第5話 気が抜けない転校生
翌朝起床すると同時に真っ先に身体を襲ったのは強烈な寒さだった。布団から上半身だけを起こしてみたはいいもののすぐにまた捲れ上がった布団に手を伸ばし全身で包まる。数ヶ月前までは寒さこそ今ほどではなかったが眠気に抗いながら起き上がり顔を洗ってすぐに勉強机に向き合っていた。だというのに今では早起きすることもなく、二度寝すら許されているのだ。このまましばらく布団の中で丸まりながらのんびりとうだうだしていたかったのだが寒さに勝る衝撃が身を襲い許してはくれなかった。
「お兄ちゃん朝だぞ〜、起きろ〜」
朝からハイテンションな妹の無邪気で恐れ知らずな全体重を乗せたダイブが炸裂した。幼稚園児である妹は母の言い付け通り早寝早起きを遂行しているようで夜の九時には就寝、そして翌朝六時には起床という超健康的な生活サイクルで生きている。今は二度寝の最中で邪魔をして欲しくはなかったが、受験生の頃は毎朝起こしに来てくれておりそのおかげもあって睡魔に負けることなく毎日朝起きて勉強に打ち込めた側面があったこともまた確かだ。受験合格を祝して家では盛大にお祝いをしてもらったときに妹にこれからは朝起こしに来なくていいよと伝えた。そのはずなのだが聞き入れてはもらえなかったようで今もこうして妹による体当たりを毎朝お見舞いされているのだった。
おかげで早起きだけは今も継続しているわけだが喜ばしいのやらである。幼稚園児だからこそこうして何も気にすることなく触れ合ってくれていると思うと、これから先すくすくと妹が成長し思春期を迎え兄を避けるようになってしまうと想像すると朝のこの時間も永遠ではなく今を噛みしめなければいけないのかもしれない。
などと感慨深く考えていたのだが先のことなど微塵も考えていないであろう今を生きる妹は兄の目覚めを確認すると一仕事終えたと満足そうに「お母さん〜」と叫びながら嵐のように去っていった。可愛い妹に起こされておいて二度寝を決め込む兄などいるはずもなく、寒さに震える体に鞭打って布団を蹴飛ばし起き上がると洗面台へと足を向けた。
妹に起こされるのが朝の六時から七時の間でありそこから顔を洗い朝ごはんを食べ着替えを終わらせたとしても家を出るまで三十分ほど余裕ができてしまい受験を終えた今でも朝の勉強を継続している次第だ。
勉強時間終了を知らせるアラームが鳴り手を止め参考書を閉じると学生鞄を手に取り部屋の電気を消すと玄関へと向かった。爪先を打ちつけ靴を履き終えると兄が出ていくのを察したのかこれまたいつも通りの日常なのだが背後からいってらっしゃいと妹に送り出される。本当によくできた妹だと感心しつつ行ってきますと一度振り返り玄関の扉を開けた。
朝の見送りもいつまでしてもらえるかなどと考えていたから家を出た先のことを何も考えていなかった。結果から言えば何事もなかったのだが転校生が家の前で待っていたという展開もなきにしもあらずだったのだ。そう思い当たったのは学校が見えてきた辺りのことであり今更のことではあるが、我ながら自惚れた思案だったかもしれない。雪野さんと転校初日から一緒に下校した間柄ではあったが翌日も一緒に登校するべく自宅まで押しかける間柄とまではいかないようだ。もしかしたらこれから教室に行くとクラスメイトと談笑する雪野さんがいたりするのかもしれない。
現実はそう甘く簡単なものではないようで三年五組の教室内の空気は変わることなく転校生が現れて二日目も殺伐としたものだった。教室に到着すると大きな音を立てないようにゆっくりと扉を閉めそそくさと自分の席へと寄り道することなく向かう。椅子に腰をおろすと鞄の中から筆記用具と必要な教材を抜き出し引き出しの中にしまうと窓の外へと視線を向けた。ちなみに背後の席は無人でありまだ雪野さんは登校してきていないようだ。彼女がいたからといって特段こちらから話しかけるといったことをするつもりはなく外の景色を眺めていただろうが。
今日は雪が降ってこそいなかったが昨日降り積もった雪は溶けきっておらず一面の雪景色が窓の外には広がっている。重さに耐えかね木に積もった雪が時折粉雪となって舞い落ちる様を眺めている時だった、問題の解決を昨日のうちにしておかなかったことを後悔することになろうとは思いもよらなかった。
「早いな少年、外なんか眺めて何か気になるものでもあるのか」
少年という言葉を耳にした瞬間、視線を外から慌てて声をかけられた背後へと移動させる。雪野さんがなんと言っていたのかなど覚えてすらおらず返答よりも先に行動するべく立ち上がると鞄を机に置き座ろうとしていた彼女の手を無理やりに取り二人して教室を出た。静かな教室内には椅子を引く音や忙しない足音が響きクラスメイトの注目を浴びただろうがそこはこれまで通り受験勉強に打ち込んで何もなかったことにしてくれていることを祈るしかない。
「頼むから教室内や人が大勢いるところで少年呼びはやめてくれ雪野さん。その呼び名が気に入っているというなら二人のときは好きに呼んでくれていいからどうかお願いします」
クラス全員とはいかないだろうが隣の席はもちろん少なくとも三分の一くらいには少年呼びが聞かれてしまっただろう。転校生から少年と呼ばれていることが周知されるのがなぜだか非常に恥ずかしく逃げ出すように教室を飛び出し、廊下に出るなりなるべく声を潜めて話すように努め最後の方は敬語になってまで懇願した。
少年呼びについて昨日のうちに訂正を求めなかったのは自分の落ち度であり油断していたが、まさか朝一番から雪野さんが声をかけてくるなんてことを想定しきれていなかった。話しかけられるとしてもまた放課後とか休み時間の二人きりの状況を選んでくるだろうと思っていたのだ。
「なぜそうも嫌がるのかわからんがそこまでいうのであれば善処しよう」
善処するという言葉からは本当に言わないだろうなという疑念を振り払うことはできなかったがいつも何か念を押すようにものを言おうとするとタイミング悪く何かが起こる。今回は朝のチャイムが鳴り遠くの方からこちらに歩いてくる担任の岡林に教室に入れと促され話はここまでとなった。
雪野さんは何事もなかったかのように足早に教室内へと向かい一人廊下に取り残される。こうなってしまっては雪野さんを信じるしかないと大きくため息をついて肩を落としていると肩に重みが加わった。
「もう雪野と仲良くなったのか榊原。時期もあって心配していたがこれなら安心安心。これからもよろしく頼むよ」
そう言い残し岡林は優雅な足取りで去って行くと俺はもう一度大きく白い息を吐いてから遅刻扱いされぬよう自分の席へと戻るのだった。
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