3−2 絶望への階段

しかし、そのときの私は、私を売った老人を憎み、私を買った兄の親を憎む、という感情を持つにはあまりにも幼すぎました。

 両親の突然の死があり、私が浸っていた温かな時間は永遠に失われました。それからの私は抜け殻だったのだ、と思います。悲しみに暮れ、刹那、思い出されるのは、床に顔を突っ伏して慟哭する父親の姿と、下水の大きな汚物のようにその流れを堰き止めていた母親の姿なのです──。

 私は、あの女中に言われなくとも、私では無くなることを望んでいたように思います。

何も考えず、ただ兄の求めることに全力で応える。それが私なのです。兄の無垢な優しさは本物のように思えました。

 兄は八才でしたが、学校には通っていませんでした。ですが、学力に問題はありませんでした。優秀な家庭教師がお屋敷まで毎日、通ってきて教えてくれるのです。

 兄が、私と一緒に勉強することを望んでくれたおかげで、私も、どうにか人並程度の学力は保持することができました。

 時間は腐るほどあったので、子供が室内で、できるような遊びは、やり尽くしました。

 それでも一番兄が好きだったのは本を読むことでした。

 兄の隣の部屋は書庫になっていました。国内外の絵本から、百科事典、専門書、小説まで、ちょっとした田舎町の図書館よりも充実した品揃えだったかもしれません。

 私たちは、一日中、書庫にいることも珍しくありませんでした。朝起きて、朝食を済ませるとすぐに書庫へ向かい、まず、その日、一日かけて、読む本を選びます。部屋の中央には閲覧用の大きなテーブルがあり、その上に選んだ本を重ねるのです。

 そうやって上から順番に、一日中、好きな本を読み耽るのです。自然、兄がそうしている間は、私も、兄の隣に座って本を読むようになりました。

 出会った頃の兄はまだ八才でしたから文字の大きい、挿絵の入った子供向けの小説を中心に読んでいました。そのころの私は、まともに文字を読むこともできなかったので、楽しそうな絵が書いてある本を選び、兄はそれを読み聞かせてくれたのです。

 文字が少しずつ読めるようになると、兄の読んでいる本を、私も読むようになりました。

 兄は、江戸川乱歩の『少年探偵団』シリーズが大のお気に入りでした。怪人二十面相を追いつめる明智探偵や小林少年の活躍に心躍らせていたのです。

 病気で外に出ることのできない兄は、心だけはお屋敷を飛び出し、明智探偵や小林少年と共に、暗く奥深い鍾乳洞に身を潜ませ、怪人二十面相を追いつめていたのかもしれません。

 しばらくすると江戸川乱歩の子供向けシリーズは読み終えてしまいました。江戸川乱歩が他にも作品を書いていることは知っていました。実際、書庫にも並んでいました。しかし、それは大人向けの文庫本で、文字も小さく、タイトルも興味をそそられるようなものではなかったため、兄は手を伸ばせないでいるようでした。

 それでもきっかけができたのは、書庫にある子供向けの小説をすべて読み終えてしまったからでした。

 兄が本棚から取ったのは『D坂の殺人事件』という作品でした。それを選んだのには理由はなく、何気なく取ったようでした。

 しばらくのち、読み終えた兄は顔をあげました。少しの間があり、ぼそりとつぶやきました。

「おもしろい……」

 それだけ言って、『D坂の殺人事件』を私に差し出しました。私は受け取り読みはじめました。夢中になりました。所々、読めない漢字もあったのですが、その得も知れぬ不思議な世界観に酔いしれていたのです。『少年探偵団』シリーズのような派手でわかりやすい物語ではありません。明智探偵は出てきますが、まったく違う人間のようでした。

 古めかしい町並みで起こる、恐ろしい殺人事件を、冷静に推理する明智探偵の姿に、『少年探偵団』シリーズとはちがう衝撃がありました。そして子供だった私には、まだ見てはならぬ大人の世界を盗み見た気がして、何か体の奥底で、芽生えを待っている感情を刺激されているような思いがあり、ゾクゾクしたのでした。

 まだ子供だった、兄と私は、そのような未体験の感覚を言葉で表すことなどできません。ですが兄も、私と同じような想いだったのは表情を見れば察することができました。

 私たちはそれをきっかけに江戸川乱歩の、大人向けの作品を貪るように読みはじめました。

『孤島の鬼』『湖畔亭事件』『鏡地獄』『押絵と旅する男』『パノラマ島奇譚』

 それまで経験したことのない、目くるめくような読書体験となりました。

 そして巻末の解説を読むと、乱歩の作品、とくに明智小五郎が名探偵として活躍する作品は、ミステリー小説、と呼ばれていることを知りました。その解説の中で、ちらほら『横溝正史』だとか『エラリークイーン』という名前が出てきました。

 乱歩作品をすべて読み終えた後、『横溝正史』の作品を手に取りました。明智小五郎とは違ったタイプの名探偵『金田一耕助』にも、私たちは心惹かれました。その流れで初めての海外作品、エラリークイーンの『Yの悲劇』を読みました。あまりの面白さに捲る手を止めることができませんでした。私たちはそのようなきっかけで、国内外のミステリー小説、とくに本格ミステリー小説に夢中になっていったのです。

 国内にも海外にも多くのミステリー作家がいて、たくさんの作品があることを知りました。

 書庫にはミステリー小説の蔵書は少なく、一人の作家の作品がすべて揃っていたのは乱歩ぐらいだったのですが、兄が欲しい小説を、父親に言えば、速ければ次の日、遅くとも三日以内には、手元に希望の作品が届くのでした。

 そして時は経ち、私は十五才、兄は十七才になっていました。さすがに二人でトイレに行くことはありませんでしたが、お風呂も寝るのも一緒でした。車椅子を押すのは女中ではなく、私の役目で、階段の車椅子用リフトの椅子の乗り降りも、兄は、上半身を鍛えたおかげで、腕の力を使い、自分でできるようになりました。そのころになると、私は、ほとんど女中に叱られることは無くなっていました。四六時中、一緒にいるわけですから、私は兄の性格を知り尽くしていました。不満を抱かせぬよう、言動にさえ気をつけて行動すれば、兄を不快にさせることなどありませんでした。

そして相変わらず、私たちの中心にはミステリー小説がありました。

この共通の趣味があるからこそ、私は兄と強い繋がりを持ち、味方でありつづけてくれるのだ、感じていました。

 もはや国内外の本格ミステリーと呼べるフィールドの作品はほとんど読みつくしていました。お気に入りの作家の、新作を心待ちにしているような状態だったのです。

 兄が大のお気に入りだった作家は大郷院貞麿でした。名探偵、心持愉快こころもちゆかいに心奪われており、それは特別なもので、いつも冷静な兄が、こと心持愉快の話になると顔が紅潮し明らかに興奮しているのがわかるほどでした。

 そして兄はぽつり、と言いました。


「僕にもミステリー小説が書けるかな……」


 それは自然な流れだったのかもしれません。これだけミステリーに埋没していると、読むだけに飽き足らず、書くことにも興味を持ってしまうのです。私にさえ、そのような思いが少なからずあったのですから──。

 しかし、私は、自分から何かをやりたい、という気持ちはすべて押し殺していました。すべて兄、ありきなのです。兄の行動があり、それに付随して私の心も体も動き出す。いつのまにか、そのような体になってしまっていたのです。

 私は兄の言葉に一抹の不安を感じていました。

 趣味の範疇で小説を書くのであれば何の問題もありません。兄が小説を書き、私がそれを読む。どんな内容であれ、兄を満足させるために褒め称えていれば良いのですから。

 私は、この屋敷に来てからというもの、常に物事を先回りして考える癖がついていました。そんなとき、私は最悪のシナリオを想定します。

 兄がどんな作品を書いたとしても、私には、それを否定することなどできません。

すると兄がそれを勘違いして、自分の両親に対して、小説家になりたい、という希望を言葉に出してしまったら──。

 父親はそれを全力で叶えようとするでしょう。しかし、お金の力で小説家になることなど、可能なのでしょうか──。

 もしも兄に突出した小説家としての才能があったとしたら別です。すぐには無理かもしれませんが、新人賞に応募を続ければ、小説家になれるかもしれません。

 今でこそ、数えきれないほどの小説の新人賞がありますが、その当時、賞の数は少なく、特にミステリーの賞は『江戸川乱歩賞』ぐらいしかありませんでした。

 ただこの賞は当時から、生半可な才能が太刀打ちできるような賞ではありませんでした。

 受賞作を読めば一目瞭然なのです。光り輝く稀有な才能が、惜しみなくその力を作品に注ぎ込み、文章、構成、アイデア、トリック、そのすべてが一流でなければ、受賞は叶わない──。そのような新人賞でした。

 兄が敬愛する大郷院貞麿でさえ、その時代が求めているミステリーに合わなかった、というハンディキャップがあったのかもしれませんが、最終候補止まりで、受賞には至らなかったのですから。

 そういった、私のシミュレーションが考えすぎの妄想であることを祈りました。

 しかし残念なことに、現実が私の妄想をなぞりはじめてしまったのです。

 小説を書きたい、と呟いてからすぐに兄は小説を書きはじめました。

 およそ一年近くかけて、兄はミステリーの長編作品を書き上げました。案の定、兄は私に読んでくれ、と原稿用紙を差し出しました。

 私は不安な気持ちの中にも、もしかしたら、とわずかな期待を込めて、それを受け取りました。

 読み始めてすぐに嫌な予感がしました。しかし、ミステリーは最後まで読み終えないことには正当な、作品の評価はできないのです。私は読んでいる間、地面すれすれに低空飛行を続けるパイロットの気持ちでした。なんとか機体を上昇させようと全力でレバーを引いていたのです。

 しかし、あえなく機体は一度も上を向くことなく、墜落してしまいました。

 やはり兄には小説を書く才能などなかったのです。

 しかし、読み終えた私は、兄の作品を絶賛するしかありませんでした。どこからか現れ、兄の部屋にいた女中は、その様子を見て、いつのまにか消えていました。

 それで自信を得たのか、兄はその日の夕食の席で、兄の父と母に、僕には人生の目的ができた、と声高に宣言したのでした。

 それは『江戸川乱歩賞を受賞して、小説家としてデビューする』というものでした。

 兄の父親は鷹揚に頷き、母親は、理由はわかりませんが泣いている様子でした。

 父親は兄に対して、その目的が叶うように、全力でサポートする、と言いました。母親はその言葉を聞いて、泣きながら頷いているのでした。

 私も、兄の父親に全力で兄をサポートするように言われました。

 私はいつものように大きく頷きました。いつもの満面の笑みを作ったつもりです。ですが、引き攣っていたかもしれません。

 父親が私に声を掛けるときは、命令を与えるときだけでした。

そうです。父親は、私に対して、兄に『江戸川乱歩賞』を受賞させろ、とそう命じたのです。

 今まで、兄の希望を満たし続けてこられたのは、兄がこのような特殊な環境にいる割には凡庸な人間だったからです。

 最初のうちはとまどいましたが、ちょっと気を利かせて先読みすれば対応できないことなどありませんでした。そして私が明らかに叶えられないような、金銭が必要となる願い事はすべて兄の父親が叶えていました。

 父親が兄の願い事を聞き、金銭で解決できることであれば、私に振るようなことなどありません。ということは父親は、この願いを金銭で解決できない願い──。要するに私が満たすべき仕事である、とそう判断したのです。

 凡庸な兄は、これまで大きな夢を語ったり、私が連れて来られた件は別として、基本的に、お金で解決できないような、無茶な願いを言葉にすることなどありませんでした。

 ですから私は、ミステリー小説というものに心酔していく兄の姿を見ながら、言い様のない恐怖を感じていたのです。

 おそらく私は、凡庸な兄には、似つかわしくない、ミステリー小説に対してだけに向けられる、大きな想いが、大きな願いに変わってしまう、その予兆に恐れ戦いていたのかもしれません。

 私は頭を抱えました。どのようにしたら小説を書く才能の無い人間に、『江戸川乱歩賞』を受賞させることなど、出来るのでしょうか──。

 おそらく兄の両親とも、兄のために書庫を用意したのであって、彼らは、本を読む人たちではないのだろう、と思いました。

 江戸川乱歩賞を受賞するということがどれほどに難しいことかを、おそらく理解していないのです。ですから、その役目を気軽に押し付けたのでしょう。

 しかし、この仕事を成し遂げられなければ私は、お払い箱になるのです。この十年間、屋敷から一歩も出ることなく暮らしてきたのです。今さら、外に放り出されても、生きていける自信などありません。それどころか、金で幼女を買い取るような人間たちなのです。

 願いを叶えることができなければ、私は殺されてしまうかもしれません──。

いえ、きっと殺されるに違いありません──。

 私はその夜、恐怖で眠れませんでした。寒くもないのにガチガチと震えが止まりませんでした。

 その原因が自分にあることなど夢にも思わず、私を心配してくれて、兄は、いつもより強く抱いてくれたのです。

 私は、兄のことを愛していました。

 与えられた仕事として叶えてきた兄の希望も、いつしか私の喜びに変わっていったのです。

 兄の、すべての願いを叶えてあげることが私の生きがいになっていました。

 ですが、今回ばかりは──。

 私は必死に考えました。

 そしてある方法を思いつきました。ですが、これは大きな賭けでした。賭けてみて結果が二度、三度出なければ、あきらめるしかありません。

 思えば、このことを考えついたことが、今の私に繋がっているのです。

 そして、それは思いもよらない結果を生んだのです。

まさにそのときこそ、私を取り巻く人間、そのすべてを巻き込んでしまう、大きな不幸の渦が発生した瞬間だったのかもしれません──。


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