2ー1 第一次選考委員 青山輝道

 青山輝道あおやまてるみちは背中にひんやりと冷たいものを感じていた。

 大きく深呼吸をして原稿用紙から目を背けた。そのままそれを見ないようにして、原稿用紙の束を裏返しに置く。

 それが酷く禍々しいものに思えたのだ。原稿用紙から少しでも距離を取ろうと立ち上がり、窓際へ歩いた。

 気持ちを落ち着かせるために、窓の外を見る。

 外はぽかぽか陽気で、平日の昼下がりらしい穏やかな時間が流れていた。

 眼下にはアパートの駐車場が見える。その脇には遊歩道が通っていた。緑に囲まれたランニングコースだ。

 ウォーキングにいそしむ老夫婦や、子供に飼い犬のハーネスを持たせ、それを温かな視線で見守る母親の姿があった。

 輝道はその世界が、外に存在しているはずの穏やかな光景が、酷く嘘臭く、白々しいものに感じた。リアリティがないのだ。窓ガラスを隔てた、外の世界は、いま輝道がいる部屋とは全く別の異世界のように思えた。

 原因はあの原稿のせいだ。

 輝道は『M市ミステリー新人賞』、略してMミスの一次選考委員だった。Mミスの選考委員をやるのはこれで三回目になる。Mミスは今年で五回目を数えていた。第三回のときに選考委員に選出された。次の回も選考委員の打診があり、輝道は喜んで引き受けた。その翌年も再任された。

 今年が選考委員として最後の審査になる。審査の公平性を期すために、任期は最大三年と決められているのだ。

 そして輝道は、三年間に渡った審査の締めくくりとなる最後の作品を読んでいたのだ。

 輝道は第三回の選考で、一位推薦した作品が優秀賞に選ばれた。輝道はそれが誇らしく思い、自分のことのように嬉しかったことを思い出していた。

 しかし、次の第四回のときには輝道が一位で選出した作品は二次選考で落とされてしまった。最後になる今回は、ぜひ大賞を獲るような作品を読み、それを選出できれば、という強い想いがあった。

 今回、ここまでの四作品は、面白いものもあったが、正直、大賞が獲れそうな作品には出会えていない。

 そして、最後の五作目だった。輝道がMミスで審査する最後の作品となる。傑作であることを願いながら読みはじめた。

 それがこんな気分にさせられるとは夢にも思わなかった。

 

 五作目の、『殺害計画書』なる、この作品は、驚くべきことに、輝道本人が読むことを想定して書かれた作品だったのだ。

 

 しかも小説の体を取りながら、それはあきらかに輝道のへの脅迫状となっていた。

 

 どうしてこんなことが──。

 不意に、窓外のどこからか誰かに見られているような気がした。

 輝道は慌ててカーテンを閉めた。閉めてからそれが遮光カーテンであることを思い出した。部屋が酷く薄暗くなる。

 輝道は部屋の電気を点けた。カチカチッ、と音がして、昼光色の灯りが室内を照らす。

 

 どうやったらこんなことができるのだろうか──。


『Mミス』は公募の新人賞なのだ。投稿者が特定の選考委員に原稿を送ることなどできるはずがない。当然、すべての原稿は応募要項にも記載されている、送付先である『Mミス実行委員会』に一度集められる。それをランダムに一グループ、四つないし五つの作品を一組として、複数の選考委員に送付されるのだ。そこには投稿者の意思が反映されるはずもない。

 投稿者は偶然に期待を込めて送ったのだろうか──。

 輝道は自分に送付される確率を考えてみた。

 今回のMミスは応募総数八十九作品とホームページで発表があった。選考委員一人につき四作品が割り当てられるとしたら、およそ二十二分の一、わずか4・5%。五作品だとしても十八分の一の5・5%にしかならない。

 偶然に賭けるにはあまりにも低い数字ではないだろうか。

 それとも何らかの方法で、郵送途中に紛れ込ませたのだろうか──。

 そう考えたが馬鹿馬鹿しくなって首を振る。

 輝道が担当する五作品は、小さめのダンボールに入り、厳重に封をされて送られてきた。一度開封して、貼り直したような形跡もなかった。輝道が運送屋から直接受け取り、すぐに開けたのだ。そのとき、間違いなく五作品あった。紛れ込ませる余地はない。

 読みながら、背中に複数の毛虫が這っているような気味の悪さに怖気がたった。

 それは恐ろしい内容だった。

 女の一人称。その兄が小説家志望でMミスに何度か応募しているというものだった。

 そして、その一次選考をしたのは輝道である、と作品には書かれていたのだ。

 それは事実だった。

 作中に書かれているブログ──『てるりんの読書日記』これは実在した。実際、輝道が五年前にはじめたブログだ。だが今はもう止めている。

 作中に書いてある通り、輝道は第三回Mミスの一次選考作品の感想をブログに掲載してしまった。だが、すぐに思い直し、ブログを止めた。ずいぶん前にこの記事は削除している。

 そのときは、生まれてはじめて選考委員になったという気持ちの高まりが、思慮のない行為へ走ってしまったと、反省した。

 自分が作家志望者の作品を評価することで、本格ミステリーの未来は自分に託されているのだ、と自惚れた思考に埋没していたことを認めざる負えない。

 そのときの記事を偶然、投稿者の兄が読み、それをきっかけに妹である投稿者と母親に暴力を振るうようになったというのだ。投稿者である妹曰く、兄が小説を書く才能が無いのは認めるが、暴力を振るうようになった責任は、輝道にある──ということだった。

 だから輝道に罪を償ってもらう、というとんでもない内容のものだった。

 さらに作中で、もしも逆らえば、ブログの記事についてMミスへ報告する、という脅迫めいたことも示唆しているのだ。

 そのときのブログの記事は事実である。だから第三回のMミスで、その作品を選考したのは間違いない。

 そして第四回の選考作品にも覚えがあった。それも作中で、女が認識しているとおり、まさに箸にも棒にも引っかからないような酷い代物だった。

 第三回のときと比べても、負けないくらいの凡作で、このときは選考委員としての責任と、ある程度の分別がついていた。だからブログで酷評するようなことはしなかった。

 輝道は、ふと時計を見た。

 午後の四時を過ぎようとしていた。

 異世界の原稿から、一瞬にして、現実に引き戻された。

 まだ時間はあるが、五時には、五月さつきを迎えに行かなければならない。

 またどんよりと気分が重くなる。

 結局、今の俺は、どうあっても最悪の精神状態であることには変わらないのだ。

 この作者に連れ去られて、どこかに監禁してもらうのもいいかもしれない──。

 輝道は自嘲気味に笑った。

 『あのとき』を境に五月から表情が消えたのだ。

 娘の五月は元々、感情が豊かで、それがそのままストレートに顔に出る、子供らしい子供だった。

 およそ二か月前、妻の弥生やよいが事故で亡くなった。

 徒歩で近所のスーパーに買い物へ行った帰りだった。弥生は五月と手をつなぎ、横断歩道を渡っていた。そこに猛スピードで一台の車が突っ込んできたのだ。横断歩道は青だった。信号無視をして弥生を轢いた車は、そのまま逃走した。

 今もまだ犯人は捕まっていない。

 弥生は即死だったが、五月は奇跡的に擦り傷だけですんだ。車がぶつかる直前、反射的に、弥生は五月を突き飛ばし、この奇跡が生まれたとのことだった。

 だが、五月は目の前で自分の母親が殺されるところを見たのだ。

 五月から感情が消えた。同時に言葉までも失った。

 輝道も脱け殻のようになり、世界に色を失った。

 五月が輝道をぼおっ、と見ていることがあった。青山には、五月の、その物言わぬ無機質な表情が、なぜお母さんを助けてくれなかったの、と責めているように思われ、辛かった。

 その沈鬱な親子二人の空気を感じ取ったのか、世話好きの母親が、そのころから、頻繁に顔を見せるようになった。母親は同じM市内に住んでいて三十分ほどかけ、夫婦揃って、車で現れる。母親は輝道に見向きもせず、五月に満面の笑みを向け、五月ちゃん一緒に遊びにいこうね、などと言って、まるで拉致するように五月を連れ去ってゆくのが恒例となった。

 そうなると輝道は一人アパートに取り残された。どこかへ出掛ける気もしない。家族三人で住んでいた2LDKの部屋。そこは弥生の選んだもので溢れていた。家具や調度品、インテリアのほとんどは、弥生が選んだものだった。

 それは酷く辛いことだが、だからといって、それらを捨てようなどとは、輝道にはどうしても思えなかった。五月も反対するに違いない。

 弥生と結婚したのは五年前だった。

 そのころ、輝道は本気で小説家──ミステリー作家を目指していた。

 作中の人物と同じように多くの作品を書き、十代の頃から、十数年に渡り投稿を続けてきた。だがどれほど頑張っても、一次通過止まりだった。

 だから、この無能な兄の気持ちは少なからず輝道にも理解できた。

 何度も落選を続け、自分には、才能がないことを認めながらも、どうしても小説家の道をあきらめきれなかった。地元の高校を出て、札幌の大学に進学した。そして卒業後は、地元の補聴器メーカーに就職した。

 その間も輝道はずっと小説を書き続けていた。だが結果は出ない。就職してからも、土日の休日は、ほぼ執筆に充てていた。会社に骨を埋めるつもりはなかった。いつかは必ず新人賞を獲り、大手出版社からデビューして、専業作家になる。結果から見るに、手の届かない夢であったが、そのころの輝道は実現できる未来として認識していたのだ。

 だが輝道は大きな決断を迫られることとなった。

 以前から付き合っていた弥生と結婚を決めたのだ。それからほどなくして弥生は妊娠した。

 弥生との出会いは仕事先だった。弥生は高校卒業後、同じ部署の後輩として入社してきた。自然と話すようになり、輝道から告白をして付き合うようになった。

 付き合いはじめて、輝道は、自分が小説を書いていることを伝えた。だが弥生はあまり本を読むようなタイプではなかった。

 輝道は書いた作品を読んでもらおうとしたが、私にはわからないから、無責任なことは言えないわ、といつもやんわり断られた。

 結婚と同時に彼女は会社を辞めた。結婚して子供ができたら家庭に入りたい、というのが、弥生のかねてからの希望だった。輝道はその願いを受け入れたのだ。

 そして輝道は弥生に告げられた。

 小説を趣味で書き続けるのは良いが、小説家を目指して書くことはあきらめてほしい、と。

 輝道は結婚してからも、プライベートの多くの時間を執筆することに割いていた。

 弥生は、子供が生まれたら、子供のために費やす時間をきちんと考えてほしい。そして私が会社を辞めた今、私も子供の将来もすべてあなたにかかっているのよ、と輝道に切々と語ったのだ。

 輝道はそれまで会社内の出世をまったく考えていなかった。小説家になるという青写真があったからだ。今、輝道は係長だった。ある程度、勤めていれば自動的につけるポストだった。しかし、そこから上に行こうとしたら、小説家を目指しながら、というスタンスでは無理だと輝道も理解していた。仕事は営業職である。個人の携帯番号を顧客に伝え、土日でもひとたび電話があれば、客の元へ飛んでゆくという姿勢が最低限必要とされた。輝道は、顧客には、個人の携帯番号は一切、教えていなかった。理由は明白で、出世も、土日にかかってくる顧客からの電話も、執筆の邪魔にしかならないからだ。

 だが、弥生は、その夢のための生活を捨ててくれと輝道に言った。

 弥生の考えは至極真っ当なものであり、当然の要求だと理解できた。

 ずっと小説家を目指したければ結婚もせず、子供も作らなければいいのだ。

 そうしなかった自分には当然、責任が生じ、手放さなければならないものは必ず生まれる──。

 輝道は弥生の要求を受け入れるしかなかった。

 だが最後に頼みがある、と輝道は弥生に言った。今年、あと一つ大きな新人賞が残っている。作品もほぼできあがっている。それを最後にするから、それまでは書くことを許してくれないだろうか、と頼み込んだのだ。

 彼女は溜息をつきながらも許してくれた。

 これだけ落ち続けながらも輝道は淡い期待を抱いていた。もしも受賞してデビューすることになれば、弥生も小説を書き続けることに反対できないだろう、と。

 輝道は最後の作品を死ぬ気で推敲し、自分自身渾身の作品と思える作品を完成させて『第一回M市ミステリー新人賞』に投稿した。

 結果、一次選考は通ったが、そこまでだった。

 輝道は弥生との約束どおり小説を書くことを辞めた。

 趣味であれば書き続けてもかまわないと言われたが、どうしてもそんな気になれなかったのだ。

 仕事も一生懸命やり、家庭にも時間を割き、そして残った時間を使い、小説を書く。

 そういうスタンスで小説を書くことができない、と思ったのだ。

 書き上げた作品は新人賞に応募するものであり、受賞を目指して書く。小説家になるために書く。

 輝道は、いつもそういう想いで書いていた。

 だからきっぱりと書くことを辞めた。

 ほどなくして五月が生まれた。それはやはり大きな出来事で、感動し、弥生に感謝した。弥生と五月を幸せにすること。それが人生の新たな目標になった。

 輝道は、できる限り育児にも協力するようにした。仕事に対してのスタンスも変えた。顧客にも自分の携帯番号を伝え、困ったことがあればいつでも電話してください、とにこやかに言えるようになった。

 営業成績を上げるために、月に二、三回の休日出勤を厭わなくなった。

 結果を出して社内で出世するためだ。

 プライベートでも名刺を持ち歩き、少しでも人と関わり合いを持つようなことがあれば初対面でも名刺を渡すようにした。どこから繋がりが生まれるかわからないからだ。

 このようにして輝道は根本的に考えを、生き方を変えたのだった。

 しかし、書くことは辞めたが、読むことは辞めなかった。

 書いていた頃よりも、純粋に読書を楽しめるようになっていた。

 書いていたころは、面白い作品を読むと、自分の作品と比較してしまい、どうしても純粋に楽しむことができなかった。だが、そういうことを考えなくてすむようになると、読書量も増えた。

 それでも辞めた後もしばらくは、パソコンを開くと自然に、新人賞の締切や、選考の途中経過を追いかけている自分に気がついた。

 踏ん切りは付けたはずだが、何か心の奥底に拭いきれないものがあったのだ。

 そして読むだけではなくて、どういう形でも良いから創作と関わることができないか、と考えはじめた。

 そのとき『Mミス』のことを思い出した。第一回の『Mミス』の一次選考委員は一般公募されていたはずだ。もしかしたら、また募集が行われているかもしれない、と思った。

 輝道はさっそく『Mミス』のホームページを確認した。すると第三回の一次選考委員の募集が行われていた。

 見ると、応募の締め切りまで残り一週間と迫っていた。ホームページには応募に必要な条件が記載されていた。

 

 ○これまで自分が読んだミステリーベスト1作品とその理由400字程度

 ○職業などプロフィールを含む自己アピール

 ○住所・名前・年齢・電話番号・Eメールアドレス


 一週間もあれば十分だった。

 輝道はその日から取り掛かり三日で応募するための準備を整えた。作品を投稿していたときと同じように速達のエクスパックに入れて送った。

 一か月後、採用の通知が封書で送られてきた。

 自信はあった。元々、ミステリー、特に本格ミステリーと言われるジャンルは数多く読んでいる。『Mミス』は本格ミステリーの新人賞であると標榜していた。

 本格ミステリーは他のエンタメ系のジャンルと違い、評価するにあたって難しい点があった。

 まず一つ挙げられるのが、トリックである。本格ミステリーにおいては、もしも前衛的で、末聞のトリックが、作中において成功していれば、それだけで高い評価に繋がる、と輝道は考えていた。

 そのためには一定量以上のミステリーを読み、世に出ているトリックをある程度、把握しておかなければ、正しい評価を下すことはできない。

 輝道は作品を書くにあたって、そういった情報は常に収集していたから、それが選考委員の仕事に、そのまま生かせると考えたのだ。

『第三回Mミス』の応募の締め切りは五月十一日だった。その十日後、厳重に封をした小さなダンボールが輝道の元へ届けられた。送り主は『M市教育委員会』とあった。中身は分厚い小説原稿の束だった。そこには輝道に運命を託された五作品が入っていた。

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