1−2 第5回M市ミステリー新人賞投稿作  

 私が小説を読むことが好きなのは、現実を忘れられるという、その場しのぎの楽しみでしかありませんでした。それ以上、望む物などないのです。

 しかし兄は、小説というものを現実逃避の道具としてだけではなく、人間らしく生きるための希望の光と捉えていたのです。

 私は、兄の、その思いに気づいてから、何度も、そんな無意味なことをしてもしかたがない、と説得しました。しかし兄は聞く耳を持ちませんでした。

 私はずっと前から、自分自身の救われない境遇を受け入れていました。すでにすべてを諦めているのです。兄がまかり間違って作家になり、それをきっかけとして社会にでることなど、絶対に認められないのです。

 しかしそれは杞憂でしかない、とまもなく気づくのでした。

 兄には、小説を書く才能など、まったくなかったのです。

 私も少なからず、兄同様、国内外のミステリー小説を人並み以上には読んできました。

 インターネットで情報収集をしたり、兄や母に聞いたりして、傑作と言われている作品は大体、目を通しています。そして個人的な好みもありますが、傑作と呼ばれ、評価の高い作品は、すべて面白い、と思えました。だから私の作品評価の基準は世間一般のものと大きく外れてはいないはずです。

 それに照らし合わせて考えると兄の作品はどれも面白くありませんでした。

 比べることすら間違っているのかもしれませんが、普段、読んでいるミステリーの作品と比較するとひどく拙いものに感じたのです。

 兄はミステリーの中でも本格ミステリーを書くことにこだわりを持っていました。

 その作品世界の中で、とりわけオーソドックスなものを好みました。名探偵と助手が現れ、密室があり、不可解な連続殺人が奇妙な館で起こり──というようなものです。

 こういった、いわば使い古された作品世界の中では、何か一つでも前衛的なアイデアが必要だと思うのです。ですが兄の書くものは、すでに世に出ている手法やアイデアをスケールダウンさせたような作品ばかりでした。

 さらに悪文でした。

 普段なじみのない漢字や比喩表現を使い、それが独自のアイデンティティに繋がっていると信じて止まなかったのです。

 そのように、この粘つくような文章が、作品世界において独特な世界観の形成に繋がっているのであれば、それは素晴らしいものであると、理解を示せます。しかし、兄の文章は残念ながらそういった類のものではなかったのです。それは作品を貶めるマイナス要素でしかありませんでした。読者の頭の中でイメージされる映像を遮断し続けるノイズの役割のようなものです。

 兄は作家を目指す人間にありがちな思考──小説を書くという特別なことをしている自分は、特別な才能を持っているに違いない──そう妄信していたのです。

 兄は、私が見る限り、外見は別にして、内面的には、すべてにおいて凡庸な人間でした。それは兄も認識しているようでした。しかし、人間というものは、自分にも何か一つは他人よりも秀でた才能があると信じたいものです。

 兄は、その秀でた才能というのが、小説を書くこと、創作の才能であると、根拠なき確信を持っていたのです。

 ですが、新人賞へ定期的に投稿するようになり、そのすべてが一次通過もしないのです。そうすると現実を突きつけられることになります。

 ただ、それに対して兄はそれらしい理由を用意して、自分の才能がないことを認めようとはしませんでした。

 兄はかなりの速書きでした。一か月に一作、長編を書くことができました。いつも締め切りのおよそ一か月前に書きはじめ、締め切りの数日前に完成させ、二、三日で推敲を済ませてぎりぎりに投稿していました。

 兄はこのように、直前にに書き上げて投稿することを落ちる理由としていました。もっと時間をとり綿密にプロットを作り、丹念に推敲すれば間違いなく受賞できるのだと思い込んでいました。そうは言いつつも、いつも同じようにぎりぎりに作品を書き上げ、投稿するという姿勢を変えようとはしません。

 私は一度、時間をかけて執筆することをすすめました。そのころの私は、兄に小説家になってほしくない、と思いながらも、その強い思いに心を少なからず打たれ、兄の作品を真剣に読み、忌憚のない感想とアドバイスを送っていたのです。

 デビューには至らなくても、面白い作品を書けるようになってほしい、という思いは少なからずあったのです。

 今、思えばそれを兄が受け入れていたのは、本気を出した一作をまだ自分は書いていない、という心の余裕があったからだと思います。

 兄は私のアドバイスを聞き入れました。

 そしてプロットを作成するのに一か月、執筆期間は普段の三倍である三か月、そして推敲に一か月、およそ半年かけて、一つの長編を書き上げたのです。

 しかし完成された作品を読んで私は愕然としました。

 時間を掛けた分だけ、面白さが削ぎ落とされてしまったかのような小説だったからです。

 私は、兄がこの作品のプロットを作成する前に、内容があまりにもオーソドックスすぎるから、今回は設定だけでもインパクトを持たせた方が良いのでは、とアドバイスを送っていました。

 兄は作品に着手すると、それが完成するまで、私に見せることを嫌がりました。

 兄曰く、完成された作品を何の予備知識もなく読むことが、正当な評価に繋がるという持論があったのです。

 それでも結局、私にとって、過程はどうあれ、作品が面白ければそれで良いのです。

 ただ兄の今までの作品が面白くなかったので、プロットが完成された段階で、本当は目を通しておきたかったのです。しかし、兄は頑なにそれを拒否しました。

 ですから私は仕方なく、兄を信じて作品が完成するのを待つしかなかったのです。

 しかし、その待ち続けた時間は無駄に終わりました。

 たしかに設定だけは前衛的なものでした。

 近未来のパラレルワールドで名探偵と助手が活躍するというものでした。ホラーの要素もあり、SFホラーに本格ミステリーのエッセンスを混ぜ合わせたような作品でした。

 ただ残念なことに、その設定が面白さにつながっていないのです。

 冒頭の謎は期待外れに終わり、それにいつもの悪文が重なり、さらに、SFの薀蓄が不必要に入り、なかなか物語世界に入っていけませんでした。

 そして名探偵と助手が三組現れます。前の二組が偽の名探偵で、最後の名探偵が真の名探偵というわけです。非現実な世界を舞台にしたにも関わらず、その世界で起こる事件はひどく現実的でこじんまりとしていました。その小さな事件に、三人もの名探偵が必要なわけもなく、それぞれがまともな推理をしないままに次の名探偵にバトンタッチされ、最後の推理に至るまで非常に読みにくく、かつ分かりにくい作品となっていました。

 しかし、兄は私の想いに反して、自信満々でした。

 最高傑作ができた、と相当な手ごたえを感じているようでした。

 事実、兄はこの作品に全精力を注いでいました。

 寝る間も惜しんで小説のことを考え、完成までの半年間、一日も休むことなく執筆を続けたのです。

 そういう状況を私は理解していたので、その作品を読んでも、なかなかダメだしをすることができませんでした。

 それに、素人の私がアドバイスしたところで、自信家の兄が聞く耳を持たないことは最初からわかっていることでした。本当に気づいてもらうためには、全身全霊で書いた作品が新人賞の一次も通らずに落ちるという現実が必要だったのです。

 それと兄が現実を直視できなかった大きな理由の一つとしては、やはり母の存在がありました。

 母は兄が書いた作品のすべてを絶賛し、高い評価を与えていました。私がまったく面白くない、と思った箇所でも、母は独自の解釈を持ち、兄を褒め称え続けたのです。

 兄は母の評価を信用して、目を眩まされていたのです。

 兄が半年を費やし完成させた、その長編も、母はいつも以上に大絶賛しました。

 私は、二人のやりとりを黙って聞いていました。この茶番劇を早く終わらせて、と心の中で叫びました。

 母もこの作品が面白いと、考えているわけがないのです。偽りの評価をすればするほど、兄をどんどん苦しめていることが、母にはわからないのでしょうか──。

 母を問いただしたいのですが、私にはそれができません。

 母は笑顔で褒め称え、兄はそれを真に受けて照れ笑いしています。私はそんな中、仏頂面をするわけにもいかず、愛想笑いを引きずらせていたに違いありません。

 それでも現実は突きつけられるのです。

 兄はその作品を『M市ミステリー新人賞』という本格ミステリーの新人賞に投稿しました。この賞はまだ創設されて三年しかたっていません。北海道のM市が主催する地方の文学賞でしたが、本格ミステリーに特化した賞としてミステリー文壇からも注目を集めていました。

 この賞は例年、五月上旬に募集を締め切り、翌月、六月末に一次通過作品がホームページ上に載せられます。

 そして、その選考結果がもたらしたものは、私の予想をはるかに超えていました。

 兄は、このことをきっかけに狂い始めたのです。

 一次発表の日が近づくにつれて、兄はそわそわと落ち着かなくなりました。

 そんな兄の様子をみて、少し不憫に思いました。

 兄が落選することを確信していたからです。

 そして、六月末のある日、結果がホームページにアップされました。

 兄は予想通り落選しました。

 隣で、ドン、と音がしました。

 結果を知った兄は、おそらくショックからでしょうか、机の上に突っ伏してしまったのです。

 私も体のバランスを崩します。


「お兄ちゃん、大丈夫!」


 なんとか私は体を持ち上げ、兄の方を見ました。兄は顔を伏せたままでした。そして細かく震えているのに気づきました。

 兄は嗚咽を堪えているようでした。泣き顔を見せまいと懸命に耐えていたのです。

 そのとき私の大声に気づいたのでしょう。母が部屋に駆け込んできました。

 母は素早く私たちの傍らに寄り添いました。


「太郎……いったいどうしたの……? 何があったの……?」


 母は、理由を知っていて、あえて訊いているのです。


「だ、だめだった……一次落ちだ……お、俺はもうダメだ生きていけない……畜生……やっぱり俺には才能がないんだ」


 兄の声は震えていました。私には掛ける言葉がありませんでした。こんな姿の兄を見るのは、初めてだったのです。


「また書けばいいじゃない……これで終わりじゃないわ。太郎には才能があるんだから。今度こそ受賞できるわ」


 母は、兄の気持ちを落ち着かせるように背中を撫でながら言うのでした。


「だめだ……今回のは本気だったんだ……プロットも執筆も推敲も、あれだけ時間を


掛けて全力を尽くした作品だ……俺には才能が無い……もう言い訳はできない……こんな体になって……小説を書く才能も無くて……俺はごみ屑だ……」

 兄は顔をテーブルに突っ伏したまま、体を震わせながら言いました。


「そんなことないわよ……そんなこと言わないで……今回も審査した人間が何もわかっちゃいなかったのよ。お母さんが苦情を入れておくわ。あなたには間違いなく才能があるの。お母さんが保証する……だから決してあきらめちゃだめよ」


 私は無責任な母の言葉に我慢できず、気づくと叫んでいました。


「お母さん! もうこれ以上、お兄ちゃんを追いつめないで! お母さんは知らないだろうけど、この半年間、お兄ちゃんは、それこそ寝る間も惜しんで小説を書き続けたのよ! 今までとは違う! お兄ちゃんが全精力を尽くした言い訳できない作品なの。審査員だって、きちんと選ばれた人なのよ。本当に面白い作品なら落とすはずがないわ……」


 私の言葉に、母は信じられない、と言った表情をしました。


「もういい加減に認めてあげて、お兄ちゃんには小説家になれるほどの才能はないのよ。お母さんも本当はそれをわかっているはずよ。なのにどうし……」

 

 そのとき頬に焼けつくような痛みを感じました。

 母に頬を打たれたのです。

 母は唇をわなわなと震わせ、真っ赤な顔をしていました。


「琴音! なんてこと言うの! お兄ちゃんに謝りなさい! お兄ちゃんには才能があるの! 私が言うからそれは間違いないわ! あなたは何もわかっていないのよ。書き続ければ絶対に受賞できる。それは私が保証……」


「もう、やめてくれ!」


 母の言葉は、兄に遮られました。


「母さん、出てってくれ……」


 母は何も言わず呆然とした表情を浮かべていました。


「わかったわ……」


 立ち尽くしていた母は、ようやく、そう言うと部屋を出て行きました。

 私はショックでした。生まれてはじめて母に打たれたのです。

 あれほど感情を露わにする母を見たことがありませんでした。 

 それから数週間、兄はほとんど部屋から出ませんでした。一階に降りようともしません。部屋の外に出るのはトイレのときだけで、母が部屋の前に食事を置いてくれるのですが、それにもほとんど手をつけませんでした。

 そして夜中になると突如、うめき声をあげるようになりました。心配して声を掛けると兄は汗だくで、真っ青な顔をしているのです。

 私は少々、焦っていました。兄の落ち込み方が普通じゃなかったからです。

 兄は本当に、書くことにたいしてすべてを賭け、まさに生きがいとしていたことを、このときはじめて理解したのです。

 兄は母を中に入れようとはしませんでしたが、母は兄に対して、部屋の外から、体を気遣う言葉を、何度となく掛け続けていました。

 そして私も、兄に、何かしら言葉を掛けなければならない状況にありました。

 小説を書かなくなった兄は、一日中、ただぼんやりと生気の無い表情で椅子に座っているだけの存在になっていたのです。そして突然、意味不明な言葉を、大声で張り上げたり、夜中になると苦しそうに呻き声をあげるのでした。

 私も兄に感化されて、精神が徐々に蝕まれてゆくのを感じました。食欲が無くなり、夜はほとんど眠れなくなりました。ふっ、と眠りに落ちたと思っても、例の呻き声にすぐ起こされるのです。

 このままでは死んでしまう、と私は本気で思いました。生きることにたいしてすべてを諦めていたはずなのに、どうやら、まだ死にたくない自分に気づくのでした。

 私は意を決しました。私が生き続けるためにも、兄には、小説を書き続けてもらわなければならないと思ったのです。

 兄にとって、小説を書くことが、生きること、そのものなのです。

 私は、兄に、それまでと違った言葉を掛けはじめました。母に倣い、兄を褒めるようにしたのです。欠点を指摘することは決してせず、速書きは一つの才能であること。書き続ければ絶対にチャンスは巡ってくることを繰り返し伝えました。部屋に母が入ってこられない以上、私がやるしかありません。兄は最初、無反応でしたが、根気強く続けていくうちに、私の言葉に耳を傾けるようになりました。

 そうすると次第に夜中のうめき声が治まりを見せ、食事も摂るようになり、そして、とうとうパソコンの前に向かい、キーボードを打ち始めるようになったのです。

 兄は創作を再開させたのでした。私は胸を撫で下ろしました。

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