第8話 ねえ、ねえってば

 言い訳の言葉一つも届かないような絶望に暮れた顔で瑞希は立っていた。デタラメなデッサンで描いた顔のように、全てのパーツがちぐはぐな感情を表しているみたいだった。


 「ねえ」


 そう呼びかけた言葉は当然のように宙に舞って粉々に砕け散った。わたしの言葉は瑞希にはどうやったって届かない。おまけに「きらい」なんて言われちゃった。


 涙を流しながら教室を飛び出す彼女を、ただ1人、わたしだけ未練がましくその背中を追い続けていた。


 田村のおまじないをからかう声を無視して、わたしも瑞季の後を追うように教室を飛び出した。


 でも、彼女の姿はどこにもなかった。


 見慣れた廊下、見晴らしの良い屋上、年季の入ったスノコから立ち昇る、ほのかに酸味を感じる昇降口。なんでどこにもいないの。


 瑞季の靴はある。まだ学校の外には出ていない。


 こんなに人が溢れているのに、たったひとり、会いたい人だけが見つからない。胸をぎゅっと締め付けられる苦しみが身体中に広がるみたいで。


 「ねえ」「ねえってば!」


 絞り出した声はだんだん弱々しくなってしまう。初めは声を出せば廊下の端にいた生徒がぎょっとして振り返ったのに、今じゃ数メートル先の生徒は、わたしの声なんて聞こえてないように談笑していた。


「なんでこんなことになっちゃったんだろ」


 おまじないなんかに手を出したのが間違いだったのかな。自分でオリジナルのおまじないを作るんだなんて、そんなバカなことをしたからこんな酷い目に遭ったのかな。ううん、せめて田村の前ではっきりと自分の気持ちを口してたら――。


 ああしていれば、こうしていればの後悔は尽きない。


 押し寄せる後悔の念に苛まれている間も、運動バカのわたしの足は勝手に校内を彷徨っていたらしい。

 

 はたと気づくと、いつのまにか校舎の外に出ていた。校庭とは反対側の陽の当たらない薄暗い場所。こんなところに彼女がいるわけがない。校舎の角を曲がったところで、その先は行き止まりだ。


 授業はとっくに始まっちゃっているみたいで、校庭の方からは賑やかな声が聞こえてくる。ああ、授業さぼっちゃったなぁと思うと、どうしようもなく情けなくなってきた。


 それまで動き続けていた足が急に重く感じてしまって、校舎の角を前に歩けなくなった。へたりとその場にしゃがむように座り込んでしまう。霜でも張っているように、土がむき出しの地面はスカート越しでも冷たい。

 

 ここには誰もいない。

 瑞季にわたしの声は届かない。

 あんな顔をさせてごめんって言いたいのに。


 「きらい」だって言われも、これほどまでにあなたのことが好きだって伝えたいのに。


「ねぇ、ねえってば」


 今まで何度も口にしたその言葉は、どの瞬間よりも弱々しくて、か細くて、でも瑞季のことだけを想っていた。まるで言葉が熱を持ったように、喉を震わせる時に確かに誰かの体温を感じた気がした。


 「……なあに?」


 聞こえるはずのない声は前の方から聞こえた。

 校舎の角。行きどまりで、人がひとり通れるくらいの隙間しかない方から。


 おずおずと、遠慮がちに校舎の陰から瑞希の顔が覗いた。よほど気まずいのか、顔の半分は壁に隠れたままだ。泣き腫らして真っ赤に充血した目が痛々しい。

 

 じっと彼女の姿を見て、ふと不思議なことに気が付いた。


「どうして……? 名前、呼んでないのに」

「……茉歩ちゃんに呼ばれた気がしたの。おかしいよね、きっとこれも私の勘違いだ……」


 ごめん、忘れてと言って瑞希の顔が校舎の向こうに消えちゃう。


「やだ、待って!」


 逃すものか。

 

 だって、だって――。名前を呼んでないのに、瑞希がわたしに気付いてくれたってことは。それはもう――。


「瑞希をずっと探してた。ずっと、ずっと、ずぅぅぅっと! ねえ、ねえってば!」


 あの声が届くなら。

 この「ねえ」に込められた想いもきっと届いているはずで。


 それから何度も、何度も、わたしは「ねえ」を叫び続けた。最終的には根負けした瑞希が照れながらこっちにやってきてくれて、


「そんなに何度も呼ばなくても聞こえてるから」


 と顔を真っ赤にして言った。


「茉歩ちゃんの気持ちは伝わったよ」


 はにかむように言うと、瑞希はわたしの耳元に口を寄せて、囁くように言った。


「でもね、名前も呼んで欲しい。ねえだけじゃもう、物足りないから。ねえ、茉歩ちゃん」


 最愛の人に呼ばれた名前を心に刻みつけながら、わたしは同じように笑って言い返した。


「ねえ、瑞希。―――だよ」


 瑞希にだけ聞こえる小さな告白に、彼女の顔はいっそう華やいだ。

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ねえ、ねえってば 雪島鷹也 @chicken_head

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