1−3 第5回M市ミステリー新人賞投稿作
今後は、母のように、兄の作品を否定することなく、褒めながら、徐々に軌道修正させていくしかない、と覚悟しました。
そして当分、新人賞に出すことも止めた方が良い、と考えました。
次、もしも一次すら通過できなければ兄の精神は崩壊してしまうかもしれません。今度はプロット段階から私が目を通して、間違いなく一次は通過できるような作品を書かせなければなりません。
それから兄は徐々にですが、部屋を出て、私とともに一階に下り、母とも言葉を交わせるほどに回復しました。
兄はプロットを作成中でした。今回は、できあがったら見せてもらう約束も取り付けました。
兄も現実を受け入れて、私のアドバイスを今まで以上に聞き入れてくれる姿勢を示すようになりました。兄は、才能はありませんが、努力をすることはできるのです。
母はいつもどおり、変わらず兄を褒めちぎり、私は、兄の良い点を見つけ、それを伸ばすにはどうしたらよいかという視点でアドバイスを送るよう、心がけていました。
このまま長く続ければ道は開けるかもしれない──。
そう思えた矢先、ある事件がおこったのです──。
兄はその日、パソコンを前にしてインターネットで、どこかのホームページを見ているようでした。私は、その傍らで本を読んでいました。
「琴音……おまえ、俺には才能があるって言ったよな……」
不意に兄が言いました。それは迫力のある低い声でした。
私は何事かと息をのみました。
「ええ……言ったわ……」
真意をつかめず動揺しながらも、慎重に言葉を返しました。
「これを見てみろ……」
兄はパソコンのディスプレイを指しました。
「いったい何なの……?」
私は恐る恐るディスプレイを見ました。
それは誰かのブログでした。
「俺の小説を読んだ奴の感想だ……」
「感想……? でも、お兄ちゃんの小説は私とお母さんしか読んでいないわ……」
私は兄の言っている意味が分からず反論しました。
「この前、出したMミスの下読みが、ブログでこっそり、感想をアップしてたんだ」
私はあまりのことに唖然としてしまいました。
『M市ミステリー新人賞』、略して『Mミス』の一次選考の選考委員は出版社の人間や書評家などではなく、公募を行い、当選した一般の人が選考をつとめていました。当然、このように感想をアップすることなど許されるはずがありません。おそらく、見つかるはずがないと思っていたのでしょう。しかし、それを運悪く、兄が見つけてしまったのです。
兄は憮然とした表情で、ブログを読むよう、私に言いました。
酷く嫌な予感を覚えながら、ディスプレイの文章を目で追いはじめました。
トップページには『てるりんの読書日記』とあります。題名のとおり、読み終わった小説の感想を中心としたブログのようでした。
そこには確かに、兄のものと思われる作品の感想が載っていたのです。
十月二十三日(月)
本日、『第三回M市ミステリー新人賞』【以下Mミス】の大賞が発表されました。
今回は大賞の他に優秀賞も出たようですね。実はこの優秀賞に選ばれた『義兄弟』てるりんが一次選考で下読みさせてもらった作品なのであります。
さすが優秀賞に選ばれるだけあって、ホラーチックで残酷な描写もあるのですが、リーダビリティも高く非常に面白い作品でした!
みなさんも出版されたら読んでくださいね! てるりんは嘘つきません。読んで損はありませんよ!
『義兄弟』を読めたのは良かったんだけど、新人賞の下読みって大変なんですよ。
誤字脱字はあたりまえ、一人称と三人称の違いもわからないような人の、作品が平気で送られてくるんです。
『Mミス』の一次選考は、読んだすべての作品に順位をつけなければなりません。
てるりんは五つの作品を読ませて頂きました。
当然、優秀賞に選ばれた『義兄弟』は断トツの一位。その他の、二位から四位までは正直ほとんど差がありませんでした。
それぞれ、密室、吹雪の山荘、叙述物、という主題があったのですが、世界観、トリックなどに目新しいものはなく、残念ながらそれほど楽しい読み物ではなかったですね。
そして問題なのは第五位の作品。これは酷かった……。
異世界で殺人事件が起こる、というSFホラーミステリー……といえば聞こえはよいのですが、SFもホラーもミステリーも、それぞれがそれぞれの良い所を消し合うような、酷い作品でした。
普段使わないような漢字や、目を覆いたくなるような恐ろしく場違いな比喩表現を使ったりして、非常に読みにくい内容なのです。これは仕事ですからなんとか読了しましたが、もしも、これが普通に、本屋で買った作品だったのなら冒頭数ページで思い切り床へ投げ捨てていたでしょうw 仕事なので、今回は、なんとか寸前で踏みとどまりました……w
さらにたいした事件も起きず、トリックも名作の使い回しなのに、三人も名探偵が出てくるのです。
これの意図がまたわからない。中途半端に推理をして、なぜか途中で二番目の探偵に引き継ぎ、二番目も、また中途半端な推理で終わり、なにがなにやらわからぬうちに最後の探偵が出てきて、説明も推理もすべてが中途半端なまま終わってしまうのです。作品自体が破綻しています。
こういう人は、賞に出す前に、きちんと他の人に読んでもらって感想を求めたほうがいいですね。まずそこからでしょう。新人賞に作品を投稿するレベルに達していません。いくら一次選考といえども、我々も貴重な時間を削って真剣に審査しているわけですから、投稿する方も、最低限のレベルには全員達するように真剣に作品を書いてもらいたいものです。
ああ。そうそう、受賞パーティがあるらしいです。一次選考委員はパーティに招待していただけるとか。てるりんも参加させてもらうつもりです。今から楽しみです。
私はブログを読み終えて暫く言葉が出ませんでした。
なぜ、こんなことを──。
見たこともない『てるりん』という人間にたいして気が狂いそうなほどの憎悪が沸き起こりました。この『てるりん』によって、私が、これまで兄を諭し、徐々に積み上げてきたものが一瞬にして崩されたのです。
「琴音、これはどういうことだ! おまえが面白いって言った、俺の作品が断トツのビリッけつじゃねえか!」
兄は私を口汚く罵りました。
私は何も言えず下を向いたままガタガタと震えていました。
するとドアを叩く、ノックの音がしました。
「どうしたの太郎? 琴音……何かあったの?」
母でした。兄の大声を聞いて、何事かと二階に上がってきたのでしょう。
兄は乱暴にハンドリムを回し、車椅子を移動させてドアを開けました。
「母さん、あれ読んでみてよ」
兄は母を睨みつけながらパソコンを指さしました。
「急にどうしたの……」
母は私を見ているはずです。ですが、私は下を向いたままでした。目を合わせることができなかったのです。
「いいから読めよ……」
低く腹の底から響き渡るような迫力のある兄の声でした。
母は何も言わず部屋に入り、パソコンの前に向かいました。私はそろりと顔を上げ、パソコンの前に立つ、母の背中を不安な思いで見ていました。
読み終えた母はゆっくりと振り返りました。
「これはどういうことだ……?」
兄は母にも、敵意を向けて言いました。
ですが母はなぜか笑顔でした。
「だから前にも言ったじゃない。相性があるって……この人との相性が悪かっただけよ。この人、作品を見る目がないのよ。」
母は軽い調子で言いました。
いつもなら、母に諌められれば、渋々、納得する兄ですが、今日は違いました。
目を剥いた怒りの形相で、母に食ってかかったのです。
「おいちょっとまてよ! もしもこの選考委員に、見る目がなかったとしたら、こいつが一番面白いと認めた作品が優秀賞を獲るのはおかしいだろ! 優秀賞を獲るってことは、二次選考の出版社の人間も、最終選考の
感情的でしたが、兄の話はきちんと筋が通っていました。反論の余地などないように思いました。
さすがの母も言葉に詰まっているように見えたのです。
『M市ミステリー新人賞』は本格ミステリーの神様と呼ばれている、ミステリー作家の大郷院貞麿が、最近、元気のない本格ミステリーの復興を旗印に三年前に創設した新人賞です。新人賞といえば通常、東京の出版社が主催します。しかし、この賞は大郷院貞麿の地元であるエム市が主催しています。そして協賛という形で恐感社、恐文社、恐喝書房の三社が参加し、受賞作は即時出版される、という形態を取っていました。
最終選考は大郷院貞麿が一人で行います。
兄は大郷院貞麿の大ファンでした。
兄が、本格ミステリーを書いているのも大郷院貞麿に憧れてのことです。兄は大郷院貞麿に読んでもらいたい一心で、創設当初から毎年、この賞に投稿していたのです。
私も兄と同じように大郷院貞麿の大ファンで、出版されているすべての作品を読んでいました。
本格ミステリーの神様と呼ばれるだけあって、その作品は素晴らしいの一言に尽きました。
冒頭の魅力的な謎、その謎に負けない大胆で精緻なトリック、魅力的な名探偵と助手、物語に吸い込まれる、と言っても過言ではないリーダビリティの高さ、どれをとっても超一級品でした。
新人の発掘に定評のある大郷院貞麿が立ち上げた新人賞だけあって、その選考方法も他の賞とは一線を画すものとなっていました。通常、賞の一次選考は書評家や編集者が担当します。しかし『Mミス』においては、一次選考委員を一般公募していました。
これは一般の読者の視点で、より面白いものを選びぬく、という大郷院貞麿の思想が反映されたものでした。
二次選考においては、協力出版社、三社の編集者が受け持ちます。三つもの、大手出版社の編集者が吟味し、最終候補作を決めるのです。そして最終候補作は、大郷院貞麿がすべての作品を読み、受賞作を決めるのでした。
よって、『Mミス』の受賞作は一般の読者、そして一流の編集者、さらに一流の小説家が認めた作品となるのです。このシステムだと、もしも兄の作品を担当した一次の選考委員が、センスの無い人間で、一般的に面白くない作品を二次選考へ通したとしても、出版社三社の選考で落とされるのは間違いないのです。それを潜り抜け、さらに大郷院貞麿にも認められて受賞したとなっては、その作品は面白かった、と認めざるを得ません。
「たしかに受賞作は誰もが認める面白さだったかもしれないわ……でも太郎の作品は、物凄く高い次元の作品で、おそらく一般公募の下読み程度の人間には理解できないのよ………もしも一次選考の下読みが一般公募の人間ではなくて、出版社の人間、それか大郷院先生だとしたら高い評価を得られていたのは間違いないのよ」
母はそれらしい言い訳をなんとか作り上げたようでした。しかし、いつものように表情に余裕がありません。
兄は母を睨んだまま何も言いませんでした。
「人間って自分が理解できないものに対峙すると、理解できないことを認めたくなくて、そのこと自体を貶める行動に、はしるものなのよ……前衛的過ぎて理解が及ばないの。読解力が及ばないから、何を言っているかわからない稚拙な、という感想になるの。 見る人が見たら、間違いなく気づくと思うわ。世界でただ一つの異質な世界を表現する、この高尚な文章の意味を。だからあきらめないでほしい。一次さえ通過すれば、太郎の作品は絶対に受賞できるわ」
母は言葉を重ねて、なんとか兄を言いくるめようとしていました。
兄がゆらりと動きました。何も言わぬまま、傍らに置いてあったマグカップを手に取り、突然、母に向かって投げつけたのでした。
鈍い音がしました。マグカップは母の額に命中しました。母は、ぎゃっ、と悲鳴を挙げ、蹲りました。
「お母さん!」
私は叫びました。母は左手で額を押え、右手を伸ばして、私を制しました。
「だ、大丈夫……大丈夫だから……」
母は痛みに堪えている様子で懸命に言いました。押えた手のひらの、指の間から赤黒い鮮血が、滴り落ちています。
「琴音、大丈夫、大丈夫……何にも心配ないから……お母さんは全然平気だから……」
血にまみれた顔で母はそう言うのでした。
「ご、ごめんね……下で傷の手当てをしてくるわね……」
母はふらつきながら立ち上がり、部屋を出て行きました。
「お兄ちゃん! なんてことするの!」
私は兄を睨みつけました。
兄は茫洋とした目で、閉じられたドアを見ていました。その顔には、母を傷つけた罪悪感の欠片さえも感じられませんでした。
「お前も同罪だ琴音……おまえ、このところずっと俺のことをやけに褒めちぎると思ってたが、俺の怒りを買わないように、心にもないこと言ってただけだろ……。心の中じゃ、才能が無いくせに無駄な努力しやがってって、このブログのヤツと同じように笑ってんじゃないのか……」
兄の目は血走っていました。目尻には少し涙が浮いているように見えました。
兄への怒りが急激に萎み、代わりに恐怖が体全体に満たされてゆきます。
「そんなことないよ……私もお母さんと同じように思ってるわ……お兄ちゃんは才能があるよ。間違いないわ……きちんとした人に見てもらいさ……」
不意に凄まじい衝撃があり、目の前が真っ暗になりました。直後、口と鼻の奥が、焼きつくような熱さと痛みに襲われました。
私は何が起きたか理解できませんでした。まともに息をすることができず、あまりの痛みに涙が止まりません。手のひらで顔を押えると、ぬるっ、と滑りました。それは生温かく鉄臭いものでした。
ようやく見えた、私の手のひらは真っ赤に染まっていました。兄は自分の拳を見ながら茫然としているようでした。その拳も真っ赤に染まっていました。私の返り血です。兄は私の顔を殴ったのです。
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