土星が親
筏九命
土星が親
空を歩くのは、コツを掴めば意外と簡単だった。
私の周りを縦回転する大きめの石を踏んで、階段を一段昇るように空を昇る。背中側へ流れていく石から足を離して、また一段。蹴った石も一周して身体の前に回ってくるから、足場がなくなる心配はしなくていい。
いくつもの石が連なるように、私の周りを回っている。引きで見たら輪のようになっているのだろう。あの幾何学的で綺麗な図形に。実際は、何も面白くないただの岩石の移動だ。
人一倍強い引力なんて、何の役にも立たない。最近まで、そう思っていた。
下を見た。見慣れた街並みがあんなに小さくなっている。家もビルも学校も、街で一番高い鉄塔ですら私の足より下にある。震える身体をなんとか制御して、私は顔を上げた。
用があるのは上、空よりも高い場所。
勤勉な太陽が地表の向こうに沈む。橙が藍に塗り替えられて、ぽつぽつと星が現れ始める。いつもより宇宙が近い。仕事を始めた月と星々を労いながらも、私は彼方に留まった一点を睨んだ。
輪を纏った球体の星。子どもたちからはそのフォルムで人気を集めている。けど、それは本当の姿ではない。
あの輪は塵や屑の集合体で、距離の関係で輪のように見えているだけだ。本当は輪ではないのに、輪だと誤解させてちやほやされている。どう頑張っても輪になりえないのは、私だってよく知っている。試したから。
土星。ずるい星。嘘つき星。大嘘つきで大嫌いな、私の親。
私は土星の子。今日、あいつをぶん殴りに宇宙に来た。ぶん殴って、連れ戻しに来た。
土星と人間のハーフなんて、たぶんこの世で私しかいない。自分でいうのもなんだが、唯一無二の存在だと思う。人間が人間以外と結ばれることは、もうそんなに珍しくはないが。
問題は人間と結ばれた相手が天体という部分。おかげで自分の家族構成について説明するのは毎度難儀している。「土星の子どもです」なんて言うと「土星出身なんですか」としばしば返される。そんなわけないし、そもそも球状の星に人は住めない。人間が暮らせるのはまっ平らに潰れたこの地球だけなんて、小学生でも知っている。
私は母さん(と、他の家が呼ぶような立ち位置にいる女性)から人間の身体を授かり、土星からはガスと引力を引き継いだ。
私の皮膚の裏側には諸々のガスが詰まっている。しかも血の代わりに流れるのは液状の水素とヘリウム。これを話すと同情されるが、こっちは割となんとかなっている。走っても息切れしないし、抜けた分を注入すれば元気が出てくるだけ普通の人より得なくらい。
振り回されているのは引力の方だ。外を歩くだけで、私は小さな砂や石を引き寄せてしまう。砂や石は私の周りを円の軌道で回り続け、手で払うまで落ちることはない。
親譲りの輪。そう呼べたらどれだけ幻想的だろう。イラストでよく描かれる、年輪のような模様は私の輪にはない。現実で纏えるのは夢のない物体ばかりだ。砂や石、枯れ葉なんかはまだマシな部類で、捨てられたゴミを引き寄せてしまった日は最悪な気分になる。
数年前からは外を出歩くことだって億劫になりつつあった。当たり前だけど、天体の子は珍しい。土星となればなおさらだ。物を回転させて歩くだけで、私は人の注目まで集めてしまう。
たまに「綺麗」と誰かが言う。それは輪じゃなくて砂と石なのに。たまに「土星みたい」とも誰かが言う。私は土星じゃなくて私でしかないのに。いらいらして、外に出るのが億劫になる。
それでも毎日、学校には行っている。母さんを心配させたくないからだ。
家に土星はいない。土星のいるべきところは宇宙だから。「仕方がないの」と母さんは笑って言うけど、仕方がないならないで融通を利かせるべきだ。私が生まれてから育つまでの十五年間、あいつは家に帰ってきていない。
公転周期、と母さんは説明した。土星が地球の裏側へ沈み、また昇って元の地点に戻るまでは最低でも三十年かかる。つまり十五年は地球の裏側へ行って戻ってこられない。「ちょっとくらい逆走すればいいじゃん」と呟いた幼い私の頭を、母さんの手が優しく撫でる。
「そんなに焦らなくたって、星は元の場所に戻ってくるものなの」
何年前の言葉だったかは忘れた。言葉だけが私の中をぐるぐる渦巻いて、いつまで経っても抜けていかない。
母さんは不思議な人だ。抜けているところがあって、私でもしない間違いをしでかす。何かに夢中になると他のことを忘れる。「気を付けてよ」と注意はするけど、そこが母さんのかわいいところだとも思っている。
家に土星がいないから、母さんは一人で私を育ててくれた。なんでもかんでも引き寄せる私を育てるのは苦労しただろうに、母さんはいつも笑っている。
「顔は私に、引力は土星さんに似たのね」
それが昔からの母さんの口癖。砂や石を玄関先で払っていると、出迎えてくれた母さんがぼそっと呟く。「似るも何も身体は全部あなた由来ですよ」と言いたくなるが、こっちも嫌味は言いたくないので毎回押し殺している。
母さんにとって、私の引力は遠く離れた土星を感じ取る、唯一の接点らしい。
家のベランダには古い望遠鏡が置かれている。カバーを被せたまま、外に出しっぱなしだ。ときどき、母さんは夜にベランダに出る。真っ黒な宇宙を覗き込んで、レンズから目を離す。それから首を傾けて、肉眼で空を見る。月と星々の灯った宇宙に、あいつはいない。
私が生まれてすぐに、土星は地球の裏側に潜っていった。大きくは逆らえない、この世界の法則に従って。土星は土星として生まれている以上、長期間軌道から外れることはできない。土星も母さんも、今の私もその決まりには納得している。
土星は母さんと約束した。十五年経って地球の表側に昇ってこられたら、あなたのところへまっすぐ帰ってくる、と。一日でも一瞬でも一緒に過ごして、表側にいる次の十五年を想い合えるものにしよう。天体らしい、ロマンティックな提案だ。
土星との約束に、母さんは深く頷いた。十五年間、絶対に待っている。生まれた子である私を強く抱いて、母さんは土星を見送った。
成長して、私も自分の頭でいろいろと考えられるようになった。巷で聞く土星の評判に、理科で習う土星の実態。自分の親が教科書に載っているのを最初は自慢して回っていたけど、知れば知るほど誇らしくなくなっていった。
私は土星に魅力を感じない。大きく見える身体のほとんどがガスで、美しいと謳われる輪は礫の集まり。みんな騙されているし、騙されたとわかった上で見ないふりをしている。自分が初めて見たときの感動を、失いたくないんだ。
私は土星の退屈さを、みんなが薄々感じるそれを、半分くらい体感している。本当に綺麗で美しかったら、悩みは何もないだろうな。
だからこそ騙りたくないし、騙るあいつは信用できない。地球に一人残された母さんと重なって、失望が募っていった。
その思いを母さんに打ち明けたことがある。母さん、土星はそんなにいい星じゃないよ。嘘つきだよ。いいように騙されてるんだよ。愛が本当なら、想い人を十五年も待たせないよ。
思いきり吐き出した私に、母さんは微笑むばかりだった。母さんを想うのなら、本心だとしても言うべきじゃなかった。
土星を世界で一番愛しているのは、母さんに他ならないのだから。
母さんは天文学者でも何でもない。ひたすらに土星が好きなだけの人だ。小さい頃に買ってもらった望遠鏡で、何気なく空を眺めて見つけた星。「それが土星さんとの出会いだったの」と母さんは言う。出会いというより発見だと思うけど、何にしても母さんは本気だった。
何年も望遠鏡を見つめ続け、大人になってからも観察はやめなかった。地球の裏側に土星が沈んでいる期間は本を読み続け、研究者も顔負けの知識を持つほどになった。でも、母さんにとって土星は研究対象ではない。ただただ好きで、ただただ追いかけ続けている、愛しい相手だ。それほどまでに愛が膨らんでいたから、宇宙まで届いたのだろう。
ある夜、土星が来た。母さんの家の窓の外、望遠鏡が置かれたベランダの向こうに。ガスで覆われた身体を斜めに傾け、纏った礫が家に当たらないよう気を使っていたそうだ。「それが土星さんとの、本当の出会いだったの」と母さんは言う。出会いというより遭遇だと思うけど、甘酸っぱい話なのは間違いない。
説教代わりに聞かされた馴れ初め話はそこで終わっている。
私は、母さんが笑って過ごせるのならなんだっていい。今の母さんが穏やかに暮らせるなら、私が苦手だからって土星との関係を否定する気にはなれない。
母さんが私の引力を見て笑う。その一瞬は、厄介でしかない引力を私も好きになれる。
別れから十五年が経ったその日は、何でもない日を明るく塗り替えた。料理を仕込んでから、私は母さんと一緒にベランダに出た。天気は快晴。望遠鏡は覗かずに、母さんが空を仰ぐ。
夜が始まってから一時間が経った。土星はまだ来ない。二時間が経った。「星はみんな足が遅いから」と母さんが笑う。三時間が経つ。四時間が経つ。五時間が経つ。母さんは「先に寝てて」と私を部屋に戻して、一人で夜空に向き合い続けた。
朝に目覚めて、ベランダを見に行った。母さんが笑顔で振り向く。弱々しい笑みだった。
「きっと一日、勘違いしてるんでしょうね。それか、私が日付を間違えたか」
土星は来なかった。母さんはベランダに立ち続けたが、一月経っても二月経っても、半年経っても土星は現れない。「やっぱり時間の感覚が違うのね」と母さんは言うけど、そんなはずがない。
いくら待っても土星は来ない。母さん自身、悟った上で理解を拒んでいた。望遠鏡はあの日以来、カバーを外した形跡がない。土星が地球の表側にいて、だけど来ないというのを目の当たりにしたくないのだ。
いらいらする。待ち続けた母さんが、どうしてこんなに苦しまなくちゃいけないんだろう。学校から帰ると、ベランダにいる母さんが見える。
いつも笑っている母さんが、寂しそうな顔で空を眺めている。
宇宙に旅立つ理由は、それだけで十分だった。
空気がなくなってしばらく経つ。普通の人間だったら息を止める程度じゃ持たないだろうな。足はだいぶ前から棒のようだ。ガスで軽い分、運動しても疲れにくい体質なのに。
辺りはすっかり暗いし黒い。光はほとんどない。星の横を通りすぎるたび、照り返しの光に安心する。
前から後ろへ、後ろから前へ。私を軸に、石が何個も公転する。瞳の前を、拾い集めた石たちが滑っていく。
輪の縦回転は、宇宙に行こうと思ってから身につけた。衝動のまま土星をぶん殴ろうと決めたはいいが、具体的な案は何も思いつかない。正攻法ではまず無理だ。ロケットの打ち上げに潜り込むのも現実的じゃないよなと考えていた頃、砂や石が少し斜めの軌道で私の周りを回っているのに気づいた。
この輪を縦にすれば、階段を昇る要領で宇宙まで昇っていけないだろうか。
思い返せば、母さんの馴れ初め話の中で土星も礫の軌道をずらしていた。私にも同じことができるかもしれない。念じたり身体を捻じったり、試行錯誤を重ねるうちに、方法を発見した。
まずは一度地面に寝そべり、胴を軸にして回る輪の軌道を縦に固定する。そのあと素早く起き上がると、私の姿勢変化に着いてこられず輪の軌道が微かに縦にずれる。これを何度も繰り返し、軌道が完全に縦に倒れるまで続ければいい。
足場になる大きさの石探しも上手くいって、私の引力で引き寄せられるギリギリの重さで揃えられた。あとは流れる石を踏んで蹴る、その動きを習得すればいい。もちろん、簡単にコツが掴めるとは思っていなかった。
何度も足を踏み外し、何度も地面に落下した。足の踏み場はただの石、決して安定はしていない。身体にいくつも打ち傷ができた。ガスに包まれた身体でなければ落ちた回数だけ死んでいたと思う。倒れたまま仰向けになって空を見ると、宇宙よりも高いどこかから怒られている気がした。
でも、行かなくちゃいけない。行かなきゃ殴れない。触れられもしない。母さんを悲しませたあいつを許さない。空の彼方にいるからって逃げられると思うなよ。
あいつの周りを回る岩石のように私は引っ張られ、とうとうそこに辿り着いた。
アースカラーに包まれた、偽りだらけの縞模様。私との間に存在する虚無の空間には、隠せなくなった礫の群れが大河のように流れていた。
土星がいる。生まれて初めて、この目で土星を見た。
幼い頃に対面した記憶はとうに消えたと思っていた。今になって、脳の奥底から微かな断片が湧いてくる。雄大な球体が私に近づいて、柔らかい気流に顔を撫でられた。記憶のすべては掴み取れず、頭の裏側へ転がる。
曖昧な感覚を吹き飛ばすため、肩にかけた鞄の紐を掴む。腕を突っ込んで、マーカーペンとスケッチブックを手に取った。
『なんで帰ってこないの?』
乱雑に殴り書いて、文字を突きつける。土星は応えない。元々音のない宇宙で、礫だけが静かに動き続けている。
卑怯者。
『無視すんな』『星だって文字が読めるんでしょ?』『反応しろよ』
紙を捲っては荒々しい言葉を書き連ねる。
叫べるなら叫びたかった。宇宙って不便だ。言葉を媒介してくれる空気がないのって、こんなにいらつくんだ。
私が誰かわからないはずはない。周りに石まで纏って、誰の子かわからないなんてありえない。その子が宇宙まで自分を呼びにきたとなれば、何をしに来たかは予想できるだろうに。
それでも土星は応えない。自分を取り巻く岩石のように、物体であることに徹している。
奥歯を噛み締め、マーカーを動かした。これだけは説得材料に使いたくなった。だけど、これなら絶対に反応してくれる。本当に想い合っていたのなら。
『母さんが悲しんでる』
長い、何もない時間を挟んで、あいつの一部が鈍く光った。光は点滅しながら徐々に大きくなる。光が膨らんでいるのではなく、私に接近してきていると理解したのは、それが礫だと捉えられる距離まで近づいてからだった。
緩い速度で、野球ボールくらいの礫が飛んでくる。反射的にスケッチブックを顔の前に掲げた瞬間、紙の上で礫が砕けた。ぱらぱらと粒が飛散して、規則性を持って紙に貼りつく。
文字だった。
『嘘は、ついてない?』
面食らった。
そっか。星にも感情があるなら、不信にだってなるんだ。
連続で、スケッチブックに向かって礫が飛ぶ。私がキャッチャーのように冊子を動かすたび、文字の欠片が宇宙空間に舞い散った。
『星と人は結ばれるべきじゃなかったと衛星が言うんだ』
『十五年の長さも、子の捉え方も、星と人は違いすぎる』
『それを、ひどく後悔した』
粒を閉じ込めたスケッチブックが少しずつ重くなっていく。土星が放った言葉が衝突すれば、私の身体もぐらっと揺れる。
母さんは地球に一人残された。同じように、土星も宇宙に残された。
『自分の行いが、彼女を不幸に追い込んだ』
『そう考えたら、不安で地球に近づけなくなった』
十五年は土星には短いのだろう。体感時間は一年か二年にまで圧縮されているのかもしれない。
それが、内省の時間だとしたら。例え一年か二年でも、あまりに長すぎる。
いつのまにか、私の周りには輝かしい粒が回り始めていた。文字として放たれた礫の破片が、私の引力に引かれている。
私が回転する粒に目を奪われている間に、また一つ礫が飛んできた。弱く飛んで、あっさり崩れる。スケッチブックにたくさん文字をばら撒いて、破片が私の輪に加わった。
『こんなつまらない星のことは忘れてください。人が暮らすのに、土星はいらないでしょう』
それからぷっつりと、土星から礫は飛んでこなくなった。これでもう話すことはない。そう捉えても問題ないくらい、土星はさっきまでと同じように沈黙した。
あいつが放ったメッセージを読み直す。人が暮らすのに、土星はいらない。その通りだと思う。太陽や月と違って、土星は人の暮らしに何も寄与しない。このまま縁を切るのが、母さんにとって一番の幸せに繋がるはずだ。
望遠鏡を覗く母さんの姿を思い出す。母さんはいつも笑っている。土星が退屈な星だとわかっていながら、土星のことを考え続けている。
いらないわけがない。土星を想う母さんは、不幸なんかじゃない。
いらいらする。土星に対してだけじゃなくて。あんなに一途に想う姿が不幸に分類されてしまう、この世の中に腹が立つ。
優しい言葉を書こうとしていたスケッチブックを、力任せに放り投げた。
やっぱりぶん殴らないとダメだ。
足場の石を強く蹴って、何もない空間に飛び出す。減速も加速もできないまま、土星を回る岩石が近づいてくる。やけくそになりながら岩に飛びついて、向こう側へ自分を打ち出した。土星との距離がどんどんなくなっていく。
土星は混乱しているらしい。回る礫をめちゃくちゃに掻き乱して、私が近づいてこられないように妨害しようとしていた。無駄な足掻きでしかない。ただの石を踏んでここまで来た身からすれば、全身でしがみつけるだけ安定した足場だといえた。
次々、石を飛び移る。何にも縛られず、縞模様の球体を目指して突き進む。中心に近づくにつれ、足の踏み場になる大きさの塊がなくなってきた。
膝を曲げ、最後になるだろう岩から全力で跳躍する。人類新記録。無重力が手伝って、それほどの高さまで飛べた。興奮で頬が熱くなるのを感じていると、身体は自然と土星の方へ吸い寄せられていった。
懐かしさを覚えるガスの層が全身を包む。液体層まで突き破り、落下しながら眩い光に目を細めた。
土星が投げてきた、綺麗に輝く小さな礫。氷の塊をさらに磨いて作ったガラス玉のようなあの粒が、液体層より内側の空間に敷き詰められている。
そっか。帰る用意はしてたんだね。
引力に引っ張られ、身体が勝手に礫を掻き分けて中心に向かう。腕を前に突き出し、拳を握り固めた。
私がもし好きな人と久々に顔を合わせるなら、纏う石だって綺麗な物を用意する。描かれるほど美しい輪を作れなくても、その中で最大限の努力はしたい。一瞬しか会えないなら、なおのこと。
十五年、自分を着飾る用意を続けてきた。同じ引力を持つ私には、それが手に取るようにわかる。私がこいつでも同じことをした。私を回るきらきらした破片を眺めて、真上を見た。
中心核が見えてきた。引かれた勢いに乗って、大きく腕を引く。
土星の大部分はガスで、核となる部分はこんなに小さい。岩石もあんなに従えているのに、本当に情けない星だ。そこがこの星のかわいいところだとも思っているが。
拳が核と衝突する。殴った反動で私は浮き上がって、仰向けに倒れるようにして土星に着地した。殴った手が痛い。土星にパンチが効いているようには見えない。そりゃそうだ。
でも、大丈夫だと確信していた。
さっきから、弱い地震が私を震わせていたから。揺すられながら、唇を動かす。
「帰るよ」
今はもう、声は起こるし届いてくれる。
土星の岩石に乗って地球に戻ってくると、地表で私たちに手を振ってくれる人がいた。
母さんだ。望遠鏡を覗き込みながら、私と土星の方向へ正確に。
家のベランダの前に土星は身を寄せる。私もベランダに降りようとして、久々の地球の重力にバランスを崩しそうになった。母さんがそこを抱き留め、腕が暖かく私を包み込んだ。私が宇宙に旅立ったことは騒ぎになっていたらしく、母さんも物が食べられなくなるほど心配したそうだ。
望遠鏡を毎晩眺めて宇宙に私を探していたら、私がひょこっと帰ってきた。しかも、土星を連れて。
長々言葉を浴びせ続けた最後に、母さんがいつもの笑顔を見せる。
「あなたの引力が、土星さんを連れて来てくれたのね」
人一倍強い引力なんて、何の役にも立たない。最近まで、そう思っていた。
私も母さんに笑いを返す。胸の前で痛みの残る手を握る。拳の周りを、輝く氷の粒が回っていた。
土星が親 筏九命 @ikadakyumei
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