小説家志望
ほのぼの太郎
1ー1第5回M市ミステリー新人賞投稿作
作品タイトル『殺害計画書』
著 六村己龍(ろくむらきりゅう)
今日も兄はうらみつらみの言葉を発しています。
昼間は比較的静かなのですが、夜になり、しくしく泣きはじめたかと思うと、不意にそれは怒号へと変わるのです。壁をガンガン殴りつけ、聞くに耐えない罵詈雑言を吐き散らします。
そうなると私はガタガタ震えるしかありません。
その間、耳を塞ぐことはできないからです。
基本的に兄は部屋にこもりきりです。ほとんど外に出ようとはしません。
兄は部屋で、いつも小説を書いています。
小説が一つ書き上がると部屋の外に出ます。
分厚い原稿の束を持って出るのです。それはA4の安手の普通紙です。母がいつも家電量販店へ行って買い置きをしてくれます。五百枚で二百九十五円の特価品です。 それを母は部屋の前に積んでおいてくれます。
小説はパソコンで書いています。画面も本体も大きいデスクトップパソコンです。
書き上がると、それをプリンターで印刷します。
プリンターは用紙を飲みこみ、体を震わせ、ガーガー喚き散らしながら、文字の印刷された用紙を吐き出し続けます。
それが私にはプリンターが苦しみ悶えているように思えてなりません。
私はその場から逃げたくて仕方がないのですが、兄は嬉々としてプリンターが嘔吐する姿を見ているのです。
私は決して兄から逃げることはできないのです。
それは未来永劫、決して変わらぬ定めなのです。
ようやくプリンターはすべての用紙を吐き出しました。
兄と私は部屋の外に出ます。
このとき兄は決まって笑顔なのです。
傑作ができた、と嬉しそうに用紙の束を掲げています。
部屋を出ると、廊下を進み、階段に備え付けられている電動リフトで一階へ降ります。
一階には母がいるのです。リフトはゆっくり進み、兄は落ち着かない様子です。
一階へ着くと、兄は全力でハンドリムを回します。車椅子はスピードがつき、そのままの勢いでリビングへと向かいます。
「母さん、四章半ばの会話部分を直したんだ。これでかなりテンポが良くなったと思う」
母はキッチンで夕食の準備をしているところでした。
「あら、楽しみだわ。すぐに読むわね」
母はくるりと振り返り、本当に嬉しそうに言います。
茶番です。私たち家族の、家族らしい姿というのは、兄が小説を書き上げたこの瞬間にしかありません。
兄は母に感想を求めるときだけ、人が変わったように快活な人間になるのです。
母は、テーブルを挟み、私と兄の向かい側に座ります。
兄は母に原稿を渡します。母は原稿を受け取ると、兄が直したと言った、四章の半ばまで、ページを捲り、用紙に目を落とします。
母が読み終わるまで、兄は緊張した面持ちでその姿を見つめ、私はというと、口を閉ざし、じっと下を向いて座っているだけです。
兄の小説の内容は嫌でも頭の中に入っています。ここで私が読ませてもらうことはありません。
暫くのち、母が顔を上げました。
「どうだった……?」
兄が、母へ向かって、お決まりの言葉を言います。
「すごくリズムが良くなったわ。名探偵と助手のやりとりもテンポがあって楽しいわね。次の新人賞は期待できそうね」
母は嬉しそうに答えます。兄は満足げに頷きます。
「琴音【ことね】はどうだ?」
同じ質問が私に向けられました。
驚きました。なぜなら兄が私に感想を求めることなど最近は、ほとんどなかったからです。
不意を突かれ、私はひどく動揺しました。だけど兄にそれを悟られてはいけません。
平静を装ったつもりでした。
私は必死に感想を言おうとするのですが、なかなかそれが言葉に出ません。
兄は無言のままです。私の言葉を待っているのです。
母は相変わらず、何を考えているのかわかりません。
「わ、私もお母さんと同じ……会話が楽しいと思ったわ……」
なんとか言葉を絞り出しました。
「琴音、おまえ本当に俺の作品が面白いと思ってるのか?」
兄がぽつりとつぶやきました。
私は黙ってしまいました。すぐに答えなければならないのに。
「面白いわよ。絶対に面白いわ」
母が沈黙を埋めるようにすかさず答えます。
「どこが面白いのか言ってみろよ」
兄は敵意の目を母にも向けました。そして母と私の顔を交互に疑わしい目で見るのです。
私が即座に褒め称えたとしても、結局はこうなります。いつものことなのです。
何度も繰り返される空虚で不毛な時間。でも私はそれに支配され続け、結末はわかっているのに、それでも必死に抗うしかないのです。
「文章も、ストーリーも、トリックも、すべてが素晴らしいわ。私は真剣にそう思ってる」
母は動じることなく、堂々と言いました。
「じゃあ……じゃあ、なんで俺が書いたものは、いつも一次で落ちるんだよ……なんで、そんなに面白い作品が評価されないんだ! 母さんにならわかるだろ! 説明してみろよ!」
兄は顔を紅潮させ、吐き捨てるように言いました。
兄が興奮すると私の体に変化がおきます。
頭痛と寒気が間断なく襲ってくるのです。私は唇を噛みしめ、じっとそれに耐えるかしないのです。
「太郎、何度も言っているけど、審査員とは相性があるのよ。面白いというのは絶対的な物差しじゃないわ。人それぞれなの。その審査員と私たちとは、たまたま、その面白さをはかる物差しが違っただけなのよ。だからあなたは運がなかっただけ。もしも他の審査員に当たっていたら、間違いなくこの作品は受賞しているわ。私がその審査員よりも評価する力が劣っていると思う?」
母はひと息に言いました。まさに台本を見なくとも、セリフを記憶している舞台女優のようです。母のこの言葉を何度聞いたかわかりません。
「ほ、本当だろうな……母さん……」
兄の勢いはそこで弱まります。母の言葉には説得力があるのです。兄はそれを無視できません。
「嘘なわけがないわ。太郎の才能は、お母さんと琴音が一番理解している。あなたは日本のミステリー界を背負って立つ、二つとない才能なのよ。ねっ、琴音」
母はそう言って私に同意を求めてきます。
私はこの嵐が早く過ぎ去ってほしい、と祈りながら、何も考えずに何度も頷きます。
「また、落ちたらどうする?」
兄は猜疑心の塊のような表情を母に向けます。
「次こそは受賞できる。間違いないわ」
母は言い切りました。本当に大丈夫なのでしょうか。私は不安でたまらず生きた心地がしません。
しばらくの沈黙のあと、兄は何も言わずリビングを後にしました。
入ってきたときとは反対にゆっくりと車椅子を進ませます。電動リフトに乗り、二階の自室に戻るまで兄は一言も喋りませんでした。
部屋に戻ってもしばらくは難しい顔をしてじっとパソコンのディスプレイをを睨んでいました。
すると兄は徐に言いました。
「今年の応募で最後にする。これがまた一次で落ちたら、俺には才能が無いことを認めるしかない……そうなれば、俺に生きている意味なんてない……母さんを殺し、俺も死ぬ。そうすれば自然におまえも死ぬはずだ……全員、道連れにする……」
兄は本気で言っているのです。私にはわかります。あまりのことに言葉が出ません。
ですが、何か言わないと、このまま言わないでいると、物事がどんどん最悪の方向へ動き続けているように感じて、私は、震える言葉を絞り出しました。
「お、お兄ちゃん、し、死ぬなんて……さ、才能がないなんて……そ、そんなこと言っちゃだめ、ぐっ……な……ぐえ……」
首に激痛が走りました。苦しくて息ができません。それは兄の右手でした。すばやく腕を伸ばして私の喉を鷲掴みにしたのです。兄の腕の筋肉は異様に発達しています。首全体が万力で絞めつけられているような苦しさです。
兄の横顔が白む視界の片隅に見えました。それは怒りに支配された凄まじい形相でした。
「おまえ……俺のこと、才能もないのに一生懸命小説なんか書いてって……馬鹿にしてるんだろ……」
私は声も出せず、呼吸もままならない状況でしたが、必死で首を振りました。
「俺がどんな思いで、小説を書いているのか知ってるのか……すべてをあきらめているおまえとは違うんだ……」
腕にはさらに力が込められます。言葉が出ぬまま喘ぎ、視界は涙で滲み、その外側が徐々に黒く覆われてゆきます。
すべてが黒く覆われ、意識を失う、と思った瞬間、ようやく首の万力が外されました。
私は空気を求め喘ぎます。嗚咽し、涙を流しながらごぼごぼと咳をします。
たしかに私は兄とは違います。兄とは違いすべてを諦めているのです。
私は兄のしていることが理解できませんでした。
小説を書いて受賞できたとして、いったいそれが何になるのでしょうか。
もしもまかりまちがって新人賞を獲って、小説家としてデビューして世に出られたとしても、私たちなど、世間から奇異の目で見られるだけなのです。その先に幸せがあるとは思えませんでした。
ですが、兄は私と違い、小説を書くことにすべてをかけていました。
新人賞を受賞して世に出て成功する。それが唯一の生きがいになっていたのです。
だから兄の言葉は本気だとわかるのです。
そして母は、兄のことを全身全霊でサポートしていました。母は兄の作品を読んで貶めたことは一度もありませんでした。大絶賛を繰り返し、兄が小説家になることを一つも疑っていない口ぶりでした。
ですが、母は本心では、兄が小説家になれるなどとは思っていないような気がするのです。
直接、母の口からその言葉を聞くことなどできません。
それでも母は、たとえ兄に受賞の可能性が全くなかったとしても、書き上げた作品を最大限、褒め称えることを止めないでしょう。
母は、私たち兄妹の不幸を、自分の責任だと強く思い込んでいるようでした。その証拠に私たちは、一度も、母に怒られた、という記憶がないのです。母は私たちの願いを出来得る限り叶えてくれました。幼い頃から、欲しいものを母にねだれば、ほとんどの物を買ってくれたのです。
私たちに父親はいません。私たちが生まれてすぐに不慮の事故で亡くなったと聞いています。
私たちは母一人の手で育てられました。
お金で解決できることなら母親はなんとかしたかもしれません。ですが、小説家になりたい、という願いは、自らの力で掴みとるしかないのです。
それは不可能であると母もわかっているはずです。しかし、母は兄をどうあっても傷つけたくないようでした。
母の行っていることは自己満足でしかありません。本当に兄の為を思うなら、作品を強く否定し、そのためには、どのような努力が必要かを伝えるべきです。
そして母なら、教え方次第では、如何に才能のない兄だとしても、新人賞を獲るぐらいの技量を習得されられる、と私は考えていました。ですが、母は兄を否定しようとは全く思っていないようでした。
母は、兄を否定せず、兄の言うことをすべて受け入れ、挫折や悩みとは、まったく無縁の人生を送ってもらいたい、とでも考えているのでしょうか──。
母の、その自分勝手な思いが、もうすでに、兄を追いつめていることに気づいていないのです。
そもそもなぜ、自分の子供に対して、そのような卑屈な態度を取り続けているのかが、私には理解できませんでした。
兄は幼い頃から本を読むことが好きでした。社会と接点を持つことのできない兄、そして私も、本の中の物語世界に埋没することによって、一時的にでも、この閉塞した日常を忘れたかったのです。
面白かった作品の内容を、兄は私に語って聞かせてくれました。私もそれに影響されて本を読むようになりました。
幼い頃は絵本や童話、伝記など子供用の本を雑食的に読んでいたのですが、十才を過ぎたあたりから、二人ともミステリー小説に、夢中になりました。
ミステリー小説でも、本格ミステリーというジャンルの作品を特に好んで読んでいました。
私たちは驚きに満ちたその世界の虜になりました。
密室や吹雪の山荘、古い因習で束縛された小さな山村で起こる連続殺人事件。小説を盛り上げる奇想天外なトリック。そのトリックを冷静沈着かつ論理的に看破する名探偵の推理──。
私たちは、日常とはかけ離れた別世界で起こる、刺激的な物語に溺れたのです。そして、その間だけは、常に重い闇に圧し掛かられているような絶望的な日常から逃れることができました。
そして、兄はある日、突然、小説家になりたいと言って、ミステリー小説を書きはじめたのです。
それはまるで何かに憑りつかれたようでした。執筆宣言をすると、兄は猛烈な勢いで小説を書きはじめたのです。
それが小説家になるという突拍子もない理由がきっかけだとしても、社会に出て生きようという、前向きな目標を持っていることが、私には信じられませんでした。
きちんと聞いたことなどなかったのですが、兄も私と同じように、生きることにたいして、すべてを諦めていると思い込んでいたのです。
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