檻のなかの野生

犬坊ふみ

檻のなかの野生





「うわ! これはひどい……」


 玄関から入ってきた特殊清掃の田子さんは、鼻がまがるほどひどい臭気に眉をひそめた。

 新人の岡本くんなんかは、吐き気をもよおしたのか口を押さえ、そのままなすすべなく固まってしまった。


 古い表札のかかった、崩れかけたボロ一軒家。

 この家の中で、家主は死んだ。

 死んで、発見されたのはひと月後のことだったから、だいぶ腐敗が進んでいた。

 すでに警察によって死体は撤去されていたが、残された死臭はすさまじいものがある。

 しかも臭いのもとは、死臭だけではない。


 だいぶ高齢だった家主の男性は、犬を飼っていた。大型犬、小型犬、いろんな犬を飼っていた。それというのも捨て犬をどこからともなく拾ってきて、いつのまにか増えていったということだ。

 わんわん、きゃんきゃん騒音がうるさくて、近所からはひっきりなしに苦情がはいっていた。

 狭い庭には、錆びたワイヤーでバリケードが作ってあって、犬が脱走しないようにしていたという。


 もう犬たちは保健所につれていかれたから、部屋には一匹も残ってはいなかった。

 しかし床には犬の排泄物、汚物、抜け毛がちらばってこびりつき、ひどい有り様だった。

 破られた襖、引っかき傷だらけの柱、ちぎれたカーテン、なにもかもが最悪の状態だった。

 家主の男性には仕事も財産もなく、年金だけでほそぼそと生活していたという。

 しかし増えていく犬たちを食わしていくには金が足りず、知人や親戚に借金をくりかえし、周囲からは疎まれていた。


「食ってたんだって、犬が」

 リーダーの田子さんがいった。

「え? なにを?」

「家主の死体をだよ。顔の肉と、足の肉と、食われてなくなってたんだと」

 耐えられず、岡本くんが嘔吐する音がきこえた。


「ほんと、無知って怖いですよね。かわいそうだからって捨て犬を見境なく保護して、後々どうなるかなんて何も考えてなかったんスかね」

 岡本くんを横目でみつつ、先輩清掃員の山田が眉をしかめつつそういった。

「ほんと、バカっすね。自分は死んじまったらおしまいだけど、他人様ひとさまの迷惑考えないんスかね」

 それを聞いてもう一人の茶髪の派遣がゲラゲラ笑い、

「そういうな。そのおかげで俺等のしごとがあるんだから」

 といった。

「軽口たたいていないで、さっさと仕事を終わらせるぞ」

 リーダーの田子さんは、談笑しているスタッフをたしなめた。




 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





 田子さんは、その夜、夢をみた。

 夢のような、夢でないような、おかしな夢だった。



 花畑のなかをきょろきょろしながら、ゆっくりと歩いてくる男性が見えた。

 田子さんには見覚えのない顔だったが、なぜか「俺はこの人を知っている」と思った。

 そう、あのボロ一軒家の家主なのだ。

 見ず知らずの死人なのに、なぜ夢に現れたのか。なぜ「あの家の家主」だとわかったのか。

 そしてなぜか田子さんは知っていた。

 これは、あの家主が三途の川をわたる場面なのだと。





 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−





 三途の川には、橋がかかっていた。

 橋は、太くがっしりした立派な造作だったが、こちら側は日があたりあたたかく、橋の中ほどあたりからその先はモヤがかって暗く、よく見えなくなっていた。


 歩いてきた男は橋にさしかかったとき、ふと立ち止まった。

 橋のこちらがわは、花が咲き、蝶が舞い、夢のような光景だった。

 しかし向こう側が暗いので、なんとなく不安な気持ちになったのだ。しかし……


 わんわんわん

 きゃんきゃんきゃん


 いつの間にか、たたずんだ男性のまわりにはたくさんの犬たちが集まってきていた。

 大きな犬、小さな犬、血統書つきのいい犬もいたが、どこにでもいる雑種もいた。

 目が片方潰れた犬もいたし、びっこを引く犬もいた。


 みな捨て犬だった。

 身体が不自由だから飼い主に捨てられたのか、捨てられたから不自由になったのか。

 いずれにしてもみながみな、男性に拾われ、助けられた犬たちだった。


 犬たちはみな、生きていたときとはちがい、晴れ晴れとした顔をしていた。

 首輪ははずれ、重い鎖も引きずっていなかった。

 日に照らされて毛並みは黄金に輝き、みな嬉しそうに舌をだして「笑って」いた。

 花と、蝶とに囲まれ、光につつまれ、輝いていた。


 男性の手には犬に噛まれた傷があった。

 その傷を差しだすと、犬たちがこぞってペロペロと舐めた。

 男性は犬に対してふしぎな力をもっていて、はじめは噛み犬でも、飼われるうちに気をゆるし、いつかはどんな犬でも「お父ちゃん」と慕うようになるのだ。

 お父ちゃんに飼われた犬は、もう噛み犬ではなくなっていた。


「ごめんな、みな、許しておくれ」


 男は悲しそうにいった。

 そして嬉しそうにこういった。


「お父ちゃんを待っていてくれたんだなあ。ありがとう」


 ここにいるすべての犬は、生前お父ちゃんが世話をし、最期まで看取った犬たちだった。先に逝った犬たちは、お父ちゃんが来るのをここでじっと待っていたのだ。


 そうして、お父ちゃんが歩きだそうとしたとき、後ろから追いかけてくる犬たちがいた。

 わんわんわん!

 お父ちゃんを見つけて嬉しそうに尻尾をふって、飛びついてくる犬たち。


「お前たちも、来たのか」


 お父ちゃんが死んだあと、保健所に収容された犬たちだった。

 貰い手のない「噛み犬」は、期限がすぎるとガス室に入れて処分され、死んだあと焼却される。

 その子たちが遅れて追いついたのだった。


「それじゃ、行こうか」


 犬たちとお父ちゃんは花畑のなかを歩き、やがて光の粒になって、遊びながら虹の橋をわたっていった。


 もう悲しくないね、もう苦しくないね、よく耐えたから。

 僕たちは、生き抜いた。

 生きて生きて、生き抜いた。

 できるかぎり精一杯、よく生きた……。






 …………田子さんは、はっと息を詰めて目をさました。


「夢か………」


 じっとりと寝汗をかいていた。

 ゆっくり起き上がり、コップにいっぱい水をのんだ。


「昨日の案件のせいだ」

 ひとりごとを言った。

 犬好きが高じて、捨て犬を拾っては飼い、飼育崩壊したあの家。

 人間が生活していたとは思えない荒れようだった。

 金目のものはひとつもなかった。

 電気もガスも止められ、残されたレシートで最後の買い物は「ドッグフード」だったことを知った。



「いい人だったよ、お人好し。だけどこっちはたまったもんじゃない。はた迷惑だったわ、犬がいなくなって本当によかった」

 近所の人は笑いながらいった。



 正義とはなにか。

 人は、規則の上に正義があるといった。

 しかし公益と正義は併存できないのだ。

 複雑で、多種多様で、かぎりがないのだ。







 田子さんは、あの部屋で聞いた。

 あの部屋が証言した。

 男性は倒れ、もう自由に動かせない身体を仰向けて、死ぬ間際犬たちにこういったことを。




「ごめんな、お父ちゃんもう動けないみたいだ。


 もしお父ちゃんが死んだら、助けが来るまで、おまえたち、お父ちゃんの身体を食って生き延びるんだぞ。


 できるさ。だってお前たちは……野生なんだから。


 人間とは、違うんだから」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檻のなかの野生 犬坊ふみ @fumi0000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画