど半分の月が夜空から街を照らしています。

「ミュージシャンになりたかった頃の私にもう光はあたらないけれど、せめて月みた

 いに輝けるようになりたいんだ。昔の私のことも、今の私のことも誇らしく思え

 るように」

 それはまるで、小さな雨粒が大きな雲へと変化していくように。ミュージシャンになる夢を追いかけていた女の子は、とっくに月になっているともじゃは思いました。もじゃにとっては、はじめからりっちゃんは輝く女の子でしたから。

 そんなことを考えながら眠りについた夢の中で、もじゃはりっちゃんと空に浮かんでいました。りっちゃんは月で、もじゃは雲。あたたかい月の光があれば、雲は暗い夜の空だって迷わず飛んでいける気がしました。


 しばらく経ったとある定休日。カフェのみんながもじゃを川辺のピクニックに連れてきてくれました。初めての川は風が心地よく、海を目指す水たちはそれは美しいものでした。

 ぽっかりあいた胸の穴はまだふさがりませんが、ここにいつか入るであろう新たな夢を想像すると今はなんだかワクワクもします。

 お弁当を食べた後、りっちゃんたちは白い風船をいくつも膨らませ始めました。そして、それらをバスケットにくくりつけると、仕上げにもじゃを中に座らせます。

「もじゃ、空を飛ぶ準備はできているか?」

 キョトンとしているもじゃに、店長うさぎがたずねました。バスケットと自分の腰をロープでつないで、なにやら準備運動をしています。

「空はきっと気持ちイイわよ」と、サーヤはレモン色の羽を広げてウィンク。

——空を飛ぶって、もじゃが?

 戸惑いながら振り返ると、りっちゃんと目があいました。とっさに言葉が出なかったけれど、大きく頷いてくれたので、もじゃも頷き返します。

「よし、いってらっしゃい!」

 りっちゃんがバスケットから手を離すと、風船たちはいっせいに空へと浮かびあがりました。もじゃを乗せたバスケットもそれに続きます。

 みるみるうちに離れてゆく地面を見おろすと、ロープを手繰る店長うさぎをサーヤとりっちゃんが支えていました。

「もじゃ、前だよ! 前!」

 空高くを指さして、りっちゃんが叫びます。

 顔をあげると、そこは空と雲だけの世界。

 どこまでも続く青に、怯むことなく浮かぶ白い“もこふわ“たちがどこまでも広がっています。

「もじゃ……!」

 これが空。これが雲。もじゃは体の内側でなにかが駆け巡るのを感じました。

——空に浮かぶ本当の雲にはなれないけど、雲と同じ景色を見ることはできるんだ!

 それは、これまでのもじゃには思いもよらないことでした。

——みんなにも見せてあげたいな。

 そう思ったとき、もじゃはまた胸のドキドキを感じました。雲になりたいと願った、あの瞬間を思い出すようなドキドキです。

——雲が見ている世界を、今度はもじゃがみんなに見せてあげたい!

 まだどうしたらいいかはわからないけれど、一気に膨らんだその想いが胸の穴を埋めてゆきます。

 風にさらわれないようバスケットにしっかり掴まって、もじゃはりっちゃんたちに大きく手を振りました。笑顔で振り返してくれるみんなの隣を、川の水がゆったりと流れてゆくのが見えます。

 もじゃは今日のことをいつでも思い出せるように、何度も何度も手を振りながら、この景色を目に焼きつけるのでした。

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ほこりの夢 雨森 紫花 @amemi06

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