第5話 余白
もぬけの殻となったベッドを茫然と眺め、その上に指を滑らせる。すると、細やかに波打ったシーツから冷感が伝い、身体を突き破るように鼓動が大きく跳ねた。
「ユヅル!」
リビング、洗面所、クローゼット。
家中探し回ってユヅルの名前を何度も呼んだ。でも、何も返ってこない。1LDKのマンションなんて隠れるところは限られている。
リビングって、こんなに広かったっけ。
肩で大きく息をし棒立ちになると、慣れていた筈の静けや広さが赤の他人のように感じた。
ふっと全身の力が抜ける。
ソファの座面に体を預け、膝に肘を置く。手のひらで顔を覆うと唇の内側が小刻みに震え、涙が間断なく滑り落ちていった。唇の合間に入り込む度、舌がひりつく。
熱くてあつくて、身体中が張り裂けそうだった。
「ユヅルっ……」
どうして。
何で気が付かなかった。朝も昼も夜も可能な限りユヅルの側にいた。大切にしていたつもりだった。でも、ユヅルにとっては窮屈だったのか? 間違っていたのか?
俺はただ、ユヅルと一緒にいたかっただけなのに。
内側から悲鳴が上がる。掠れた吐息で愛しい人の名を模り――、突然、コール音が鳴り響いた。
不規則に収縮する心臓に誘導されながらも、ゆっくりとした足取りでテーブルに向かう。
「えっ……?」
すると、笹をあしらったガラス瓶の影でユヅルのスマホが白い光を放っていた。
『非通知設定』
液晶に表示された、五つの文字。
少しばかり逡巡したが早鐘を打つ鼓動に押されるように手に取り、恐る恐る口を開く。
「……はい」
『あっ! 良かった! タケさんだ』
心臓が、止まるかと思った。
「ユヅル? お前……、今どこにいる? 無事なのか?」
『うん、あのねタケさん』
「心配したんだ。なんで急に出ていった」
『あのっ』
「俺は――」
『聞いてってば!』
ユヅルの大声に、はっと我に返る。
「ごめん。動揺して……」
額に片手を預けながら言うと、ユヅルが『ううん』とかぶりを振るのが分かった。
『あのね、タケさん。俺、足挫いて帰れなくなっちゃって……。迎えにきて欲しいんだけど』
「っどこにいる!」
焦燥感に圧されるように早足で言うと、ユヅルの息を呑む気配がした。一拍後、少しトーンを落としたユヅルの声が鼓膜を覆う。
『公園。……ごめんね。迷惑かけて』
「迷惑なんて、そんなこと気にしなくて良い。それより、公園ってどこのだ」
『どこの? えっと……、あっ! タケさんと――』
ぶつ、と糸の切れる音が響く。
「ユヅル? ユヅル!?」
何度呼んでも返事はなくて、スマホから聞こえた断続的な三つの機械音は、助けを求めるモールス信号のようだった。
ユヅルは一体、どこから掛けてきた?
どくどくとはち切れんばかりに膨らんだ鼓動に、思考が定まらない。ユヅルのスマホを握りしめたままテーブルに手をつく。項垂れ、ふと、短冊が視界に入った。
笹に吊り下げた、ふたつの願いが。
家にあるユヅルのスマホ。公園。
そして、七夕。
――もしかして。
俺は咄嗟に顔を上げ、着の身着のまま家を飛び出した。
遠くの空は、昨夜の雨雲を引き摺るように重く澱んだ色をしていた。落とし穴のように点在する水溜りを蹴散らす度、お気に入りのスニーカーに泥水が張り付く。
でも、そんなのちっとも気にならなかった。
今はただ駆ける。
ユヅルのいる場所へ。
ユヅルと出逢ったあの場所へ。
たったひとつの、掛け替えのないあの星を見つけるために。
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