第3話 溝
本当は、拾われたのはユヅルじゃなくて俺のほうなのかもしれない。
ユヅルと一緒にいたい、この関係を守りたい。
幾度となく思う。でも、この世界はマイノリティに優しくない。
掛け替えのない人ができて初めて、ふたり歩く岸辺がどんなに歩き辛いか知ったんだ。
少し前、通勤途中に軽い熱中症になった。
二十代の時にはなかった宙を歩いているような感覚に、揺らぐ世界。早々に出勤を諦め、覚束無い足取りで帰宅をした。ユヅルは花屋のバイトでいない。ベッドまで行くのも億劫でリビングのソファに横になり、目を覚ますと、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたユヅルの顔が飛び込んできた。
「俺を置いていかないでよ、タケさん」
ユヅルの涙がぱたぱたと頬に降ってきて、
「置いていくわけ、ないだろ……」
泣き噦るユヅルを抱きしめながら、胸が張り裂けそうになった。
例えば俺が女でユヅルが男だったなら、十の年齢差なんて微々たるものだったのかもしれない。でも、俺もユヅルも男でどうしたってその差を埋めることはできない。
もし俺に何かあってもユヅルは書類上、赤の他人だ。連絡は常に後回しで、遺すものも遺せない。でも、俺はユヅルと親子になりたいわけじゃない。
ユヅルは両親と折り合いがつかず、高校卒業と同時に家を出た。
「ねえタケさん、『親子』って何だろうね」
そう言って悲しげに微笑んだユヅルを見て、例え書面上だけだったとしても上澄みだけの関係はいらないと思ったんだ。
その日を境に、どうしたらユヅルと一緒にいられるのかずっと考えている。でも、解決の糸口はなかなか見当たらなくて、だったらせめて、どんなに些細なことでも今の俺にできることをしようと思った。だから十年以上吸っていたタバコを止めたし、駅の階段だって使うようになった。
口が裂けてもそんなこと言わないけど、ユヅルにはきっと、バレているんだろうな。
♢
朝起きて、ユヅルが眠っている間に朝ごはんを作る。そして、匂いにつられてユヅルがのそのそと起きてくる。それが俺とユヅルのルーティンだ。
「おはようユヅル」
「んー……おはよう。……あっ! シュガートーストだ!」
ユヅルは始め元気がなくて、でも、朝ごはんを前にした途端、回復する。現金なやつめ。
「ねえねえタケさん、今日何の日か知ってる?」
俺の向かいに腰掛けるや否やうきうきとした口調でユヅルが言う。
「はいはい、七夕だろ」
目線を右に移すと、若葉色が映り込んだ。
七夕が近づくと、ユヅルはバイト先の花屋で笹を買ってくる。テーブルの上には涙型のガラス瓶が置いてあって、縁から飛び出した笹の枝葉が二つの短冊を覗き見るように垂れ下がっている。
「当たり! ねえタケさん、天気予報見た? 今日晴れるよね? ねっ」
「見たけど……、言わない」
「えっ」
「だから訊くな」
口を噤み、マグカップに手を伸ばすとコーヒーの心地良い苦味が流れ込んだ。
「やっぱり、インスタントよりドリップだよな。ほら、ユヅルも飲むか?」
マグカップを差し出すと、
「……雨なんだ。絶対雨なんだ」
ユヅルが小さく肩を落とす。
だから言わなかったのに。なんで雨なんだ、晴れろよ。理不尽な恨みを遠くの空にぶつけて、マグカップを引っ込めた。再び口をつけると、さっきよりも強い苦味が広がった。
「ほら、せっかく焼いたトーストが冷めちゃうぞ。美味しい内に食べろよ」
口角を頑張って持ち上げると、ユヅルは「うん……」とやや俯き加減にトーストに手を伸ばす。
あまりの落ち込みように少し可哀想になる。でも、両手の指で支えたトーストを咀嚼するにつれ、水を与えられた草花のようにユヅルの頭が持ち上がり、マグカップに波波入ったハニーミルクに口を付ける頃には完全に息を吹き返した。
ユヅルの表情が、ぱあっと一気に華やぐ。
「美味しい!」
無邪気に笑うユヅルは昔飼っていたゴールデン・レトリバーそっくりで、時折ぶんぶんと揺れる大きな尻尾が見える。単純な、いや、素直なユヅルに胸を撫で下ろしトーストを口にすると、バターの塩味が舌の上に滲んでいった。
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