彼女が髪をショートにした。

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💇🏻‍♀️

「どう?」


 彼女からそう言われる前に気付いた。水族館デートの待ち合わせ場所で、僕らが合流してすぐそう言われた。ロングヘアの彼女は、たまに髪型に物凄く気合を入れてくれることがあるから、僕は今日はどうかなと少しの期待を胸に彼女を待っていたので、待っている間はいつものようにロングヘアの彼女が来ると思っていた。遠くからこちらに向かってくるところを見つけた時は、彼女と会えた喜びを感じながら、辛うじて見える彼女の髪型がどんなものか知ろうとした。それは今日もそうだった。遠くから彼女を見つけて、まだ彼女が遠いところにいる時に僕は気付いた。

 彼女が髪をショートにした。ショートヘアは、僕の好きな髪型だ。

 僕は「似合ってるよ。すごく」と言った。ショートヘアが好きな髪型なのにも関わらず、髪が短くなった彼女を見ての僕の感想はぎこちなかった。ショートヘアは好きでも気に入らないものだったわけではない。ショートヘアの中で特に好きな耳掛けショートボブだったし、とても似合っていた。今までのロングヘアよりずっと似合っていた。感想がぎこちなかったのは、彼女のせいではない。ぎこちない理由はまさしく、僕がショートヘアを好きになった理由にある。


 僕には初恋の人がいる。今目の前にいる彼女ではない。初恋の人とは高校で出会い、高校を卒業してからはもう会う機会がなくなり、会わなくなった。会う機会と言うと、僕とその人は学校以外でも会っている仲のように聞こえるかもしれないが、残念ながらそうではなく、なんなら学校でも話す機会も偏っていた。よく話したのは高校1年生の時だけで、2年生に進級する際のクラス替えを機に話さなくなった。さらに僕と初恋の人が2年生になってからは、その人が別の男と仲良さそうに話しているところが多く見受けられた。それだけではなく、あの人は浮気性が酷くて、一遍に3人か4人の男と付き合っているという噂すら流れた。僕はあの人にとても大きな恋をしていたから、あの人が自分以外の男と話したり、仲良さそうに軽いボディタッチを交わしたりしているのを見る度に、僕は心臓が止まるようなショックを受け、そして過呼吸を起こす程の悲しい思いを心で作っていた。そのくせ、僕はあの人に話しかけることも出来なかった。向こうもクラスが変わっただけで僕を忘れ、話しかけてくることなどなく、運が良ければ廊下ですれ違った時に手を振ってくれるくらいの仲に、お互い成り下がった。

 あの時の初恋の人に対する気持ちは、もう後一歩で爆発するところだっただろう。僕はあの人の姿、特に髪型が忘れられなかった。あの人は耳掛けショートボブだった。耳掛けショートボブを見ると、その髪型にしている人が誰であっても僕は初恋の人を思い出さずにはいられなかった。また、顔の形が少しでも初恋の人と似ていれば、最早思い出すだけでは足りず、目の前にいる全くの他人が初恋の人のように見えた。

 僕はとっくに高校を卒業している。大学で彼女も出来ている。しかし、初恋の人に対する未練が依然として残っている。しかし、初恋の人を思い出す機会を常に求めている。初恋の人を思い出すから、僕は耳掛けショートボブが好きなのだ。初恋の人を思い出すから、彼女が髪を切っても素直に喜べなかった。


 今日の水族館にて、僕の視界の中では魚はほとんど泳いでいなかった。僕はずっと、自分の隣か前でガラス越しの魚を眺めている彼女の、髪型ばかりを気にしていた。館内を巡っている時、僕は幾度も隣にいるこの女性が初恋の人であるように錯覚した。もう僕の目に彼女は映っていなかった。そこにいたのは僕の初恋の人だった。彼女が初恋の人に見える度に、あの時流れていた初恋の人の酷い浮気性の噂なんかを思い出し、僕は絶妙に気分が悪くなった。

 僕は彼女の、目立ちたがりではなくとも、見えづらいが明るい性格をよく知っていた。初恋の人の、寂しがり屋で常に誰かといないと凍え死ぬような思いになる性格も、よく知っていた。僕の彼女と僕の初恋の人は、お互いに全く違った個性を持っている。僕はこの2人を別人として見分けられたはずだ。視覚的な問題で区別が出来なくなり、性格も顔も全く違うのに、1つ髪型が同じであるだけで、僕は彼女を初恋の人と思い込んでしまっている。


「なんで、急に髪を切ったの?」

「君がもっと私の事を好きになるためにね」


 デートの途中で、そんな会話をした。僕は過去に耳掛けショートボブが好きと彼女に言ったことがあるのを思い出し、同時にそれを後悔もした。当然、自分の好きな髪型について話した時も、ショートボブが好きだと真実を言うべきか大分悩んだはずだ。何故ショートボブが好きなのかを彼女が知ると、きっと彼女は幻滅するだろう。本来、女性が髪を切る理由は、長い髪が鬱陶しくなったからだ。しかし彼女なら、僕にもっと好きになってもらいたいからという理由で髪を切ってもおかしくない。彼女は内気でも行動力があり、陰気や陰湿なんて言葉は似合わない、そんな性格だからだ。僕のために髪を自分好みに切ってくれたというのに、好む理由が誰かを思い出すからならば、彼女の努力は無駄に終わる。彼女は絶望する。僕が初恋の人とキスをする瞬間を見てしまうようだろう。


 水族館は海のそばに建てられたものだから、水族館を出ればすぐに浜辺に行くことが出来る。僕らは水族館を2周ほどしたが、彼女はそれでもまだ帰りたがらないので、すぐ近くの浜辺に行って海を眺めることにした。

 海を見ている時は比較的落ち着いた。彼女は自分の隣にいたから、彼女の髪を直接見なかったからだ。しかし僕は一刻も早く帰りたかった。直接髪を見ないだけでは、気持ちを落ち着けるのには足りなかった。どうしても、隣にいるのが彼女ではなく、初恋の人だと思ってしまうのだ。このまま彼女をあの人だと思い込んで、片手で彼女を抱き締め、もう片方の手で短くなったその髪を撫でて、そしてキスをしたいのだ。それをすれば、さぞかし彼女は喜ぶだろう。髪を切った成果なのだから。しかし僕はどうだろう。浮気と言ってもいいことを平然としているに値する、罪深き男になるだろう。

 結局、僕は耐えられなかった。髪は短くても、彼女の顔は違うのだから、それを見れば大丈夫だろうと思った。だが、もはや彼女の顔すらも初恋の人に見えてしまった。僕はその顔を見た時、もうそれはそれは、脊椎で反応したような速さで彼女を抱き締め、髪を撫で、キスをした。あの時は全く手が届かなかったあの人に、手にかけられる好機が今ある。僕はその好機を無駄にせず、同時に罪人になった。

 彼女の顔面から離れると、目の前にある顔は初恋の人の顔ではなかった。彼女は突然のキスに驚きと喜びの表情を浮かべていたが、僕の顔を見るなり困惑の顔に変わり、僕の名前を呼んだ。僕は、罪を背負った顔をしていたのだろう。

 僕という罪人は彼女の名前を呼んだ。


「好きだよ、静香涼子




【完】

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