月と25セント硬貨
バグパイパー
プロローグ
狂騒の1924年。人々が20年代を思い返す時、一種の独特なノスタルジーを持って、あの不安と自由の年月を思い返すことだろう。少なくともヨーロッパの最初の大戦の前に生まれ、2回の大きな戦争を経て、戦後社会を生きてきた筆者にとっては、特に思い入れの深い時代であった。あの時代には貧苦もあれば自由もあり、人々はみな生活に苦しんでいたが、言葉では言い尽くすことができない希望と解放感があった。まさに狂騒の時代だったのである。あの時代を生き抜いた者に、当時の話をしてみればみなこう言うに違いない。「あの頃は貧しかった。でも今となってはとても幸福な時代だった」と。
あの頃のアメリカ人は誰もが「負い目」を抱えて生きていた。あの時代の主役は、都市の労働者、路上生活者、貧しい暮らしをしている農業従事者だったが、彼らはみな、「自分が貧しいのは自分のせいであり、自分が努力を怠ったからだ。もし自分が本気を出して努力し、生きようとするならば自分は大統領にだってなれる」と、本気そう考えていた。彼らは自らの境遇に不平不満を言うことがなかった。どんな貧しい暮らしであろうと、すべては自分の責任だと考えており、それでいて自分の生を謳歌していたのだ。
彼ら20年代のアメリカ人が持っていて今の我々にないもの、それは「貧しさ」とそれに裏付けられた「希望」への要求である。彼らは1日中苦役し、仕事をしていた。しかしそういった努力をする者こそ「希望」を胸に抱いていた。その希望は成就しなかったかもしれない。しかし、あの時代が「希望」の時代であったということは、当時を生きたアメリカ人ならみな共感してくれるということを信じたい。
元来、アメリカというのは敗残者の国だった。我々の祖先、つまり故郷を捨て、未開の新大陸へと旅立った人たちというのは、破産者や貧民、逃亡者、狂ったような宗教的情熱から冒険に出た者たち、つまり当時のヨーロッパ社会においての落伍者であった。しかし落伍者と言っても、戦後社会に見られるような卑屈さは彼らにはなかった。むしろ自由と希望への欲求は人一倍強く、同時に底抜けの明るさがあった。そしてその明るさというのは、彼らに独特のもので皮肉めいたものではあったが、しかし事実として彼らの生は躍動しており、充実したものであった。
我々の主人公”マリウス”もそのような「古き良きアメリカ」の遺伝子を色濃く引き継いだ人物であった。彼の祖先がこの大陸へ移住してきたのは南北戦争のすぐあとのことである。祖先は貿易商だったが、彼らの息子たちは騎兵隊になった。もはや西部開拓時代の気風は時代と共に忘れていた時代であったが、マリウスの父もそうであり、彼はかの悪名高い第七騎兵団に所属していた。その後は退役軍人として自営業の雑貨屋を営んでいたが、1914年のヨーロッパの大戦にアメリカが参戦すると徴兵され、陸軍将校として戦死した。しかし不幸なのは、その細君、つまりマリウスの母も時を同じくして病死しており、さらに不幸なのは、彼の従兄弟たちも両親を亡くしたマリウスを放っておいたことである。特段、彼らの間に確執があったわけではないが、あらゆることが自己責任で、ヨーロッパのような縁故のつながりが希薄だった当時のアメリカ社会では珍しいことではなかった。しかしこの場合、彼の従兄弟らが残忍な人間であったわけではない。何かそこに悪意があったり、養育が面倒だったというより、自分の兄弟に子供がおり、それが今孤児となって困り果てている事実をすっかり忘れていたのだ。人間というのは時として純粋な無関心さからとんでもない悪事をしてしまうものなのである。
マリウスは14歳にして孤児となり、ニューヨークの五番街を彷徨う野良犬の1人となった。彼は生きるためにギャンググループを渡り歩き、そこで盗みや暴力、人を騙す術を身につけた。もしもこのまま彼が野良犬としての道を歩み続けるのだったら、彼が下劣な、心の曲がった都市のゴロツキの1人として、どこかのギャンググループに殺されるかするのは時間の問題だった。
しかし彼は幸運だった。運命が彼を救ったのだった。神というのは気まぐれで、時に人を奈落に落としては、それを掬い上げたりする。そこで救われた人は、ほんのいっときは今までの己の罪を反省し、正しい信仰の道を歩もうとするが、たいていの場合、半年かそこいらで忘れてしまい、元の罪深く堕落した生活に戻るが、ほんの一握りの人間は信仰を持ち続け、まるで聖者になったかのように振る舞う(我が主人公マリウスは前者であった)。しかし当時のアメリカ社会で不思議なのは、全く救われなかった人というのも、救われないのが自分の犯した罪のせいだとして、熱心に信仰を求めていたことである。そのような意味では、当時の信仰の中核は、貧しい農民や労働者か、都市を彷徨う浮浪者が担っていたと言えよう。
マリウスの信仰心については特筆すべき話がある。彼が五番街を新聞配達のダニエル少年(この少年についてはまた後述する)と歩いていた時のことだ。彼らはニューヨークでも名高い女子修道院の前を通りかかった。子供らしい世間知らずな好奇心でダニエル少年が「ここは何の施設なのか」と尋ねると、マリウスは面白おかしく侮蔑のこもった声でこう言った。「女を捨てた連中の住処さ。ここでは去勢された女どもがお互いに睨みあいながらキャベツばかり食べているんだ。」
かくいう彼も一時期は信仰にどっぷりと浸かり、本気で出家しようと考えていたのである。人間というものは、特に若く情熱的な人間は、ほんのいっときの感情の発露から、名誉のための殉教だったり、信仰への服従だったりに憧れ、そういった想念を抱いた自分を、他の人間より一等高い存在であると思い込みがちなのである。しかし実際は、凡人が何年も勉強や研究に身を捧げたり、月並みな労働に従事して財産を築き上げる方がいっそう勇気と忍耐の要求されることであるということを知らないのだ。故にいっときの気まぐれで何か信仰心や栄光を要求する者は、時間が経てば、これもまた気まぐれでそういった感情を忘れてしまう。マリウスもその手の人間であった。
話を戻そう。野良犬であったマリウスを救ったのは、ナタリア・ポンメルシーという女性である。出会ったのは、これもまた五番街であり、浮浪児のたむろする、汚く陰鬱な路地裏でのことだった。ナタリアは長身の女性で、その体格は多くの男性の魅力を引くようなものだった。なぜ彼女がこのような暗く危険な場所をうろついていたのかはわからない。それは神と、彼女のみが知ることである。しかし、なんにせよ、マリウスは野良犬の嗅覚から、彼女がこの国で"支配する側"の人間、つまり労働者に対する雇用主、つまるところ金をたらふく抱え込んだ連中だということを嗅ぎ出し、強盗の相手に選んだのであった。不幸なマリウスは、彼女がどちらかというと裏の、暗い社会の人間であり、身を守る術は一通り身につけているのだということを見抜けなかったのである。彼女を間抜けな、不用心なか弱い女性と思い込んだことが彼の誤算だった。
マリウスは敗北した。彼はナタリアに1911年製のコルトガバメント(自動式拳銃)を突きつけられ、いよいよ警察に突き出されるという瞬間に陥っていた。しかし、彼はニューヨークの拘置所にはぶち込まれることはなかった。彼女は彼を赦したのである。
ナタリアが彼を尋問した時、マリウスの嘘八百な口ぶりや嘘の事実をさも本当の語る狡猾さに彼女は非常に驚かされた。そして一応は中流家庭の教育を受けていただけあって、そこそこの知識と教養が備わっていることを見てとった。そこで彼女は、新たに立ち上げる新事業の相棒に彼を選んだのだった。彼女は彼女で、自分に忠実に従えてくれる忠犬を探していたのだ。
マリウスのような人間、特に中流の出であり、そこから落ちぶれたような若者は、たとえ社会の最底辺に堕ちてしまったとしても、"中流"の衣を脱ぎ捨てることはないのだ。彼は物質的なものの他に精神的な何かを求めていた。マリウスにとっては、どのような手段を使ってでも金銭を得て、生活を維持し続けることは急務の課題であったが、それと同時に、何か精神的な満足感をも同時に求めずにはいられなかったのだ。つまり彼にとって、死んでしまった親の代わりになってくれる人が必要だったのだ。彼は野良犬にはなりきれない、哀れな野良犬だった。ナタリアはそんなマリウスの弱みを直感し、彼を自分に忠実な犬へと仕立てようとしたのだ。
かくしてマリウスはナタリアの相棒となった。ナタリアの立ち上げようとしていた新事業というのは、主に政治家のゴシップネタを扱った、大陸の革新派層や自由主義的な気風を纏った連中に向けたタブロイド誌を発行する新聞社を立ち上げることだった。新聞社を立ち上げる上において、マリウスは自分の職務を忠実に果たし、時に「うまくやる」ことによって、ナタリアの事業にすこぶる貢献した。マリウスは信仰に関してはいい加減だったが、仕事をする上ではまるでピューリタンやこの国を最初に開拓したピルグリム・ファーザーズのそれと同じような真面目さと貫徹した信念を持っていた。ある意味当然のことではあるが、マリウスは自分を救ってくれて、仕事まで与えてくれた彼女を救世主かなんぞのように崇拝していたのだ。マリウスは物質的にも精神的にも満たされた生活を送るようになった。およそ人間というものは、物質的な快楽の他にも、無意識に仕事や役割を求めてしまうものであり、逆に自分の役割を持っていない者は、物質的に満たされていたとしても決して満足することはないのである。ナタリアはその心理を熟知しており、マリウスに仕事と居場所を与えることにより、実質彼を自分の奴隷にするができたのだ。
物語に入る前に、もう1人の主人公"ナタリア・ポンメルシー"の出自を書いておかねばならないだろう。彼女の祖先については謎が多いが、一つわかっているのは彼女の家は信仰の厚いジェスイットの気風をもった家庭であったということだ。両親は開拓時代から続くカウボーイの末裔であり、彼らもまた牧場を営んでいたが、一族で初めて、ナタリアは近代的な自由主義の観念を抱いて生まれた女性だった。彼女の少女時代は悲惨である。徹底的な合理主義、成果のためなら手段も選ばないという性格の彼女は、狂信的なその家庭においては冷遇された。彼女には4人の兄弟がいたが、その中でも序列は最低であり、両親からは「悪魔の子」であると罵られながら育った。なかでも酷かったのは、ことあるごとに両親が彼女を鞭打ちにしたことである。信仰というのは時に行きすぎると毒にしかならないのだ。彼女はいつも他人の顔色を伺い、それでいてことあるごとに皮肉を言うような卑屈な少女に成長した。両親の教育の方針で全寮制のハイスクールへ進学したが、そこでもその空間に馴染むことはなかった。教師もクラスメイトも、彼女の「悪魔的」な卑屈さを持て余していたのだった。
ナタリアの人生に変化が訪れたのは17歳になった頃である。彼女は突然、学校から逃亡した。ある日の朝、宿舎へ寮母が生徒たちを起こしに来た時、クラスメイトたちは、自分たちと同室の、あの陰気で卑屈な少女が消えていることに気付いたのだ。ナタリアはその不可解で関わる者に嫌悪を与えるようなその卑劣な性格から、まるで夜の霧の中からふっと湧いて出てきたかのような印象をクラスメイトたちは感じていたのであるが、実際に夜の霧が突然晴れるように、突然いなくなってしまった。
その日のハイスクールは休校となり、地元の警察とも連携しながら大捜索が行われた。しかし誰も彼女を見つけることができず、それどころか失踪した痕跡すら見つけることができなかった。文字通り蒸発してしまったのである。
その後、何らかの手段を用いて見事に失踪してみせたナタリアの動向は謎に包まれている。一説によるとマフィアの情夫になったとか、どこかの都市で強盗団をやっているとか、テキサスの田舎で売春婦をやっているとか、そのような話が残っている。きっと、その全てが事実なのだろう。彼女は、本来であれば、気になる異性だったり、少女らしい趣味や感性に向ける情熱を全て生存競争に費やしたのだ。彼女は、金や地位のためであれば、「性」や「女であること」を卑しく利用することも厭わなかった。彼女にとっては、そのようなことは目的を達成するための手段でしかなかったのである。そのようにして、いつしか彼女はニューヨークの光の当たらない世界ではそこそこ名の知れた人物にまでなった。そこに到達するまでに、たくさんの闘争や敗北があったことは想像に難くない。しかし彼女はその競争に生き延び、地位と金と影響力を得たのだ。そんな彼女が新たに始めた事業というものが、法律的にはグレーゾーンに当たるタブロイド新聞社の運営だったのである。
ナタリアとマリウスが設立した新聞社の名前は"イエロー・クリスチャン・ミニットマン"と言った。創業は1919年。紆余曲折あったが、そこそこの収益と購買層に恵まれた会社にまで成長していた。しかし、時代はすでに1920年代に突入しようとしている。狂騒の時代。世界恐慌によってアメリカ全土が不安と混乱に見舞われた20年代は彼女らをも包み込もうとしていたのだった。
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