Two Drifters

千住白

Two Drifters


 東京の医科大学に合格した高校三年生の春休み、僕は恋人と平島砂丘を歩いた。

 彼は海際の県営団地に住んでいたので、僕にとって、恋人に会うことは海に行くことでもあった。

 霧のような天気雨が降る寒い日だった。灰色の雲が僕らの目の前を横切っては消えていく。彼は何度も陽光を遮る雲を見上げた。彼の大きな目が光をはじく。

 やわらかくカーブを描く栗色の髪と、うすい緑色を含んだ茶色の虹彩。彼は淡く滲む笑みを常に浮かべて、僕の隣を歩いていた。黒く硬い髪と無骨な顔立ちの僕とは対照的な、はかなげな人だった。

 医大受験の予備校に通い詰めるストレスから解放されたというのに、僕の心は重かった。四月になれば僕は上京し、彼は地元の大学へ通う。彼は母親とふたり暮らしで、受験勉強のかたわら、乳癌の母の看病をしていた。彼は母親を置いて僕と東京へ向かうことができなかった。それが彼と別れた最大の理由だ。


 殺人現場へ戻る犯人のように、自分の傷跡の地を確かめる。

 勤務医として実家の医科大学へ行くことになった四月、僕はひとりで平島砂丘を訪れた。

 県営団地は閉鎖されていた。団地の入り口にはベニヤ板が張られていた。

 わだちが残る砂浜を、僕は東へ歩いた。あの日と同じ、柚問川の河口のほうへ。波で固まった黒い砂の一帯を選んで、波と平行に歩いていく。

 大学へ合格しても、僕の心は晴れなかった。病気の母を抱えた彼をひとり地元に置いていかなければならない未練と、彼とこれ以上深い関係になることへの迷いが、僕の心に重くのしかかっていた。

 七歳のころ、僕は母をスキルス性胃癌で失った。発見されたときには腹膜播種でステージ4、手の施しようがない状態だった。みるみる痩せていく母を懸命に助けようとした医師の姿を見て、僕は将来医者になろうと誓った。母が死んだとき、ひとりで立てなかった僕の肩を支えてくれた、医者になろうと。

 彼と出会ったのは、運命だったのかもしれない。飼っている犬の名前が同じだった。病気の母を必死に看病していた。何より、集団が苦手で、いつも世界の隅にいる異端者だという思いが、彼と僕とを繋いでいた。

 運命だと思いながらも、怖くなった。彼も僕も同性が好きなわけではない。身体の欲望を覚えると同時に、彼に劣情を催す自分を持て余す。当時の僕には勇気がなかったのだ。彼と一生を共に歩んでいく、勇気が。

 あいまいに晴れた空を見上げる。空の深いところを海猫の群れが飛んでいる。

 彼といっしょに天気雨の降る砂浜を歩いたのは、自分の鬱屈を持て余していたからだった。それとは裏腹に、いつまでも彼と同じ空気を吸っていたかった。柚問川の河口まで、できれば永遠に辿り着かないことを願いながら。


 景色は砂浜からアシの林に変わり、僕の目の前に柚問川の河口が現れた。陽は翳り、雨雲が低く澱んでいる。

 僕は柚問川の広い河口の砂州に立ち、足元で垂直に交わる河口の波を見ていた。

 あの日と同じように砂州の乾いた砂の上に腰を下ろす。

 ――僕は君ではないし、君を取り巻く空気でも、神様でもない。

 隣に座った彼が、ぽつりと呟いた。

 ――君の考えていることはわからない。だから、話してくれないか。

 彼が僕の肩に頭を乗せた。ふわりと僕の首筋にかかる彼のやわらかい髪の毛と、温かい肩の感触。彼の体温に全身を包まれるような気がして、目眩を覚える。

『vestibular labyrinth』

 医大受験のときに覚えた、身体の器官の用語をふと思い出す。前庭迷路。耳の三半規管のなかに、平衡感覚をつかさどる部分がある。脳の迷路に繋がる前庭がある。

 彼といっしょにいると、平衡感覚が狂う。彼の迷路の中心へ、僕は迷い込みたいのだ。彼と一生いっしょにいたい。彼が発する引力のなかへ巻き込まれたい。彼の肩に手を回して、身体を抱き込む。さらりと冷たい髪の感触が、僕の首筋に落ちる。

 霧雨に包まれて、僕たちはじっと垂直に交わる波の音を聞いていた。離れる瞬間が永遠に来ないことを願いながら。


「春森(はるもり)」

 やわらかい声が、僕の名前を呼んだ。

「やっぱり春森だ」

「……三崎(みさき)」

 何度も頭のなかで思い描いていた彼より、頬の輪郭が鋭かった。三崎はベージュのスプリングコートと、黒のカットソーにジーンズというラフな格好で、大きなゴールデン・レトリバーのリードを曳いていた。三崎はカーブを描く栗色の髪を軽めのアッシュブラウンに染めて、やはり頬に滲むような笑みを浮かべている。

「エルザ、まだ生きてたのか」

「十四歳。大型犬にしては長寿だね」

 尻尾を振りながら僕の隣に座るエルザの喉を撫でてやる。エルザは白髪交じりで、顔の肉が垂れ下がっていたが、ひとなつこい黒い瞳の輝きは以前と同じだった。

「こんな遠くまで散歩に来るのか?」

「叔父の家に引っ越したんだよ。叔父はこの近くに住んでいるから」

 だからここにもよく来るんだ、と三崎はエルザの隣に立って空よりもすこし濃い色の水平線を眺めた。

「ちょっと遊んでおいで」

 三崎がエルザからリードの綱を外す。エルザがはじかれるように砂州の向こう側へ走っていく。三崎と僕を遮るものがなくなって、僕はかすかに彼の体温を感じた。全身が仄かな熱に包まれる。

「君の家のエルザは元気?」

「三年前に老衰で死んだ」

「会えなかった?」

 僕がうなずくと、三崎は瞳に淡い陰を走らせた。

「僕も、母の死に目には会えなかったよ」

 三崎の母親が亡くなったことは、二年前の同窓会の席で知った。三崎は一度も同窓会に来なかった。そうやって、僕の存在を断ち切ったのだと思っていた。

 ――すべて白紙にしよう。

 東京へ進学した日、大学の寮で彼の手紙を受け取った。白い便箋にそれだけ書かれた、別れの手紙。

 三崎はあの日の僕の逡巡を見破っていたのだ。

 彼に電話をかけても繋がらなかった。三崎は携帯電話の番号を変えていて、僕は三崎の友達から、むりやり彼の新しい番号を聞き出した。

 ――遠距離で続く関係とは思えなかったから。

 電話口で、三崎は僕に壁を作っていた。

 ――春森には医大の実習があるし、僕は母を看なければならない。これ以上はもう、続けられないよ。

 三崎は僕を責めなかった。だから僕も、彼を責めるきっかけを失った。大学の過酷な授業に押し流されて、僕は彼の存在を忘れていった。

「実家に帰ってきたのか?」

「こっちの医大で、勤務医になったんだ」

「彼女はできた?」

 僕の隣に腰を下ろして、三崎は痛みをこらえる子供のような顔で笑った。何度も彼女を作ろうと思った。が、三崎の肩のぬくもりを思い出すと、身体が心にブレーキをかける。僕は器用に恋愛を繰り返す人種ではないのだと、そのときに思い知った。

「いないよ」

「春森はもてただろうに」

「好きな人にもてなきゃ、何の意味もない」

「それはそうだ」

 三崎が軽やかな笑い声をあげる。僕の体温がおかしいように、三崎のテンションもどこかおかしい。

「僕は、お前にもてれば、それでいいよ」

 三崎は泣き笑いのような顔で僕を見上げている。

「僕もあのときとは違う。自分の意志で自分の将来を決められる」

 三崎の肩を抱き寄せた。容易に腕が回る、細い身体。頬にかすめる、三崎の高い体温。

「僕といっしょに生きてくれないか。できれば、一生」

 三崎の目から涙が盛り上がった。ふるえる口元が引き結ばれる。声を殺して、三崎が泣き始めた。主人を心配したエルザが、僕らの周囲をぐるぐる回っている。

「あのとき、三崎をここへ置いていって、悪かった」

「あれは僕が……」

「ほんとうは、別れたくなかっただろう」

「すごい自信だね」

 泣いていた三崎が、ため息をついて笑う。涙を拭う僕の指に、三崎がそっと唇を寄せる。

「君は僕を置いて東京へ行くのが嫌だった。だけど、男の僕を本気で好きになるのも怖かった。君には将来がある。病気の人を幸せにするという使命もある。そんな君に、僕はふさわしくないと思った」

 でも、と僕の手に頬を添わせて、三崎が話を続ける。

「最後に君とここへ来たとき」

 三崎がまばたきをしながら涙を払う。

「僕は海側を歩いていた。後ろを振り返ると、僕の足跡は波に洗われて、ところどころ消えかかっていた。こうやって君のなかから僕が消えていくのかと思った。怖かった」

 僕は涙を浮かべて笑う三崎の顔に見とれた。こんな美しい人にずっと悲しい思いをさせていたのだと、今さらながらに思い知る。

「僕は君を忘れられなかった。エルザと散歩に来ながら、何度もここへ座って君を思い出した。僕は君にも、君の取り巻く空気にも、神様にもなりたかった。ほんとうはもう一度ここで、君に会いたかった」

 僕の手に涙を零しながら、三崎は笑った。霧雨が僕らを覆って、午後の光が細かい雨粒を金色に染める。

「願いが叶うとは思わなかった」

 僕らは微笑みながら唇を合わせた。甘い吐息に、吐息を重ねる。三崎の唇はやわらかく、かすかに涙の味がした。海水をうすめたような、塩の味。

 規則的に打ち寄せる波の音と、唇の立てるひそやかな水音が重なった。頭に血が上りすぎて、目眩がする。このまま君のなかへ溶けていきたい。君の耳の奥にある迷路へ迷い込んでしまいたい。

「一生僕といっしょに歩いてくれますか?」

 唇を離した僕は、三崎の頬を手で包み込んで聞いた。

「もう二度と波打ち際を歩かせないから」

 金色の霧雨に包まれながら、三崎がふわりと笑った。僕の視界で三崎の笑顔が滲んで、やわらかい光に溶けて消える。

「春森まで泣かないで」

 三崎が僕の涙を指で拭った。

「もう一生、離れないから」

 誓いの言葉を、エルザが黒く濡れた瞳で僕らを見上げて聞いていた。

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