極光の戦旗

あおびしお

第1章 炎の連環

ep.0 プロローグ

 西暦1941年2月14日。

 駐英日本大使である重光葵は、大英帝国外務大臣アンソニー・イーデンとの会談に臨んだ。


 英国は対独戦争の真っ最中であり、日本はそのドイツと同盟関係にある。今のところ日本はどの国とも戦端を開いていないが、会談が厳しいものになるだろうということはおおむね想像ができた。


 重光は心を落ち着かせつつも、気圧されるまいと気を引き締めて執務室に足を踏み入れる。

 案の定イーデンは厳しい表情で重光を迎えた。口元は引き締められ、笑顔は欠片も見られない。しかしその表情からはどこかやつれたものが感じられる。大英帝国の外相という立場から発せられる、名状しがたい威圧のようなものが徐々に薄れてゆくようだった。


「おかけください、大使閣下」


 イーデンは表情を崩さぬまま丁寧な口調で重光を迎える。

 重光もまた丁寧な態度を崩さぬまま、イーデンの正面のソファに腰を下ろした。


「貴官をお呼び立てした理由については、既に察しておられるでしょうな」

「無論です」


 確認するようなイーデンの言葉に重光はゆっくりと頷いた。


「貴国とアメリカ合衆国の対立は極めて深刻な状況にあり、双方に融和の兆しが見受けられません。我が大英帝国はアメリカとの同盟関係にあり、万が一両国の有事となれば、これに無関係という訳にはゆかぬのです」

「承知しております、外相閣下」


 日米関係が急速に悪化したきっかけは昨年1940年の11月。

 大本営がオランダ領インドシナへの進駐に踏み切ったことにある。


 当時、日本はドイツの後押しで樹立したフランス新政権の要請により、9月時点で仏領インドシナへと進駐していた。さらに各国からの輸出規制に対抗するため、ドイツとの間で防共協定を引き継ぐ日独伊三国同盟を締結。これによりアメリカをはじめとする各国からさらなる制裁を受け、何としても自前で資源を確保する必要に迫られていた。

 そこで日本が目を付けたのが、本国を占領され無主の地となっていたオランダ領インドシナだったのである。


 オランダが昨年5月にドイツに全面降伏した折、オランダ政府閣僚は国外脱出に失敗し、まとめてドイツ軍の虜囚となっている。そしてオランダ・ナチスの有力者だったメイノート・トーンニンヘンが首班に座り、ドイツ軍の武力を背に親枢軸政策をとっていた。


 オランダ領インドシナは資源の宝庫であり、石油は勿論のこと、生ゴムやボーキサイト、鉄鉱石なども産出する。

 日本はドイツの仲介を経てトーンニンヘン政権から「オランダ領インドシナの治安維持と現地民の保護」の要請を取り付けたのだ。


 要請に基づき陸軍第16軍がスマトラ、ジャワ、ボルネオといった島々に進駐、同地を支配下に置いた。トーンニンヘン政権に従うをよしとしない現地部隊との戦闘が幾度か生起したものの、いずれも小規模なものにとどまり、日本が何より求めていた油田も製油施設も無傷で接収された。


 予想されたことであったが、これに各国は怒りを露わにした。

 アメリカの反発は特に激しく「日本のオランダ領インドシナへの進駐は、治安維持の名を借りた侵略行為である。極東における領土拡張の野心を露わにしたものであり、世界秩序への挑戦とみなさざるを得ない」と大統領みずから議会で演説を行い、制裁が一層強められた。

 さらに本土を占領されたフランス亡命政権や、国外脱出に成功したオランダ王室も「オランダのトーンニンヘン政権はナチス・ドイツの傀儡政権である。そのような政権と如何なる取り決めを交わそうとすべては無効である。日本の進駐に一切の正統性はない」と、厳しい口調で日本を非難した。


 アメリカは従来の対日要求に「オランダ領インドシナからの即時撤退」を追加した新たな要求を突きつけ、石油や屑鉄の全面禁輸を行った。さらに国内では在米日本資産の全面凍結を行うと共に、フィリピンやグアムの航空基地を拡張。経済と軍事の双方で日本に対する圧力を強めた。


 元々日本とアメリカは満州事変以降、激しい対立関係にある。

 それが蘭印を巡る一連の流れによって顕出した格好だ。


 現状、アメリカが日本に対して宣戦布告することも、その逆も起きていない。

 だが、日米がいつどこで火を噴いてもおかしくない。

 それが1941年2月時点での極東情勢だった。


「しかし外相閣下、貴国は既に米国と足並みを揃える意思を固めておられるのではありませんか?」


 重光はイーデンに対し切り込むような口調で言った。

 米英は軍事同盟関係にある。盟約によれば日本からアメリカに宣戦布告すれば、イギリスには対日宣戦の義務が生じる。だが逆の場合には、この義務は生じない。

 とはいえ「義務がない」というだけであり、イギリスが対日戦に参戦しないという確約ではない。仏印、蘭印においてアメリカと共同歩調を取り、今また対独戦でアメリカの支援を頼りにしているイギリスが、対日宣戦を断れるかと考えると微妙な所だった。


「まだ決まっておりません。全ては貴国の選択次第です」


 イーデンの言葉に、重光は目を見開いた。

 想定していない返答だったからだ。


「何か?」

「い、いえ……失礼ながら、貴国は米国と一枚岩であるとばかり思っておりましたので」

「我が大英帝国はナチス・ドイツ打倒のため、アメリカの力を必要としております。ですがそれは、アメリカが貴国と戦端を開くことを望むこととイコールではありません」

「貴国には、我が国と戦う意思はないと……?」


 イーデンは肯定も否定もしなかったが、重光は確かな手ごたえを感じた。

 少なくとも蘭印に進駐した直後の、取り付く島もない状態とはまるで違う。


(不本意ではあるが、感謝せねばならんな。ドイツには)


 おそらくイギリスの態度の軟化は、ドイツの快進撃よるものが非常に大きい。

 実際、今の大英帝国は相当に追い詰められている。


 きっかけは、英連邦の足並みが大きく乱れた事だった。

 ポーランド侵攻を機とした英仏とドイツの開戦の折、英連邦の有力な一員だったオーストラリア、南アフリカ、ニュージーランドといった国々が、欧州の戦争には中立を保つ旨の宣言を共同で発布するとともに、英連邦からの脱退を宣言した。先の大戦と恐慌で大きな犠牲を払った各国は、此度の戦争で完全な部外者となったのである。

 これによってイギリスは、英連邦という兵力の補給元を失った。


 さらに泣きっ面に蜂とでも言うべきか。フランス防衛戦の末期、イギリスの大陸派遣軍22万7千人とフランス軍9万5千人がダンケルクでドイツ軍に包囲され、誰一人として英本土に撤退できなかった。

 唯一ブリテン島に撤退できたのは、命令の伝達ミスによって船団が予定より早く出港し、偶然カレーから逃げおおせた2万6千人の将兵だけという有様である。

 この一件は後に「ダンケルクの悲劇」と呼ばれるようになる。


 続く英本土航空戦、いわゆるバトル・オブ・ブリテンでは辛くも勝利を収めたが、北アフリカ戦線では敗北を重ねている。昨年10月にはリビア東部の要衝トブルクが陥落し、さらに今年1月にはエジプト西部の要衝サルームが陥落した。

 大使館付陸軍武官らの分析では、余程の大事が起きない限り今年8月までにはカイロが陥落、今年中にエジプト全土が枢軸軍の制圧下に置かれる可能性が高いとのことだった。


 英国の日本に対する態度の軟化は、率直に言ってしまえば、ドイツ軍の勢いを止められそうにない現状で、日本と戦う余裕もなければ、アメリカに余計な消耗をしてもらっても困るといったところだろう。

 これまでは会談するたびに仏印や蘭印についての非難から始まっていたが、今日はそれすらなかった。それだけイギリスにとって余裕がなくなっているのかもしれない。


 大使として戦前から大英帝国を見て来た重光にとっては複雑な感情もあったが、これは好機であるとの歓心もあった。

 仮に対米開戦となった場合、ドイツやイタリアは盟約に基づいて対米宣戦をするだろう。そうすればアメリカに二方面作戦を強いることが可能になる。

 さらにイギリスと日本が交戦国とならなければ、来るべきアメリカとの講話の仲介にも役立つかもしれない。


「率直に申し上げましょう。我が国としましては、極東植民地の安全を確保したいのです」

「……我が国が、貴国の植民地への領土的野心を持っていると?」


 そういうことか、と重光は頭の中で呟いた。

 ドイツに圧されつつある現状、日本が極東にあるイギリス領に侵攻しても、それを跳ね返す力はない。

 日本が仏印、蘭印を占領下に置いたことで、その脅威は現実のものとなった。

 もし今の状況で極東植民地を失えば、大英帝国の威信は地に落ちる。


「我が国が蘭印に進駐したのは、オランダ本国が占領下に置かれ、植民地を維持する存在が消滅してしまったためです。現地の治安を維持し人命を守るという、人道的観点から軍を派遣しているに過ぎません。本国が健在の大英帝国植民地が我が国に保護を求めるなどありえないことです。我が国には貴国の植民地への領土的野心など欠片もありません」


 重光は強い口調で言い切った。

 ここは譲れない一点である。仏印、蘭印においては「乱脈していた地域に保護を与えた」というのが、何と言われようと日本の公式見解だ。

 それを聞いたイーデンはしばし考え込むような表情を見せ、重々しく口を開いた。


「我が国が、何も掴んでいないとお思いですかな」

「……というと?」

「貴国が仏印や蘭印において現地の民族主義者を支援し、近代国家建設の指導に当たっているとの情報を、我が国は掴んでおります。貴国はいずれ仏印や蘭印を独立させ、現地人による新国家を立ち上げようと画策しているのではありませんかな?」


 思い当たる節があり、重光はしばし押し黙った。

 陸軍の秘密機関が仏印や蘭印で動いていることは重光も知っている。植民地が自ら独立の道を歩んだという体を取り、大日本帝国の傘下に組み入れる目論見があることも。

 仏印で活動する機関は指揮官の頭文字からF機関、蘭印で活動する機関は現地の言葉からP機関と呼ばれている。

 元々は植民地で反宗主国運動を煽ると共に、資源の自給自足体制を確立するための組織だった。しかしフランス、オランダの両国があまりにも早く降伏してしまったため、目的が独立支援へと変わっていった過去を持つ。


「かくのごとき工作を我が国の植民地で行われては、たまったものではないのですよ。マレー、シンガポール、ビルマ、セイロン、そしてインド。いずれも我が大英帝国にとっては不可欠の地ばかりです。一か所でも喪失すれば、それは帝国崩壊への誘い水となりかねません。それだけは断じて避けなければならぬのです。たとえ、貴国と戦端を開くことになったとしても」

「何度も繰り返し申し上げます、外相閣下。我が大日本帝国はあくまで、治安維持のためにインドシナへ進駐しているに過ぎません。侵略的な意図など欠片もありません。現地から産出する資源につきましても、我が国は商取引として対価を払っており、一切の収奪も行っておりません。我が国が貴国の植民地に対して武力行使を行うことは、いかなる形であっても億に一つ、いや兆に一つもありません」


 本心を言ってしまうと、マレーやインドでの反英運動を煽り、ひいては独立させることでイギリスをアジアから駆逐するための計画は存在する。連邦がひび割れ、帝国としての威信が低下している今は絶好の好機だからだ。

 だが仏印や蘭印に想像以上の人員が奪われてしまい、まだ計画を開始できる状態にないのが現状だ。イギリス植民地を担当する予定だった特務機関の人員は現状3人しかいないという有様であり、まず人選から始めなければといった声が上がっている。


 しかし、イギリスがそもそも対日宣戦をしないというのなら話は変わってくる。むしろイギリスが今のままでドイツやイタリアと盛大に噛み合ってくれれば、アメリカの物資は欧州に集中する。その方が日本にとっては都合がいい。

 そうなれば、英国植民地への工作活動そのものが不要となる。


 仮に英国と争わずに済む事態となれば、大使館の陸軍武官にその旨を話し、英国植民地における計画をただちに白紙に戻すよう本国に取り計らってもらわなければ。

 重光は考えを巡らせていた。


 イギリスの諜報力であれば、日本が英国植民地にだけ工作を行っていなかった事実は既に掴んでいるはずだ。もっとも領土的野心が無いわけでなく、単なる人員不足なのだが、プラスに働くことは間違いない。


「それは貴国の意志と考えてよろしいですな。絶対に我が大英帝国の極東植民地には手を出さぬと、確かに約束していただけますか?」

「私は日本の特命全権大使です、外相閣下。私の意志は大日本帝国の意志です」


 イーデンはしばし瞑目した。


「……よろしい。信じましょう」

「ありがとうございます。大日本帝国の大使として、確かにお約束いたします。その代わり貴国も日米戦が勃発した折には中立を維持していただきたい」


 そこまで言ったところで、イーデンの表情が初めて緩んだ。


「大いに結構。取引成立です」


 立ち上がり、右手を前に差し出してくる。

 重光もすぐに立ち上がり、その手を握り返した。


「ただし、我が国とアメリカの盟約についてはくれぐれも留意なされますよう。貴国がアメリカに先んじて宣戦布告をなされた場合、盟約により我が大英帝国も貴国と戦わざるを得なくなりますので」

「本国にも厳重に伝えます。決して大英帝国を敵に回さぬようにと」


 イーデンは満足げに頷き、口元に微笑を作った。


「実りある会談となりましたな」


 重光はへたりこみそうなほどの疲労感を覚えたが、同時に大きな満足感も得た。

 米英を同時に敵に回すという最悪の事態は免れたのだ。


 ただしこれからは英国植民地に対して工作活動も含めて一切の手出しはしないよう徹底させなければならない。大本営、特に陸軍からは相当な反発があるものと考えられる。


 これからが大変だと、重光は気を引き締め直した。

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