第17話 老人と、海子。

「二週間でこんなに古ぼけるとは…」

掲載の話を受けて二週間が過ぎ、ようやく秋の匂いが漂い始めた十月中旬。

私は木彫のクマを抱え、氷雨澤邸の作業場にいた。ここに来るのは二週間ぶりだ。

洋食店で大五郎から言い渡されたのは「鳴宮麗子捕獲作戦」の陣頭指揮を取ることだった。

担当編集の白石がやればいいと思うのだが、映画関連事業と新作準備に追われて、すでにオーバーワーク気味の白石を東京から動かすのは難しく、そもそも作品作りに動き始めた伝説の漫画家鳴宮麗子に担当一人というのが無謀な話だということとなり、私は鳴宮麗子の副担当に任命されてしまった。

青と作品を作ることに集中したかったが、麗子の取材を断ったこと、青がロボットだと隠していたこと、四ヶ月も自由にさせてもらっていたことなど、副担当の任から逃げることは難しかった。おそらく全て大五郎の手のひらの上だ。

大五郎とランチを食べたその足で、鳴宮麗子を探すため北海道へと飛ばされた。

とはいえ北海道はとんでもなく広い。鳴宮麗子が北海道のどこに向かったのかを推察することから事態は始まり、スマホのGPSからおそらく富良野にいるだろうと言われては、札幌経由で富良野に行き、鳴宮麗子のSNSが更新された、どうやら今函館にいるらしいぞ、となっては函館に飛び、青函トンネルを南下して今は青森だと言われれば、汽車に乗ってトンネルを潜った。

本来はおばあちゃん一人、ほっといて旅させてやりゃいいものだが、麗子は今月号に掲載予定の新作告知カットをまだ描いていなかったので、とにかくふん捕まえる必要があった。

鳴宮麗子はスマホを携帯していたが電源は切られており、それでも白石のスマホに連携させていたGPSアプリを使って追いかけることはできたものの、連絡を絶って行動を続ける人間を捕まえるのは一般人ではなかなか難しく、捕まえるまでゆうに二週間かかった。

捕まえてわかったことだったのだが、鳴宮麗子はすでに新作の主人公になりきっていた。

今度の主人公は漫画家を夢見る若き乙女…ではなく、五十年正体を隠して少女漫画を描いてきた老人男性になりきっていたのだ。

五十年前、男性が少女漫画を描くことは恥ずかしいことだとされ、家族にも絶縁され、友達もできず、ずっと一人で生きてきた老人男性が死期を悟り、これまでの人生はなんだったのかということを自問自答する中で、ふらふらと旅に出る。

漫画を描くこと以外に何もできず、その漫画すら自分ではない「女性」が描いているとしてきた悲しい男は、旅先で漫画家を夢見る少女にであう…。という話らしく、主人公になりきって北海道をふらふらと彷徨う鳴宮麗子を捕獲するのに随分骨が折れたというわけだ。

捕まえた当日が告知カットの最終締切直前だったので、そのままホテルで作画してもらい、書き上げられた原稿を持って北海道から東京に飛ぶことになった。

デジタル作家だったらわざわざ原稿を持って行ったり来たりしなくても良かったのだが、鳴宮麗子の作画は全てアナログだ。ゆえにホテルに彼女の為のつけペンやインクやスクリーントーンなどを用意するのも大変だった。

だがその大変さも、鳴宮麗子の作画が始まると一気に吹き飛んだ。

鉛筆でさらりと下描きしたかと思うと、Gペンにインクをつけて一気に描き上げていく。キャラクターの輪郭から瞳、髪の毛や服の皺といった細かいものまで、まるで息をするかのようにさらさらと描いていく。そこに正解があるかのように、迷いなく大胆に描かれるキャラクターカットは、ものの五分でペン入れが終わり、ベタ入れやスクリーントーンなどの仕上げを行なっても、一時間かからずに仕上がった。

「一つ、聞いてもいいかな」

完成した告知カットに本当に問題がないかの確認をしていると、鳴宮麗子が声をかけてきた。会社のパーティで見た時とも、病室で見た時とも違い、今の鳴宮麗子は白髪をオールバックにして渋めの声で話している。

「漫画のタイトルをさ「老人と海」にしたいと思ってるんだけど、問題ってあるかな」

老人と海はヘミングウェイの代表作だ。老いと孤独を感じる中、人間の不屈の精神を描いた作品で、鳴宮麗子の新作の内容にも割とマッチしているなと思ったが、タイトルをそのまま付けるのには抵抗があるし、少女漫画のタイトルとしてはもう少し明るい要素も欲しいところだ。

そこで私は「老人と海子」とかにしたらどうですか?と提案した。

主人公が出会う、少女漫画家を夢見る少女の名前を「海子」にすれば、そういうタイトルでも変ではないのではないかと思えた。老人と海の雰囲気を残しながら、少女漫画らしい明るさを付け加えることができそうな気がした。

その提案に鳴宮麗子は声を上げて笑った。

「いいね、ちょっとダサい名前なのがとってもいい」

…まぁ確かに、海子はちょっとダサいかもしれないが。

あくまで少女の名を海のつくものにしたらどうですかという提案であって、と言葉を繋いだが、麗子は片手を振り、「いいや、老人と海子で」と言い放った。

それはそれでなんだか恥ずかしいような気がしてきたが、私の提案はタイトルとして採用されてしまった。


そんなこんなで「鳴宮麗子捕獲作戦」にかかりきりになること二週間、告知カットの入稿を終えたその足で、私は氷雨澤邸にやってきた。

白い王族デスクに向かっている昭和ロボットは、二週間見ない間に随分と古ぼけてしまっていた。

ドラム缶のような体がまさか痩せることなど無いはずだが、色が微妙にくすんだせいか古ぼけた印象がかなり強まり、光の入らないガラス玉の目はどんよりとしていて、田舎のリサイクルショップの奥で埃を被っている謎に高い値札が貼られた「誰が買うねん」ロボットに見える。

…まぁ二週間経っても原稿の進捗がゼロページどころか、何を描くかさえも決まっていないとなれば、こんな魂の抜けた顔にもなるか。

ジュエル編集部から言い渡された原稿の締切日は十一月末日まで。つまりまだ一ヶ月半の時間があるのだが、青はデスク上の真っ白な原稿に向かっては、絶望に打ちひしがれているようだった。

もちろんこの二週間遊び呆けていたというわけではない。

むしろその逆で、青は氷雨澤邸に引きこもって漫画のアイディアを絞っていた。

私は「原稿の締め切りがある時ほど遊ぶべきだ」と提案したが、今はどこに行っても楽しめないというので、仕方なく氷雨澤邸に引きこもることを了承した。

札幌、富良野、函館、青森と鳴宮麗子を探して飛び回る中、青には毎日電話やメールで進捗を伺っていた。だがそれが良くなかったのかもしれない。「何も浮かびません」「すみません、今日もダメでした」という返事が返ってくるたび心配になった。すぐにそばにいって「青なら大丈夫や」と励ましてやりたかったが、鳴宮麗子を捕まえるまで青に会うことはできなかった。

そうしてようやく二週間ぶりに見られた青の顔は、まさに顔面蒼白と言った状態で、「おいおい何してんねん」みたいな軽口が叩けるような状態ではない。

私はそっと青の横に歩いていき、王族デスクに空港で買った木彫りのクマを置いた。コトリとした小さな音と共に導かれるように、青は顔を上げて私を見た。その顔は今にも泣き出しそうなものだった。

「好きなものノート、役に立たちませんでしたか?」

なるべく穏やかに声をかけると、青は半球状の頭をガシャガシャと横に振った。

「では、好きなものを煮詰めたキャラクターなどは描けませんでしたか?」

青と会うのが久しぶりということもあるし、何より今は担当編集と漫画家だと思うので、なるべく冷たく聞こえないように意識を払って丁寧な言葉遣いを心がける。四ヶ月タメ口をきき続けた相手に、今更丁寧な言葉を話すのもなんだか恥ずかしいが、今はそれどころではない。

私の言葉を聞いた青はそっと水色ノートを差し出してきた。四ヶ月間好きなことを煮詰めに煮詰めた「好きなものノート」だ。

その最後の一ページに、鉛筆で描かれたキャラクターがいた。

猫のようなアーモンド型の瞳が印象的な美少女だ。白黒で表現されたとは思えない美しいキャラクターに息を呑む。

「出来たんですね、好きを煮詰めたキャラクター」

そう言って青を見たが、青はU字の両手を顔に付けて泣き出すような体勢となった。実際は手がUなので全く顔を覆えておらず、瞼を閉じた顔が丸見えなのだが。

「ダメなんです…ダメなんですっ」

青は手を顔に当てたままガシャガシャと大きな体を揺らす。

「何がダメなんですか?」

ノートに描かれた美少女を見て、私は首を傾げた。

長い黒髪に抜群のスタイル。黒を基調としたセーラー服を着ているので女子高生か女子中学生といった設定だろう。切り揃えられた前髪と猫のような瞳のせいで冷たそうな印象を受けるが、少女漫画の主人公としては申し分ない。

圧倒的な画力で描かれたそのキャラクターは迫力と説得力があり、青の言う「ダメ」の要素がわからない。

もしや、外見は決まったけど設定が決まらないということだろうか。

元々物語の構築が苦手な青のことだ、その可能性は十分に考えられる。

「性格などでお悩みですか」

聞いてみると、青は手を顔からそっと離した。

「いいえ、その子のキャラクター性は決まっているんです」

青の視線が私の持つノートに向かったので、私もノートに視線を落とした。

キャラクター全身図の他に、怒った顔や笑った顔といった表情パターン、横顔や後ろ姿、目を拡大した図解など、細部まで煮詰められたのがよく伝わるが、イラストが沢山描かれているだけで、文字での注釈などはない。キャラクターの性格どころか名前も書かれていなかった。

「どんなキャラクターなんですか?」

柔らかに聞こえるよう気を付けた声で聞いてみると、青は手を胸の前で合わせた。

「その子、見た目は悪魔みたいでいろんな人に誤解されてるんですが、実は熱血タイプで、弱気を助け強きを挫くいい子なんです」

…ふむ。少々ベタだが、キャラクターとしてはちゃんと魅力的で、ダメという要素はなさそうに聞こえる。

「手先が不器用で料理なんかは壊滅的で。バンジージャンプは楽しんでやるのに、水着は苦手な恥ずかしがり屋さんで、苦手なことは毎週のゴミ捨て。一人暮らしの家はまさにゴミ屋敷で」

ん?なんか聞いたことある話になってきたな。

「だからなるべく家で過ごす時間を短くしたくて、放課後は安い居酒屋でダラダラしてて、七のつく日にはパチンコ行って、週末は競馬場で馬のお尻ばっかり見てるんです」

「待ってください」

流石に手を上げて意見する態勢を取った。

「掲載雑誌はジュエルですよ」

「そうなんですよぉぉおお」

青は再び顔に手をつけて頭を振った。

「でもこの子のキャラクターは変えたくないんですぅ」

ガシャガシャと音を立てる青を黙って見つめた。

…頭が痛い。

好きなものを煮詰めに煮詰めて作り出したキャラクターは、まぁなんというか、少女漫画の主人公にするにはちょっと色が濃すぎるというか、アクが強すぎるというか。「少女」に見せるにはまだ早いというか。

とにかくここ二週間原稿が進んでいないのは、使いたいキャラクターと雑誌の方向性が噛み合っていないということなのだろう。

私はもう一度ノートに描かれたキャラクターを見た。

ちょっと悪役っぽいとはいえ、見た目はまさに超王道を征く少女漫画の主人公顔をしているのに、ギャンブル好きなダメ人間はあかんやろ…。そう思ったとき、ふと笑いが込み上げた。

「老人と海子」というダサい名前で描かれる、心を揺らす美しい物語があるのなら、心揺さぶる美しい作画で描かれる「コメディ」があってもいいんじゃないだろうか。

そしてコメディの中にこそ、青の心の美しさを持ってきたら、それはたくさんの人の心を救う作品になるのじゃないだろうか。

思いついてしまったアイディアに、私は小さく息を呑んだ。

「ちょっと、いい?」

手を挙げて放った声は、編集者と友達の入り混じったような、不思議な音をしていた。

「描いて欲しい話があるんだけど」

そういって話した内容に、青の目は輝いていった。


思えばこの日、鳴宮麗子という超のつく大天才にアドバイスを求められたことも、出したアイディアが採用されたことも、以前の私では考えられない大快挙だったのだが、青と共に過ごした私にはある種当たり前のことになっていて、そのことに気づいたのは、もっとずっと後になってのことだった。

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