私の弟

イグチユウ

私の弟

 小さいころ私はおてんばな性格で、誰よりも明るかった。女の子たちが集まっておしゃべりしている輪の中にいるよりも、男の子たちと一緒に外で遊ぶことの方が好きだった。女の子でありながら男子のグループのリーダー的存在で、全力で一緒にサッカーやドッチボールをしていた。持っているおもちゃもほとんどは女の子たちがよく持っているような可愛いお人形さんではなく、男の子が持っているようなロボットや戦闘物の変身ベルトだった。母親も最初はお人形さんを買ってくれていたのだが、私がそういうものに全く興味がないということを理解してくれたらしく、男の子向けのおもちゃを買ってくれるようになっていったのである。昔買ってもらった女の子向けのおもちゃたちは気づけばどこか私の知らないところへと姿を消していた。当時の私はとにかく、“女の子”というようなものを拒絶していたように思う。自分を男だとは思っていた訳ではないのだが、周りの“女の子”という存在が、どこか自分とはかけ離れたものであるということは早々と気づいていた。

 しかし、ある日それががらりと変わってしまったのだ。

 その日、私は全く眠ることができなかった。どんなに眠りにつこうと瞼を下してみても、眠気が襲ってこないのだ。まるで私の眠りへとつながる通路が、大きな壁で完全にふさがれてしまっているようだ。いつもはとても寝つきがよかったので、それはとても不思議な感覚だった。眠ることができなかった私は、布団から抜け出すと、眠れないのだったら今から何をしようかと考えた。

 もしもこのまま朝まで眠ることができないのだとしたら、途方もない時間がある。しかしこの部屋の中で騒いでいては、両親が目を覚ましてきて叱られてしまうだろう。

 今までにないことだったので、なかなかいい案が浮かんでこなかった。そして、ふと私は思ってしまったのだ。そうだ、外に行ってみよう。

 当時、私の友達の間ではいろんなところに冒険に行くことが流行っていた。自転車に乗っていままでに行ったことがない場所へ行くことが、新しい発見があってとても楽しいのだ。新たな発見を繰り返すことで、自分が大人に一歩近づいていくのがはっきりと感じられるのである。

 そう決めた私はすぐに行動に移した。静かに自分の部屋から出ると、両親が眠っているのを確認しに向かう。寝室のドアに耳を押し当てたが、二人の声は聞こえない。これなら私が外に出たとしても二人は気づかないだろう。そう確信し、私はそっと家から出て行った。

 夜の街というのはとても新鮮だった。いつものように目にしていた街の景色でさえも、違う世界に来たかのように感じられる。いつもは太陽に照らされている町並みは夜の暗闇に包み込まれて、とても静かだ。家々の明かりはほとんど消えて、街頭の光が道を照らしている。それは子供だった私からすると、SFやファンタジーの世界にさえ思えた。少し怖いという思いもあったが、それ以上に好奇心が心の底から湧き上がっていた。私は夢中になって自転車のペダルをこいだ。目的があるわけでもないのに、自転車はものすごいスピードで進んでいく。

 家を出てから一体どれくらいの時間がたっただろうか。時計を持っていないので時間の感覚が全くない。いつしか私も少し疲れてしまい、ペダルをこぐ足を止め、自転車から降りた。家からは離れているものの、自分が訪れたことのある場所で、まだ自分の活動範囲内だ。自転車を止めたその場所は、公園の前だった。この公園は遊具などもあるが、木や植物がたくさん植えてあるような公園で、あんまり遊びには来たことはなかった。

 疲れをいやすためにしばらく休んでいると、その公園の中から何やら音が聞こえた。

 ――なに?

 体がこわばり、恐怖で背筋が凍るのを感じた。幽霊が出たのかと思い、今すぐにでも引き返したいという衝動に駆られてしまう。

 今になってみると、その思いに任せて素直に帰っていればよかったのだろう。そうすれば私はいつもと変わらない朝を迎えることができたはずだ。しかし、当時の私は自分が勇気にあふれた存在なのだと思い込んでいた。幼く、勇気というものを履き違えていたのだ。私は逃げるという選択を捨て、その音の正体が何なのかを確かめに行った。もし、何かすごい発見があったなら明日友達に自慢ができる――そういう風に考えていた。

 私はできるだけ静かにゆっくりとその音がする方へと近づいた。もし正体が生き物だったなら、逃げられてしまうかもしれないからだ。段々近づくにつれて、音がはっきりとしてきた。聞こえてきていた音は、どうやら人の声らしい。しかも一人の声ではない、男と女の声がする。男の方の声は怒鳴りつけるような声で、女の声は少しくぐもっているが泣いているらしい。

 その二人の声は公園の茂みの中から聞こえてくる。一体こんな時間に何をしているのかと、私はその二人に気づかれないようにそっとその場所を覗き込んだ。

 今でもその光景は忘れることができない。茂みの中ではガタイのいい大人の男が一人の女性を押し倒していた。男は力づくで女の人を押し倒し、女性は必死にそれに抵抗しようとしているがびくともしていない。当時の私からしてみるとどちらも十分に大人で違いはなかったが、今になって振り返ってみると、男の方は三十代か四十代ぐらいの中年男性で、おそらく女性の方はまだ若く二十代ぐらいの若い人だった。

 女の人はスカートを下され、上着も押し上げられてほとんど裸のような状態で、目には涙が浮かんでいる。男の顔はこちらからは見えなかったが、男はズボンを下して下半身を露出しており、その露出した下半身を女性の股の間へと押し付けていた。女性が叫び声を上げようとすると、それを遮るために男は彼女の顔を力任せに殴打する。それはまるで、獲物を食らう肉食獣のようだった。

 男は女の抵抗を力づくで抑え込みながら、腰を振り続ける。それが一体どういう行為なのか当時の私には理解できていなかったが、ひどくおぞましい行為であるということは分かった。

 私はその予想もしていなかった光景に言葉を失っていた。一体何が起こっているかもわからず、ただその場に固まってその光景に視線が縫い付けられていた。自分が何をすればいいかもわからず、私はその光景をただただ、見つめる。女性は何度も何度も殴られたせいで、次第に抵抗することを辞め、途中から人形のように動かなくなった。

 そして、私はその人形のような女の人と目が合ってしまったのだ。

 その瞬間まるで死神に魅入られたかのような恐怖を感じた。その女性の目はこの世のすべてに絶望していた。悲しみや憎しみや恐怖が混じった暗い色をしている。その女性はきっと私に助けを求めている。そんなことは当時の幼い私にも分かっていたが、本能的にその場から逃げ出していた。男に気づかれないようにしなければいけないということなど全く頭になかった。この異様な空間から離れなければという考えが、頭の中を支配していたのだ。私は公園の入り口に止めていた自転車にまたがり一心不乱にペダルをこいでいた。

 帰っている最中の記憶はほとんどない。一体どのような道で帰ってきたかも覚えておらず、あんなに心奪われた景色さえ頭の中から消えている。私は、気づくと家の自分の布団にくるまっていた。


 家に帰った私は眠ることができなかった。どんなに寝ようとしても、あのおぞましい光景が頭から離れてくれない。もう自分の家の自分の部屋の中にいるというのに、ずっとあの女の人が私を見つめているかのような感覚が消えない。その視線を避けるように私は布団の中で丸くなったまま、体を小刻みに震わせた。まるで真冬に裸で外に放り出されたかのような寒気が全身を覆っている。ただひたすら朝が来たらすべてが嘘になっていることを祈っていた。あれは、ただの悪い夢だったのだと信じたかった。

 私は結局一度も眠れずに朝を迎えた。鏡の前に立たずとも、自分の目がうつろになっていることが分かる。

「起きなさい、もう学校に行く時間でしょ!?」

 階段の下から母親の声が聞こえてきた。私は学校に行きたくなかったが、理由を母親に伝えられるはずがない。仕方なく私は階段を下りて、父親と母親がいる台所へと朝食を摂りに行った。父親は新聞を広げていて、母親は朝食の準備をしている。私が入ってきたのに気づき父親が新聞を畳んで私の方を向いた。

「どうした? 元気がないな」

「いや、別にそんなことないよ」

 私は心配そうな父親にそう答え、自分の椅子に腰を下ろした。部屋に設置されたテレビの画面にはポップな雰囲気の朝のニュースが流れている。アイドルが出す新曲や、俳優の熱愛の報道についてタレントが話をしているが、そんな内容に没頭できるはずがなく、私はただただそれを呆然と眺めていた。

 芸能のコーナーが終わると、報道のコーナーが始まった。


『○県×市××町の公園で、今朝女性の死体が発見されました』


 女性のアナウンサーが淡々と告げたその言葉に私の後頭部が勢いよく殴られた。先ほどまで放心状態だった頭の中も、嘘だったかのようにはっきりとし、私の心ははっきりとそのニュースに向かう。

 テレビに映っていたのは明らかにあの公園だった。警察が調査を行っている姿が映し出され、現時点では犯人の情報は何もないということをアナウンサーが説明していた。まだ発見されたばかりで情報が少ないせいか、そのニュースはすぐに次のニュースへと切り替わった。

「さっきの事件この辺りじゃないか。随分と物騒だな」

「そうね。……早く犯人が捕まってくれるといいけど」

 両親がその事件に関して口にしたのはそのぐらいだった。しかし、私の頭の目にはあの襲っている男性の姿と襲われる女の人の姿が焼き付いていた。


 それ以降、私にははっきりとした変化が訪れた。今までは男の子たちとつるんでいたのだが、その事件を境に私は男の子たちと一緒に遊ぶということができなくなってしまったのだ。あの女の人を襲う男の姿が頭をよぎり、男という存在がとてつもなく汚らわしいもののように思えてしまうのである。あの事件の翌日男の子たちと遊んだが、運動中に男の体が私に触れた時、私の心がそれをひどく拒絶した。私は彼らとの遊びから抜け出して、水飲み場で触れた部分を何度も何度も洗った。しかし、どれだけ洗っても汚れているかのように思ってしまうのだ。見えない穢れがそこに染みついていて、それを取らなければ死んでしまう――そんな感覚だ。

 私は男の子の輪の中から外れた。今まで女の子たちと関わっていなかったので、すぐには女の子の輪の中に入ることもできなかった。一か月ぐらいはほとんど一人で誰とも話さなかった。しかし、もともと社交性は高い方だったので、しばらくすると女の子の集団にもうまく溶け込むことができた。趣向が変わったわけではないので、ファッションや男性アイドルの話には興味を持つことができなかったが。情報をネットで調べたりしながら話を合わせていた。

 もともとリーダー気質で男子の輪の中でも引っ張って行く方だったからか、段々と女の子の集団の中でもリーダー的な存在となり、女の子の輪の中にいることもいつの間にか自然なことになっていた。おかげで、私は小学校生活を無事に終えることができた。

 中学校に上がった私は地元の子供がみんな通っている学校ではなく、少し離れたところにある中高一貫の女学園へと進学した。女の子の輪の中に入るようになったとはいえ、同じ学校にいる限りは男の子との関わりを避けることはできない。一切の関わりを断つために女学園に通うことにしたのである。日常的に男性と関わっていると、いやがおうにもあの事件の光景が思い出されてしまう。女子高に通っていれば、そのうち忘れることができるのではないかと考えたのだ。

 女子だけしかいないその場所で私は結構もてた。女の子からたまにラブレターをもらうこともあった。しかし、私は女の子に対して恋愛感情を抱くことはできなかったので、それらはすべてお断りしていた。男性というものを拒絶しながらも、かといって女の子のことを好きになれるわけでもない。そのせいで、私は恋愛感情というものがよく理解できなかった。まるでそれは漫画やドラマの中の話のようで、自分に当てはめることがどうしても無理だった。周りの子たちが恋愛の話をしているのを聞くと、どうしようもない疎外感に包まれ、話を私に振られても曖昧なことしか言えなかった。

 私は学園生活を平穏に過ごしている間に、あの事件のことを思い出さなくなってきていた。しかし、思い出さなくなったからと言ってその鎖から解放されたわけではなかったのだ。  

私が中学二年生になった夏のある日、夜中に私はふと目を覚ました。その日は随分と蒸し暑く、喉がカラカラになっており、飲み物が欲しくなった私は台所に向かった。冷蔵庫には飲みかけのポカリスエットのペットボトルが入っていて、私はそれを手にし、自分の部屋に戻ろうとしたが――両親の部屋から二人の声がしたのである。

 時計はもう夜中の二時を指していて、普段なら二人はもう眠っているはずだ。私は一体こんな遅くに二人が何をしているのだろうかと、足音を忍ばせて二人の寝室に近づいた。すると偶然にもドアが少し開いていて、息を潜ませながらそっとそこから部屋の中を覗き込んだ。部屋の明かりはついていなかったが、廊下からの光で二人の姿を確認することができた。

 二人はベッドの上で重なり合っている。二人の口からは吐息が漏れ、父親は腰を動かし、母親がその腰に足を絡めていた。

 私の呼吸が一瞬止まった。

 性交を知らなかったわけではない。あの事件現場を目撃した時はまだ幼かったのであれがどういった行為なのかを知らなかったが、さすがに中学二年生にもなれば当然理解している。しかし、その行為を父親と母親が行っている姿というのは私の目には異質に映った。私という子供がいるのだから、当然二人にそういう関係がないはずはない。分かっていても、両親と性交という行為はかけ離れているように感じてしまう。

 あの事件とは違い、二人は愛し合って性交に及んでいるのだ。しかし、私には二人のその様がひどく汚らわしいものに見えた。二人の姿がまるで違うはずなのにあの二人に重なってしまうのだ。忘れていたはずの光景が私の頭の中を支配し、全身の血が凍りついた。

 私は自分の部屋に戻り、あの日のように布団にくるまった。そして、どうか早く朝が来てくれとただ祈った。


 それから時が過ぎ、私は病院にいた。この病院には今母親がいる。私は母親のいる部屋の近くにあるソファーに座っていた。今、父親もここに向かっているらしい。私は何も考えないようにしながら、ただ時計の針を眺めていた。その時の私はまるで時計と一体化しているかのようでさえあった。何も考えず、ただ時間だけが変化していく。

 しばらくして、父親がやってきた。随分と急いできたらしく呼吸が少し荒くなっていた。

「間に合ってよかったね」

「あぁ、なんとか無理言って仕事を抜けてきたんだ」

 そんな会話をしていると母親がいる病室から泣き声が聞こえてきた。部屋から出てきた人に連れられて、私と父親は母親のところへと行った。母親はベッドの上で微笑みながら、小さな赤ん坊を抱えていた。

 私はその姿を見ながら吐き気を覚えていた。分かっている。そんな感情を抱いてはいけないということは。私は祝福しなくてはならない。新しい生命の誕生を、新しい家族ができたことを。しかし、私はこみあげてくる吐き気を堪えるのに必死だった。

「元気な男の子ですよ」

 そこにいた看護師の女性がそう言った。父親はそれを聞いて嬉しそうに、母親から受け取った赤ん坊を両手に抱えている。

「ほら、お前の弟だぞ」

 そう言って、父親が赤ん坊を差し出してきた。あのおぞましい行為から生まれてきた、汚らわしい男の子――私の弟を。

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