ep.1 赤髭の王
日英の会談からおおよそ1か月後。
東ヨーロッパにて、前触れなくそれは起きた。
闇の中に閃光が走り、砲弾の飛翔音が迫る。
弾着と同時に火焔が吹き上がり、後には深々と抉られた地面だけが残った。
砲陣地への直撃は砲身を引き裂き、側にいた兵士をひとしなみに宙へと放り投げる。弾薬庫への直撃で轟音が地面を揺らし、張り巡らされた鉄条網が引きちぎられる。
鋭い弾片が飛び散り、大勢の兵士が血染めになって倒れたかと思えば、地雷原に落下した砲弾が埋設された地雷を誘爆させる。川に落下した外れ弾は盛大に水飛沫を噴き上げ、水底の泥と共に雨のごとく降り注いだ。
被害から立ち直る間もなく新たな閃光が不規則に走り、弾着は急激に増えていった。
「来やがった! とうとう始めやがった!」
攻撃から逃れたソ連軍の兵士が吐き捨てるように叫ぶ。
ナチス・ドイツがソビエト連邦への侵攻を企てているという話は、国境を守る兵士の間では前々から噂されていた。昨年から、ドイツ軍機が何度もソ連領空に侵入し偵察を行う、国境の向こう側のドイツ軍が慌ただしく動き回るといった光景がよく見られるようになり、いつかその日が来るのではないかと囁かれていた。
だが一方でドイツとソ連は不可侵条約を結んだ友好国であり、貿易も活発に行われてきた。ドイツがベネルクス三国やノルウェー、フランスといった国々を制圧し、イギリスと熾烈な航空戦を行うようになると、「いくらなんでも、イギリスと戦いながら攻めて来ることはないだろう」といった考えが一般的になっていた。
オランダやフランスに傀儡政権が樹立され、ドイツがアフリカを主戦場とするようになると、その傾向はさらに強まった。アフリカ戦線のニュースを肴に兵士がウォッカを酌み交わすということも珍しくなくなった。
これは上層部も同様だったらしく、戦力の増強は勿論のこと、前線への警告も一切行われなかった。今の今まで独ソ国境は平穏そのものだったのだ。
それが遂に破られた。
ただの偶発的な国境紛争であれば、外交で解決することは十分可能だ。だがこれはそのレベルを超えている。視界の至る所に火炎や火柱が見える。どれほどの砲弾が撃ち込まれているのか見当もつかない。
新たな砲弾の飛翔音が聞こえ、急速に迫ってきた。
「伏せろ! 伏せるんだ!」
響いてきた誰かの叫びと同時に、ソ連兵は頭を抱えて地面に身を投げ出す。
だがそれが無意味な行動であったことを彼は瞬時に悟った。
視界が閃光で満たされると同時に、重力が反転、彼の身体は勢いよく吹き飛ばされた。大きく見開かれた彼の目に、予備の砲弾を巻き込んで天高く奔騰する巨大な火柱が映り、同時にその視界は永遠の闇に閉ざされた。
執拗な砲声に爆撃や機銃掃射が混ざり始め、それは薄暮まで続いた。
兵士の足り回る音や命令なのかも分からない叫び、それに傷を負った兵士の呻き声が重なる。悲鳴と怒号が渦巻き、それは群衆のパニックに等しかった。
同じ状況が、独ソ国境の至る所で展開されている。
夥しい数の軍用車両が地を埋め尽くし、上空では爆撃機や戦闘機が轟音を響かせる。ドイツ軍は陸と空から潮のような勢いでソ連領内へ雪崩れ込んでいた。
西暦1941年3月29日。
ナチス・ドイツと同盟国によるソビエト連邦への侵攻――バルバロッサ作戦がこの日、始まったのである。
♢♦♢♦♢♦♢
西暦1941年6月18日。南シナ海を北上する一群の船団があった。
輸送船と油槽船が20隻ずつ、5列の単縦陣を組み、その周囲を4隻の駆逐艦が固めている。船舶はいずれも喫水を大きく下げており、積み荷を満載している事が伺えた。全ての艦船には日章旗が掲げられている。
輸送船には欧州から輸入した先進機材、ドイツのエンジンや火砲、戦車、フランスの土木機械、軽車両等が。油槽船には蘭印パレンバン、パリクパパンから産出し、精油した上質のガソリンや軽油が。それぞれ積み込まれていた。
チ15と呼ばれるこの船団は一度台湾の高雄に入港し、本土へ向かうことになっている。
南シナ海の海域は在フィリピン米軍の哨戒範囲だ。
船団を守る駆逐艦の乗組員は緊張を強いられていた。
「見張りより艦橋。右九〇度に機影多数!」
船団の前方を固めるチ15司令艦である駆逐艦『追風』の艦橋に見張りから報告が飛び込んだ。
艦長の入戸野焉生は右舷側の空に双眼鏡を向けた。南洋の青空にゴマを撒いたように黒点がいくつも見える。
「あれは……」
距離があるため鮮明には見えないが、主翼の左右に2基ずつのエンジンがあることは辛うじて分かった。頭に叩き込んだ識別表で見覚えがある。
「見張りより艦橋、接近せる機体はB17と認む!」
「やはり……!」
あいつらか。入戸野は内心で舌打ちしながら呟いた。
ボーイングB17、フライングフォートレス。
アメリカ軍が運用する最新鋭の重爆撃機だ。
現状、日米両国は戦争状態にはないが、両国の関係はかつてない程に険悪だ。国民の反米感情も次第に高まっており、新聞では各社が毎号のように対米開戦を煽っている。
一方アメリカでも日本の蘭印進駐以降、反日感情が燃えあがっている。イギリスへの亡命に成功したオランダのウィルヘルミナ女王が繰り返し演説を行ったことも効果覿面だったらしく、対日開戦を求める声が高まると共に日系人への襲撃も相次いでいる。
日米開戦は時間の問題、というのは前線の兵士における共通認識だった。
「いつもの嫌がらせでしょうか」
「だろうな」
航海長の遠野清の言葉に入戸野は頷いた。
何としても日本に先に撃たせたいのだろう。日本の艦船に対する米軍の挑発が今年の2月ごろから始まった。
初めのうちは、南シナ海を航行する輸送船を哨戒艇が監視する、飛行艇が遠方から偵察するくらいのものだった。しかし近頃では駆逐艦が進路を塞いで妨害する、重爆撃機が低空から接近する、潜水艦が油槽船を付け回すなど、目に余る行為も増えて来た。
先制攻撃は連合艦隊から強く戒められているが、苛立たしさを感じずにはいられない。
「艦長より通信、第三艦隊司令部宛て打電せよ。『我、米重爆編隊と遭遇せり。位置、フィリピンより方位二八〇度、三五〇里。機種B17、機数約20。時刻一三三五』」
「砲術より艦長、対空戦闘の指示願います」
通信長に命じると同時に、砲術から意見具申の形で催促が飛び込む。
だが入戸野はこれを迷いなく却下した。
「必要なし。各員そのまま」
「ですが艦長」
「奴らだって先制攻撃は禁じられているはずだ。デカイ鳥が飛んでいるとでも思っておけ。それに、どのみち本艦の兵装でB17はどうにもならん」
苦笑しながら入戸野は下命する。
「船団全艦船に信号。『別命あるまで発砲を禁ず』だ。何があっても暴発させるな」
チ15の護衛に当たる『追風』と他3隻は、いずれもマドリード軍縮条約により12隻が建造された神風型の駆逐艦に属する。艦齢は15年を越えており老朽感は否めない。
主砲に12.7センチ単装砲4基、他に7.7ミリ機銃2丁を持つが、B17に対して効果は薄い。撃っても意味がないのなら無視が良策だ。
「B17、3機が降下! 編隊から離れます!」
「何だと!?」
唐突な報告に入戸野は思わず叫んだ。
双眼鏡で見ると確かに数機のB17が編隊から落伍するように高度を下げている。
「高度
「おいおい」
そりゃいくら何でもやりすぎだろう。
そんな言葉が口から出かかった。
B17は急激に高度を下げて来る。朧げにしか見えなかった輪郭がはっきりとしたものに変わり、機体の各所から突き出す旋回機銃まで見え始めた。
「砲術より艦長!」
「耐えろ。絶対に撃ってはならん」
入戸野は全てを聞き終える前に断固とした口調で命じた。
一発でも撃てば、これまでの友軍の忍耐の全てが無駄になる。
「高度
「爆弾槽が開いています! 艦長!」
「耐えろ!」
悲鳴のような声に入戸野は叩きつけるように言った。
撃てば終わりだ。その感情だけが最後の一線を踏み越えさせずにいた。
「米軍機接近!」
見張りからの声が飛び込むと同時に、3機のB17がフルスロットルで『追風』の上空を右舷から左舷に抜ける。轟音が辺り全てを満たし、船団の上空を3つの影が横切ったかと思うと、そのまま高度を上げて遠ざかってゆく。
「見張りより艦橋、B17遠ざかります」
安堵したような声が艦橋に響く。入戸野もほっと胸を撫でおろした。
(大したもんだ)
あれだけ接近すれば、追風の貧弱な対空兵装でも撃墜は十分可能だ。
確実に撃たれないという保証はない。いかに挑発といっても危険と隣り合わせの行動だ。
アメリカの重爆乗りには、思った以上に度胸のある者が揃っているのかもしれない。
入戸野は感心しつつ、前を見据えた。
これで終わりではない。全ての船舶を入港させるまでが己の任務なのだ。
B17をやり過ごしたチ15船団は、ゆっくり北へと進んでゆく。
彼らが日本を支える屋台骨であるということに疑いの余地はなかった。
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