第1話 運命というもの

「やあマリウス君、ごきげんよう」ここのボスであるナタリアは、部屋に入ってきたマリウスへそう呼びかけた。時計は9時32分を指してい。

マリウスが入ってきたのは新聞社2階の編集室である。この建物は1階が印刷所となっており、そこでは4台の印刷機がくだらないタブロイド誌をじゃんじゃん刷っていた。1階の内装は貧しく、無機質であり、まるで郊外の町工場のような趣だった。至る所にタバコの吸い殻が捨ててあり、これは安賃金で雇われた何人かの「恐慌」の失業者たちが、いまいましく吸っては捨てていったものだ。それに引き換え、2階の編集室は豪華であり、応接間には旧式のマホガニーの椅子と低いテーブルが拵えられていた。編集室全体は非常に狭く、だらけたような工合であった。壁には大量の書類棚が拵えており、これは建物の前の所有者が使っていたものをそのまま拝借したものである。部屋には作業用の机が6つあるが、現在使われているのは1つだけであり、その机でマリウスが仕事をしていた。他のデスクの記者たちは、失踪したか、別の新聞社に引き抜かれたか、ナタリアによってリストラされていた。新たに記者を雇おうにも見つからず、それでいてこの社の購買数や規模からして、記者はマリウス1人でも事足りたのだ。

部屋の奥には、フランス製の古い机が置いてあり、そこがボスの席だった。机には堆く書類が積もれているため、記者の作業机からはナタリアの顔は見えず、ただ声だけが聞こえるといった工合だった。ナタリアもマリウスも喫煙者だったので、編集室全体にもタバコの苦い匂いがいつも漂っていた。

「やあボス、ごきげんよう。調子はいかが?」とぶっきらぼうにマリウスは言った。「ひでえ朝ですな。この街は今日も朝から騒がしい。例の不況でクビになった連中が朝から隊列組んで騒ぎ立てていやがる。特に我慢ならないのがクロンボのやつらでさ。やつら、昼間から飲んだくれてるくせに一丁前に権利ばかり要求してやがる。やかましい連中だ」マリウスは自分の机に鞄を下ろし、帽子を脱ぎ捨て、椅子に座りながら捲し立てるように言った。

「気分は最悪だ。朝っぱらからうるさい社員のせいでね」ナタリアは言った。「でも、君の持ってきてくれたネタのおかげで少しはマシな気分かもしれない。すまないが今日は忙しくなるよ。明日の日曜版で記事にしよう。」

「じゃあ今日は一日事務作業ですか?」

「そうなるね。悪いが残業になりそうだ。今日中に書いて刷ってしまわないといけない」

「了解だぜ、ボス。まあ仕方がねえや。元はと言えば自分で持ってきたネタですから」

ナタリアはブロンズの色の髪をした女性である。容姿は淡麗だが、どこか純粋な幼い趣を残している。まるで「私は世間知らずなか弱い女性であります」と主張せんばかりの顔つきであり、そのあどけなさは多くの男性の興味をそそるものだった。目は黒色で、まるで死人のような目つきをしており、それのみが不可解で腹黒い彼女の本性を物語っているようだった。話し方も、言葉尻が柔らかく、お淑やかでありながら無邪気そうな印象を残していたが、声は女性にしては少し低い。このような女性というものは、接する者に少しでも聡明さと観察があれば内面のどす黒い側面を見抜けそうなものだが、彼女の場合、少女らしい話し方と低い声が調和し、それが内面をカモフラージュしていた。彼女と接する者は、男性であっても女性であっても、悪い気はしなかった。マリウスですら最初は彼女の本性は見抜けなかったのである。(そのために彼は、本当の悪魔はとても純粋な顔をしているものだと学んだ)


「ところで、マリウス君。一ついいかな?」ナタリアは言った。

「なんですボス?」

「君はこのネタを仕入れるために、ニューヨーク・ポスト社の記者の細君と寝たと言っていたね?」

「そうですが、どうしましたボス?」

「そのあとはどうなったのかね?その、細君とは」

「いや、寝取りはしませんよ。いいご婦人だったんですがね」マリウスは背伸びをしながら答えた。部屋にはナタリアとマリウスの2人しかいなかったが、2人の話し声を抜きにしても大分うるさかった。いなくなった記者の机の一つにアンティーク調のラジオが置かれており、そこからやかましい音楽が響いていた。流れていく音楽に耳を傾けていたマリウスは話ながら「歌っているのはインクスポッツだろうか?それともエラ・フィッツジェラルドだろうか?まあ、どうでもいいことだ。」と心の中で独りごちた。このラジオは去年マリウスが破産者の私財を売り捌く市のオークションで買い取ったものだった。

「あのご婦人には子供がいます。まだ赤ん坊なんですがね。ああいう仕事バカの細君は大抵寂しがってるもんで、こういうヤバい恋に変な情熱を注いじまうもんなんですが、子供がいる場合は事情が違います。どっかで正気に戻るんですよ、子供恋しさに。オレも流石に子供にゃ敵いやしません。もっとも、この手の話ではボスの方が詳しそうなものですがね」マリウスはナタリアの質問に、面白おかしくこのように答えた。

ナタリアは表情を変えず、鼻を鳴らして黙っていた。

「大丈夫ですボス。仕事以外では女と寝ません。おれが女と寝るのは仕事のためだけですよ。女より仕事の方が大事です。」


当初マリウスはナタリアに対し、まるで救世主かなんぞのように崇拝していたが、時を経るにつき、それは次第に落ち着いていった。しかしマリウスの特筆すべき点はその仕事に対する真面目さである。彼は成果のためならどんな危険も厭わず、汚れ仕事も自ら買って出た。ナタリアのことは異性としてはまるっきり信用していなかったが、仕事のボスとしては、まるで主君と従僕かなんぞのような関係にあった。マリウスはよくこう考えていた。「うちのボスはとびっきりの悪党だ。しかしおれはこの女に一生かけて返さないといけない恩があるし、それに悪党は悪党でも筋の通った奴はおれは好きだ」と。そしてナタリアにとって自分は都合の良い犬であるという事実も受け入れており、自分の仕事に関しても、それがまるで天命かなんぞのように考えていたのだ。ナタリアも、自分とマリウスの関係や、その仕事に対する姿勢は承知していた。

マリウスは自分の悲惨だった少年時代や、ナタリアとの出会い、そして今の記者業についてこのように考えていた。つまり、人間には誰しも固有の運命があり、若い頃は右往左往し、苦悩や貧苦のような暗い世界を彷徨うのであるが、少しずつ運命によって導かれ、自分が辿るべき道を歩むことになるのだということを。

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