2−2 第一次選考委員 青山輝道
輝道がはじめて選考をする作品である。輝道はテーブルに積み上げられた原稿を前にして、興奮していた。
すべてが原稿用紙で三百五十枚を超える作品である。一朝一夕にできるものではない。投稿し続けてきた輝道には、その苦労は理解できた。
皆、小説家になりたい、という大きな目標のもと、真剣な想いで作品を書いているのだ。そして、その作品の裁きを下すのが輝道だった。輝道の決断は、その作者の人生を変えてしまうかもしれないのだ。そう思うと、輝道は身が引き締まる想いだった。
だが、読み始めて少々がっかりした。推敲不足の作品が多く目についたからだ。
言葉の単純な間違いや、同じ章の同一人物なのに、僕から私へ、一人称の呼び名が変わったりする。
二、三回、きちんと読み直せば、絶対に気づくはずだ、と思えた。
輝道は審査する立場になって、はじめて気づくことがあった。
単純に、誤字脱字が多いだけでも、作品が思った以上にマイナスの印象になると感じたのだ。
書いているときは、物語自体が面白ければ多少、文章が悪くても関係ない、と思っていた。
だが、その物語を読者に伝えるのは文章なのである。文章がある程度のレベルに達していないと、面白さは伝わらない。
読んでいて間違った語句にかかると、そこで読むのが止まる。リズムが崩れるのだ。
そうすると物語が頭に入ってこない。
そう考えればきちんと推敲するだけで、作品の印象はまったく違うものになる。
おそらく甲乙付けがたい作品が二つ並んだ場合、きちんと推敲されている方を選ぶだろう、と思った。
残念ながら、今回、輝道が読んだ中で単純に面白い、と思えた作品は、後に優秀賞を獲ることになる『義兄弟』だけだった。
輝道が投稿していたころ、その作品のほとんどが一次落ちで、一次を通過できただけでもひどく喜んでいた。
しかし、この現状を知って、少々がっかりした。
今回、『義兄弟』があったから簡単に一次通過となる作品を決められたが、その他の作品はどれも似たようなものだった。そうなると、ほぼ横一線の凡作が、一つの選考委員に、四つないし五つ集まるというのは十分考えられる。
そうなると推敲をきちんと行えば、ストーリーに面白みが無く、突出したトリックもない、有体の作品だったとしても、一次選通を過してしまうことになるのだ。
一次通過とはその程度のレベルでしかなかったのだ。
さらに輝道の気を滅入らせたのは、突出してレベルの低い作品があったことだった。
それが、輝道のブログで悪評を載せた『二つ目の町』という作品だった。
『義兄弟』が断トツの一位だとしたら、『二つ目の町』は断トツのワースト一位だった。
聞いたことのない漢字を組み合わせて、恐ろしいほど読みにくい文章だった。設定も支離滅裂で、名探偵が三人も出てくるのだ。それが面白い方向に動けばよいのだが、そんなことはまるでなかった。
輝道は、この作品を読んでいる間、何度も原稿を床に思い切りたたきつけたくなる衝動に駆られた。それでも、他の作品の三倍ほどの時間をかけてようやく読み終えることができた。枚数もそんなに多いわけではない。八万字程度だ。長編としては短い位の作品だった。
しかし、その作品を読むことは、国語辞典を読む方が、まだ楽かもしれないと思えるほどの苦痛を伴う作業だった。
読んでいる間も、読んだ後も、輝道は、しばらく怒りがおさまらなかった。
読み返したときに、自分の文章の不可解さにどうして気づかないのだろうか。輝道は不思議で仕方がなかった。
物語にリアリティを持たせようなどという努力は微塵もなく、作者は自分の行き当たりばったりで思いついたことをとりあえず書き、辻褄が合わなくなれば、別の話を盛り込む、といったひどく一貫性のない作品だった。。
それは『Mミス』に対しての冒涜だと思った。真剣に書いている、他の投稿者に対して失礼だと、輝道は本気でそう思ったのだ。
輝道が選んだ『義兄弟』が優秀賞を獲得したことが嬉しくて、そのことをブログに書いた。その流れで輝道が審査した全五作品の選評を載せてしまったのだ。
そのときに、この『二つ目の町』のことを思い出した。同時にそのときの怒りの感情も再燃してしまった。そして思いのままに『二つ目の町』の感想を書いてしまった。
そして投稿作の内容を信じるのであれば、運悪く作者の兄がブログを見つけてしまい、それをきっかけとして、その妹と母親が窮地に追い込まれたから、その責任は輝道にある、と訴えているのだ。
やはり滅茶苦茶な理論だと思った。
たしかにブログに無断で感想を書いたのはこちらが悪い。
ただ、それは作者本人に現実を知らしめるきっかけを作っただけだ。作中の内容が真実ならば、才能がないことを認識しなければならない日は必ず来るはずだ。
もしも、その兄が、輝道のブログを見ていなかったとしても、遅かれ早かれ、同じ道を辿るのは目に見えているのだ。
いくら妹と母親が褒めそやしたところで、落選続きという現実は、突きつけられる。いつかは自分の才能の無さを知ることになるのは間違いない。それをこの二人は、ただただ、先延ばしをしていたに過ぎない。そのすべてを輝道のせいにして、さらに罪を償ってもらうなどとはあまりにも見当違いな話ではなかろうか。
ただ輝道が得体の知れない気持ち悪さを感じるのは、これを『Mミス』の投稿作品として送ってきたところにあった。
主人公の兄が、作中で最後に投稿したのは第四回の『Mミス』となっている。そうなればおよそ一年前には一次落ちの落選を知り、兄に殺されないために、輝道を悪者扱いするやりとりは行われているはずだ。
なのに、なぜ一年も先になる、募集の締め切り後しか読まれない投稿作品という形で送ってきたのだろうか。
単純に、作中の身元が特定できたというのは嘘で、単純に脅迫文を送る、という形がとれなかったのかもしれない。
それでも、今、輝道がこれを読んでいるのは作者の運が奇跡的に良かっただけなのだ。
輝道が『Mミス』の複数いるうちの選考委員の一人である以上、この作品を一次選考で読める確率はわずか五パーセントに過ぎない。
本気で脅迫したけれそのような形で送ってくるはずがない。
本当にわけがわからなかった。
ただ実際、輝道の元へ届いていることと、このような形で作品を書き、一見、無意味なことを真剣に行っている、不可解な精神性に対し、非常に気味の悪いものを感じるのだ。
それでも不思議なことに、このあまりにも非日常的で謎めいた出来事が、日々、輝道の中で、鬱積している黒々とした塊を、ほんの少し打ち砕いてくれたように感じたのだ。
輝道は、悲しみと絶望に彩られた日常から逃れ、この謎めいた非日常にもう少し体を埋めていたい、と思った。
だから輝道はもう少しだけ、この非日常に体を委ねることにした。
もしもこの作品が、輝道ではなく、他の選考委員に届いていたら、どのように判断されたのだろうか──。
おそらくその選考委員も面食らうだろうが、こういう題材のミステリーだと認識するに違いない。そしてこれが作品ではなく、本当に輝道へ宛てた『脅迫状』であるのなら、あたりまえであるが、他の選考委員に届いた時点で、その効力は失われる。
当然、他の選考委員にとってはまったく身に覚えのないことだからだ。他の選考委員は『二つ目の町』も読んでいない。そうなればブログで酷評することもない。『あなたへ』と呼びかけられても、それが自分であると認識するはずがないのだ。
もしも他の選考委員に届いた場合は、いったいどうするつもりだったのだろうか。
それとも、その場合は、告発文として考えていたのだろうか──この内容であれば、これは現実のことかもしれないと想像するのは、そう難しくない。実際、作中にでてきた輝道のブログは存在していたのだ。
選考委員が興味を覚えてネットで検索すればブログの存在の確認くらいはできるかもしれない。
その選考委員がMミスに告発するのを期待していたのだろうか──。
それも難しいように思えた。他の選考委員は、これを小説作品として認識するだろう。
本格ミステリーの中にはメタミステリーという特有のジャンルが存在する。
簡単に言うと、作者自身を主人公とし、現実に生活している環境を小説世界の題材の一部として、それがあたかも現実に起こっているかのように錯覚させるような仕組みのものだ。
三津田信三という作家がいる。本格ミステリーとホラーを見事に融合させた作風で本格ミステリー界のみならず、ホラーの世界にも大きく名を馳せる実力派の作家だ。
この人がかつて小説世界の主人公を自分と同姓同名にし、職業もミステリー作家とし、読者にとってはどこまでが現実で、どこからが非現実なのか判断できないような、虚実の境界線が曖昧模糊としたメタミステリーの傑作を発表した。これだけでもすごいのだが、作中に登場する作品、所謂、作中作に、絶対的なリアリティを持たせるために、現実にその作品を執筆して、某新人賞に投稿したというのだ。
このようにすでに商業出版されている作品の中にも、そういったものが存在するのだ。そうなると、この作品は他の選考委員が読んだ場合、、作者の冒険心と共に、投稿されたメタミステリー作品であると判断されるに違いない。
他の選考委員も輝道と同じように本格ミステリーの愛好家であることは想像に難くない。
当然、前述の三津田信三にしても、メタミステリーの存在ついても知らないはずがない。
やはり輝道に届いてこそ、この作品は脅迫状としての効力を発揮するのだ。
仮に、誰が読んでも良いように書かれた投稿作品と捉えた場合でも、輝道にしか知りえない情報が多すぎるように感じた。
輝道が、第三回と第四回で、選考した作品は現実に存在し、輝道のブログも実名のままで、実際に存在した。輝道以外の人間に読まれることを想定すれば、このあたりも少々、濁して書くのが普通の感覚のような気がする。
そして一章の最後に、作者は輝道に対して呼びかけているのだ。
罪を償ってもらうと──。
住所も作者曰く特定している、という。
これも作品ということであれば、この呼びかけは輝道以外に効果はない。
最後にこういう呼びかけをするのであれば、具体的にどのようなものか、と言われると困るのだが、どの選考委員が読んでも、もしかしたら自分が過去に、作中に言及されている作品を審査したのかもしれない、と思わせるような作りにすべきだろう。ブログで酷評された、と書いている時点で、自分は該当しないとすぐにわかってしまう。
こう考えていくと、この作品は投稿作品なのか脅迫文なのか告発文なのか、わからないが、何らかの方法で必ず輝道が読むように仕組まれたもののように思えてならなかった。
それはいったいどのような方法なのか──。
輝道に届いた五作品は例年通り、『M市教育委員会』の『Mミス事務局』から直送されている。
前述のとおり、ダンボールにはきちんと封がされており、他者の手が入る余地などない。
それでは作品をそれぞれの選考委員に割り振っている『Mミス事務局』の手によるものなのか──。
投稿者は事務局の人間と繋がりを持っていて、その力を借りて、この作品を私に割り振らせたのだろうか──。
『Mミス』に関しては『M市教育委員会』の『文化課』という部署に事務局が置かれていたはずだ。輝道は今回で『Mミス』の選考委員をつとめるのは三回目になるが、毎年、作品が届いた直後に、事務局の担当者から到着確認の電話が入っていた。前二回の担当は山口という女性だった。今回も数日前に連絡が入っていた。今回は山口ではなく、
輝道はその話を聞き、少し驚いた。
山口とは第三回と第四回の出版記念パーティのときに、少し話したことがあった。一次選考委員は毎年、M市で行われる受賞作の出版記念パーティに招待されるのだ。
山口は、三十手前の落ち着いた感じの女性だった。物腰も柔らかく丁寧な言葉使いが印象的だった。仕事もきめ細やかで、はじめて選考委員になったときなどは、到着確認の連絡の後にも、何度か、選考の様子窺いということで、電話をくれた。本気で『Mミス』を大きくしたいのだという気持ちが伝わってきたのを憶えている。
だから急に辞めたということに驚いたのだ。
その新担当の諸味という女性も、話したのは電話だけであるが、明るい声音の話しやすい人間だった。たしか他の部署から数カ月前に文化課に異動してきたと言っていたのを憶えている。山口の辞めた理由は気にはなったが、深いつながりのない自分が聞くのは、あまりにも、差し出がましい、と思い、言葉を呑み込んだ。
たとえば諸味が、投稿者と繋がりがあって、輝道にこの作品が届くように仕向ける、というのはありえるだろうか──。
それはあまりにも都合が良すぎるような気がした。異動してきた諸味と作者が繋がりをもっている、というのもそうであるし、作中の内容が現実であると仮定するならば、ことの発端は第四回の作品が落選したところからはじまっている。その時点での担当者は山口だったのだ。このとき、山口が辞め、その後任が諸味になるということなど、誰にもわかるはずがない。それとも諸味が文化課に異動したのを把握し、この短期間で諸味を買収することに成功したのだろうか。
俺の空想力も捨てたもんじゃないな、と輝道は思った。
だがリアリティがない。
だから俺は小説家になれなかったんだ。
輝道はこの絵空事を打ち消した。
やはり、単純に、作中の、輝道の住所を把握している、というのは嘘で、結局、わからないから、作品で投稿するしかなかった、という結論になってしまうのだろうか──。
住所がわからなければ、脅迫状を届けようもないが、輝道が選考委員をしていることはわかっているので、投稿作品の体裁を整えて送れば、少ない確率であるが、輝道に届くかもしれない。その低い可能性に賭けたということか──。
脅迫状だけであれば、どんなに長くても原稿用紙三十枚で事足りる。しかし、それでは事務局に届いた時点で、枚数の規定に達していない、という理由ではねられてしまう。Mミスの応募規定では、原稿用紙で三百五十枚以上は必要なのだ。だから無理にでも、作者は脅迫状を長編小説に仕上げて、送ってきた、という考えが浮かび上がった。
そう、あれこれ考えているうちに、この作品から感じられる不気味さは薄れ、なんだかこの人間たちが酷く哀れに思えてきた。
自分に才能がないことを薄々感じながらも小説を書き続ける兄──。その兄の暴力から逃れるために、現実を直視せず、その場しのぎで兄を誤魔化しつづける母と妹──。挙句の果てに選考委員である輝道に責任をなすりつけるために、小説を書いてまで脅迫しようとしているのだ──。
また窓外を見た。夕日がゆるゆると遠くの山の端に溶けようとしている。
これは自分なのだ。そう思った。
現実を直視せず、逃げようとしている。
日々が辛く苦しいのは、亡くなった弥生と言葉を無くした五月のせい──。
ちがう──。
輝道は五月と弥生に後ろめたさを感じていたのだ。
まだ弥生が死んで数カ月しか経っていないのに──。五月は言葉を失い苦しんでいるというのに──。
部屋のドアがゆっくりと開いた。
〈彼女〉は私に近づいてきて、背中にぴたりとはりついた。
柔らかく温かな感触が背中に広がる。
贖いきれない。背後から私の胸に回された両手をほどくことができない──。
「そろそろ行かないと……」
それに身を委ねたくなる欲望を、振り払うように輝道は言った。
「どうして……? 寂しいわ……」
「五月が待ってるんだ……」
「あなたも五月ちゃんもここで一緒に住めばいいじゃない……」
輝道は無言のまま、首を振った。
「今はまだ……申し訳ない……」
するとゆっくり手が解かれる。
輝道は振り返り、〈彼女〉を強く抱きしめた。
弥生と五月、そして今、読んだ小説の中の人間たちがごちゃまぜになり、頭の中でドロドロと溶けてゆくのが見えた。
輝道は立ち上がり、テーブルの上の原稿を手探りで掴んだ。
窓外は仄かな外灯のみで、酷く暗い。輝道は、自己嫌悪に満たされた倦怠感を抱えたまま、部屋を出た。
五月を迎えに行かなければ。こんなに遅くなってしまった。五月の顔をきちんと見られるだろうか──。
溶けたはずのそれらが今一度、形取られる。
そうすると苦しくて吐き気がした。
輝道は車を路肩に止め、窓を開けて、アスファルトに吐瀉物をまき散らした。喉の奥から酸味がせり上がり、頭が締め付けられるように痛む。
それからドアを閉め、とりあえず考えることを止める。
そしてアクセルを思い切り踏みこんだ。
小説家志望 ほのぼの太郎 @honobonotaro
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