第16話 借りを返す一日(下)
「拓海は同じ学年に存在したはずの優等生の話って知ってる」
食器を片付けに行った未智瑠が戻ってきたので、これから後半の部が開始かと思いきや未智瑠は休憩のため移動させた教材を手にすることなく床に座ると意味の分からない問いかけをしてきた。勉強から逃げたい気持ちは理解できるが無駄口を叩いていないで向き合おうと俺は相手にしなかった。このまま勉強もせず話して終了では用意してもらった晩ご飯が喉を通らないではないか。
「拓海にだって関係ない話じゃないよ。今は拓海が学年で一番頭がいいみたいな感じで学校推薦ももらえたかもしれないけどその子がいたら今の立場も危うかったかもしれないんだから」
無視するはずだったのに自分の存在を脅かす人物となると話は変わってくる。未智瑠の口車に乗せられているようで気は進まないが、代わって教材を取りに行こうと浮かしていた腰を床に下ろし聞く姿勢に移行した。
未智瑠の話によると当初、俺たちの学年は全員で百五十三名だったらしい。だが実際に数えてみると百五十二名で一人足りなかったとか。誰が数えたのかと聞くと同じ学年のとある生徒らしく俺は名前を聞いてもいまいち顔が見えてこない生徒だった。なぜ彼が学年の人数を調べようと思ったのか動機は不明だが、二年生に進級したある日数えてみると一人減っていたそういう話らしい。
名簿から消されているなら家庭の事情などで転向したとか何か理由があったのだろうと思ったが、一年の時に誰かのお別れ会が開催されたことはないらしく未智瑠の情報網を使って確認済みとのこと。
だとしたら春休みに急な転校になりひっそりと姿を消したのだろうと言葉を返すが、百五十二名の生徒は現在も全員学校に存在していると未智瑠は口にした。であるならば百五十三という数字自体に間違いがあったとしか考えられない。可能性として挙げられる最後の指摘も未智瑠の入学式の日に確かに総勢百五十三名と呼ばれていたという否定、しかも当時の映像付きという言葉に論破されてしまった。
こうなると同級生に誰も顔も名前も知らない幻の人物が存在することを認めなければいけないのかもしれないが、どこからその謎の人物が優等生それも俺に匹敵するという情報が出てきたのだろうか。
「実は入学式の日、学年を代表して挨拶をする人が変わってたんだって。挨拶をした本人にも確認したけど当日いきなり代役を任されて心臓が飛び出るかと思ったって。当時は緊張しかなかっただろうけど聞いた時は笑って話してくれたよ」
学年の代表者がどのようにして選定されるのかは分からないが、毎年小学校の成績が最も優秀だった生徒に任されていると噂で聞いたことがある。つまり本来学年を代表して挨拶をするはずだった人物こそが百五十三人目の人物であり学年一の優等生などという箔がついたのだろう。
入学式の日に登壇して挨拶こそしなかったが、三年間勉強だけを頑張り学年一位を継続してきた俺からすると一度も学校に来ていない姿どころか名前すら知られていない人物に劣っていると評価されるのは納得がいかない。噂が広まったのが二年生の頃らしいのでその後、人物特定に至ったのかと先を促してみたが数ヶ月が経つとみんな興味を失って謎は謎のまま忘れ去られたとのことだった。であるならばどうして今になってそんな益体もない話をしたんだと突っ込まずにはいられない。
「だって最近はゆきちゃんにお熱で勉強してないみたいじゃん。だからちょっとはやる気を出させてあげようかなって思い出したから言ってみた」
誰が誰にお熱だってともう一度言ってみろと言わんばかりに未智瑠を睨みつけつつも、確かに受験が終わってからは勉強時間が減っているのもまた事実。中学校三年間、鎬を削りあったかもしれない人物が噂ではなく本当に実在してくれたら俺も転校生に構う暇なく、目をつけられることもなかったかもしれない。だが噂は噂のままで正体が明かされておらず幽霊の正体見たり枯れ尾花ということもあるのだ、興味をそそる話ではあったが受験期のように俺の勉強魂に火を付けるまでとはいかなかった。
卒業前に面白い話を聞かせてもらったと俺は手を打ち鳴らすと立ち上がり教材を取りに行くため立ち上がった。時計の針を確認してみると時刻は十八時と残された勉強時間は一時間もなく、いつ夕飯のお声が掛かってもおかしくない時間帯だ。問題集やノートを手に座り直したときには、勉強よりも雑談がメインみたいになってしまって本当に良かったのかとつい気掛かりだった本音が溢れた。今日はほとんど役に立っていないようなもので、次回改めて勉強だけに集中する日を決めて貸し借りは一旦保留にしてもらっても構わない。
「今日は元からそんなに勉強する気がなかったからこれでいいの。拓海はわかってないね、確かに受験生である私たちみたいな人にとっては勉強が一番かもしれないけどさ、今日みたいな時間が必要な日もあるんだよ。特に今の私にはね」
勉強する気がなかったのであれば約束を取り付けてまで俺を呼び出したのか謎ではあったが、未智瑠がこれでいいと言うのであればもうこれ以上何も口を挟むことはない。ちょっと勉強を教えて雑談に付き合っただけ、しかもチョコレートのおまけ付きで借金返済できるのであれば願ったり叶ったりだ。
受験本番まで一ヶ月を切ったとき俺は毎日勉強のことしか頭になくひたすら机と向き合っていたから未智瑠の言う今日みたいな日の重要性がいまいち理解できない。半日ほどではあるが未智瑠と一緒に過ごしていたが外見に変化はなく思い詰めていたり、ストレスを抱えている様子もない。今日という一日がどんな役割を果たしてくれたのかは謎だが、頼むから今日一日のせいで受験に合格できなかったとか、明日から勉強に身が入らなくなったということだけはないようにしてもらいたい。
「自分で言っておいてあれだけど、話的に私が拓海を騙したみたいになってない。そんな気は全くなかったんだけど、なんか悪い気がしてきちゃった」
悪いということであれば自分の役割も理解できないままチョコレートを貰い、晩ご飯までご馳走になろうとしている俺の方が悪いのではないだろうかという気がしてならない。騙すというとどことなく違和感が残るが、今日のようなサプライズに近いものであれば大歓迎であり不利益を被らないのでれば全て許すことができると俺は肯定した。
「勉強する気満々みたいだけど先にご飯が出来たみたい。今日はここまでってことで行こ」
やる気満々とまではいかないが教材を手に持ったまま未智瑠と話していると扉の向こう側から未智瑠のお母さんの夕飯の完成を知らせる声が聞こえてきた。勉強時間二時間、雑談四時間で今日の予定は完遂され借りを返す一日を終えることになろうとは。
二時間の勉強では一仕事終えた達成感など微塵も感じられていないが、久しぶりにご馳走になる未智瑠家の食卓に並んでいた料理はどれも舌鼓を打つ品々でありお箸が進む。食欲とはときに恐ろしくお言葉に甘えておかわりをいただきお米の一粒すら残さず全て完食した。
食事を終え少し休憩してから帰ろうと思っていたのだが、お酒を飲んでいないはずの未智瑠のお母さんに積もる話もあると引き止められ気がつけば二時間が経ち時刻は夜の九時になっていた。数年ぶりの会話に最初は照れ臭ささがありつつも話せばすぐに慣れ以降は楽しい時間を過ごしていたのだが思い出話も終わりを迎える。
夜も遅いのでそろそろ帰りますと伝えると未智瑠のお母さんから「泊まっていかないの」と思わぬ返答が耳に入ってきて俺はもちろん、未智瑠も目をパチクリさせていた。小学生の時は何度か未智瑠の家にお泊まりさせてもらったこともあったが俺たちはもう中学生、春からは高校生になる年齢に成長している。気軽にそれじゃあお言葉に甘えて泊まらせてもらいますと首を縦に振れる年頃ではなく遠慮させてもらった。未智瑠のお母さんは肩を落とし残念そうにしていたが、顔を真っ赤にした娘から「当たり前でしょ」という追い討ちが入り親子関係が入れ替わる一幕がありつつことなきを得た。
「ほんとお母さんが無神経でごめんね。あとこれ沙羅ちゃんの分のチョコ。別の袋に入れて一緒に余りのチョコ入れておいたけど、嘘ついて沙羅ちゃんの分を食べたら許さないから」
言われなくてもそんなことはしないよと反論しながらも、長年の付き合いにも関わらず自分の信頼の無さには落胆せざるを得ない。今日は借りを返しにきたはずなのに俺の方が至れり尽くせりで感謝の言葉を口にして別れを告げると手土産を引っ提げて未智瑠家を出た。俺の願いは未智瑠が無事に合格することただそれだけであり、帰り道に俺が今日出来る最後の行いとして頭上に輝く星々に祈りを捧げた。
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