第13話 ロボと、鬼悪魔。
三十時間以上働いた重い体を引き摺るようにして、私は京浜東北線の電車に乗っていた。
会社のある大手町から自宅のある蒲田に戻るには、一旦東京駅まで歩いていく方が一本で帰れるため楽なのだが、今はどうしても歩きたくなかった。
大手町から丸ノ内線で一駅。地下鉄メトロからJR東京駅の大ダンジョンを潜って京浜東北線に乗る。昼過ぎ出発の大船行きは、東京から品川駅まではそこそこの乗客がいたが、大井町を越えたところでがらんとした様相になった。
どこでも座り放題の座席シートの一番端に座り、銀のポールをぎゅっと掴んで倒れそうな体を支えた。
ほんの一時間前まで「氷雨澤青と最高に面白い漫画を作るぞ」と息巻いていたはずなのに、体も心も鉛のように重い。理由は明確だ。
【氷雨澤青が現在ロボットの体である】
この事象が私の心を重くしている。
脳波は本人のものとはいえ、ロボットが描いた漫画を雑誌に載せてもいいものだろうか。
ロボットとAIは似て異なるもの。だがAIを忌み嫌う作家が大多数の出版業界において、この話題はとてもセンシティブなものだ。
AIはこの世のありとあらゆるものから学習し、指示されたものを生成する。技術としてはとても夢のあるものだが、作家からしてみれば「自分が磨き上げてきた技術」を勝手に盗まれた挙句、「私が指示してAIに書かせたので私のオリジナル作品です」と言い張られるのだ。例えるなら盗んだ小麦粉でパンを生成して金儲けされているようなもので、小麦粉を作るために粉骨砕身払ってきた人間からすると腹立たしい以外の何者でもない。その気持ちは一介の編集である私では計り知れないものだ。
もちろん医療ロボットとAIは全く別のものだ。懇切丁寧に説明すればわかってもらえるとは思う。だが昭和時代からの作家陣にその違いを説いて納得してもらうまでにいったいどのくらいの時間がかかるかは予測もつかない。漫画を愛していればいるほど、聞き入れてもらうまでに長い時間がかかるだろう。
「次は蒲田〜、蒲田〜。お出口は左側です」
車内アナウンスが耳に響く。
私はドア上に流れる電光掲示板の、さらに上にある路線図を見つめた。
この電車は大船まで乗客を運ぶ。その道中にある「桜木町」からタクシーに十分程乗れば氷雨澤邸に辿り着く。
私はそっと目を閉じた。そういえば昨日の昼から飯を食っていない。睡眠だってずっと摂っていない。だが今家に帰っても眠れないだろうし、多分飯も美味くない。
目を開けて鞄からスマホを取り出した。タイマーを掛けて、もう一度目を閉じる。蒲田から桜木町までの二十分、仮眠をとるためだ。私は自宅ではなく氷雨澤邸に進路を決めた。
心を決めてから体はすこしばかり軽くなった。
タクシーで乗りつけた氷雨澤邸は相変わらずデカく、風もどこか薫るような気がする。
門柱の小さな呼び鈴を押して応答を待ったか、返事はない。
氷雨澤青はロボットの見た目を気にしているようだったので、玄関先には出てこないのかもしれない。
門柱をくぐり、玄関ポーチへ入ってもう一度呼び鈴を押した。チャイムの音が家へと吸い込まれていくが、応答はない。
「氷雨澤さん、美空です」
扉に向かって声をかけてみたが、やはり何の返事も無かった。
その時ふと、ドアノブの金獅子が目に入った。獅子は垂直に立っている。つまり鍵が空いているということだ。
「氷雨澤さん、いらっしゃいますか?」
私は思い切って扉を開き、家の中に向かって声をかけてみた。
だだっ広い玄関ホールは静寂に包まれている。そんな静かな空間に違和感を感じた。
食堂へと続く扉が開いている。私が先程ここからお暇した時には閉めたはずの扉だ。もちろん私が帰ったあと氷雨澤青が開けたのかもしれないが、なぜだか物凄く嫌な予感がする。
「すみません、お邪魔します」
玄関先でそう言って、家の中へと飛び込んだ。
玄関ホール奥の扉をくぐり、食堂を抜ける。続く長い廊下を走ると、奥の作業部屋の扉が開いているのが見えた。
「氷雨澤さん、いらっしゃいますか」
たどり着いた作業部屋に氷雨澤青の姿はなかった。中庭から燦々と太陽の光が注ぐ美しい空間に一人投げ出されたような気がして、胸の奥に鈍い痛みが拡がった。
私はこれと同じような光景を見たことがある。
去年のちょうど今頃、私は新人に毛が生えた程度の作家から原稿をとってくるよう頼まれた。
聞けばその作家は締切間近となっても原稿を一行も書いていないらしく、痺れを切らした編集部は原稿取りの鬼悪魔を派遣することにしたということだ。
私はまず、いつも天才作家にするように「書けないのなら作家なんかお辞めになれば」という圧力をかけた。すると作家は「環境がよくない。温泉旅館にでも行けば書ける」と言ってきたので、熱海で一番の温泉旅館を手配してやった。正直新人に毛の生えた程度の作家には勿体無い金額の宿だ。文句のつけようも無い高級旅館に泊まらせて、こんないい宿に泊まっているのに書けないなんてあり得ませんよね、ご自身が温泉旅館に行けば書けると仰ったんですよね、という圧力をかけた。
だがそれでも原稿は進まなかった。
担当している作家の仕事もあったので、編集部と熱海を行ったり来たりして様子を伺ったが、何度訪ねても原稿はほとんど白紙だった。「本当に書けるんですよね?」と聞いたら、もちろん書けるとの一点張り。その時点で諦めた。こいつは書けない奴だ。編集長に他の作家にページを埋めてもらえるよう進言した。
そうするうち、原稿の最終デッドライン間近となった。
一応進捗を伺う連絡をしたが、作家から返事はなかった。原稿を書いているのかもしれないが、おそらく私からの連絡を見て見ぬふりしているんだろうと思った。もはや怒りを通り越して虚無だが、これも仕事かと熱海へ向かった。温泉旅館に行き、扉越しに声をかける。だが返事はない。仕方なく旅館から預かった鍵を使って扉を開けた。
部屋の中は空っぽだった。
書いていた原稿も、荷物も何もなく、静かで美しい空間がそこにあるだけだった。
あの時の光景と、今目の前に広がる景色が重なって見えた。
「氷雨澤さん」
小さく声を出して息を整えた。彼を探さなければ。
一年前旅館から消えた作家は、地元住人に肩を抱えられて戻ってきた。
涙を流している作家に話を聞くと、作品が書けない自分に苛立ち、衝動的に宿から飛び出してしまったらしい。ふらふらと街を歩いたところで川をみつけ、ここに飛び込めば楽になるかもしれないと橋の上から川底を見つめていたところ、地元住民に声をかけられたことで我に返ったのだという。
声をかけられなければ川に身を投げていたと泣く作家に、私は苛立ちを覚えたんだ。
そんなことをしている暇があったら一行でも一文字でも書けばいいのに、それが出来ないなら作家なんか辞めればいい。別にこの世の中、仕事なんかいくらでもあるんだから、作家辞めてアルバイトでもしたらいい。書けもしないのに書けるとか言って編集者や地域住人に迷惑かけるくらいなら、出来ないものは出来ないと断ればいい、死にたいなら死ねばいい。そう思った。
結局彼は仕事を放棄した。そして彼の作品を今後うちの会社では扱わないことが決まった。作家を一人失ったことは会社にとって不利益だとは思ったが、書けないやつに労力を割くほうが勿体無い。もっと他の優秀な人間に私は力を使いたい。なんだかんだ言いながら作品を書いてくれる大先生はたくさんいる。書けない奴と書かない奴に興味はない。
その後風の噂で、その作家が他社で作品を描き始めたとか聞いたが、別にどうでもよかった。結局書けないとか言い出して会社に迷惑がかかるだけだろう。お気の毒様とさえ思った。
だが今の私は、去年のようには思えなかった。
あの時私の心はきっと壊れに壊れていた。川に身を投げようとまでした作家の顔はどんなものだったか、全く思い出せないんだ。
「あなたは漫画家の夢と憧れを潰すような言葉を放った。それは編集として絶対やっちゃいけない事だわ」
大五郎の穏やかな声が胸に刺さる。
心が壊れていた私はどのくらいの作家の人生をすり潰してきたのだろうか。
その時、頭上からゴトゴトゴトっという大きな音が聞こえてきた。何か重いものが落ちたような音に身を震わせたが、一瞬ののち、私は廊下へと向かって走り始めていた。
二階だ。氷雨澤青は二階にいる。おそらくあの漫画部屋にいるのだろう。理由もなくそう思った私は廊下を抜けて食堂を突っ切り、玄関ホールにある階段を一段飛ばしで登っていく。膝に小さな痛みが走ったが、ぐっと堪えて階段を上る。辿り着いた漫画部屋に、銀のドラム缶が転がっていた。
「氷雨澤さん!」
思わず声が出た。
「大丈夫ですか氷雨澤さん」
横倒しに転がっているドラム缶は、ギギギと音を立てて半球状の頭を持ち上げようとしていた。
「どうしましたか?大丈夫ですか」
倒れるドラム缶に駆け寄って、矢継ぎ早に声をかけた。
氷雨澤青がこの漫画部屋で何をしていたのかはわからなかったが、横倒しに転がっているのは中々只事ではない。
何度か声をかけると、氷雨澤青は蛇腹の腕を床につけてドラム缶の体を押し上げ、私に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、あの、すみません」
ただただ謝るだけのロボットに、私はぶんぶんと頭を振った。
「謝る必要はありませんから、一体何があったのか教えてください」
私の言葉に氷雨澤青はU字の手で部屋の天井を指差した。五メートルはある高い天井付近にまで本がびっしりと詰まった本棚に、木の梯子が掛けられている。
「美空さんに言われたように、好きな漫画のどこが面白いか研究しようと思ったんですけど…どうやら僕、梯子の上で本読みながら寝ちゃったみたいで…」
申し訳なさそうに手を合わせる氷雨澤青に、私は思わず
「寝た?ロボットなのに?」
と発していた。
「はい、すみません」
頭を下げ続ける氷雨澤青の体をぐるりと見回した。ロボが寝る意味は全くもってわからないが、やはり見た目以上に高性能で頑丈なのだろう、ドラム缶には傷ひとつついていなかった。
良かった、原稿は描けそうだな、そう思って息を吐いた。
「心配をおかけしてすみません、お心遣い、ありがとうございます」
氷雨澤青から「心遣い」という言葉を聞いたとき、気づいてしまった。
私がここに駆け上がってきたのは、彼を心配したからではなく、彼が漫画をかけるかどうか心配していたからだということに。
あぁやっぱり、私の心は壊れているんだな。
今になってみればもうわかり切ったそのことに悲しみが降ってくるのは、多分、私が少し調子に乗っていたからだろう。
私は調子に乗っていた、変われたと思ってた。
悪友である大五郎の言葉と、氷雨澤青との出会い。二人のおかげ私は心が壊れていることに気づくことができた。
気づいたからには変われるはずだ。
たった二、三日の話だけれど、私は少し変われたと思っていた。
自殺を考えたという作家に苛立ちしか浮かばなかったあの時から変われたと、心のどこかでそう思っていたんだ。
だけど今、横倒しに転がる氷雨澤青を見た私は、彼の心配をしていなかった。
心配したのは氷雨澤青が作るであろう漫画と未来の読者。目の前の人間の生死などどうでもいい。読者の楽しみさえ守れればそれでいい。そんなふうに考える私は、作家を自殺にまで追い詰めた時と何も変わっていなかった。
人は簡単には変われない。
私の心は壊れたまま、きっともう二度と、綺麗なものには戻らない。
「ど、だ、ど、どうう」
不思議な音に顔をあげると、目の前のドラム缶が身を仰け反らせるように背中を本棚へとつけていた。
「だ、っだ、だ、だだだ」
そうだ、五メートルの高さから落ちたのだ、どこか不具合が起きたのかもしれない。そんなことを思いながらドラム缶を見ていると、半球状の顔に付いているガラスの瞳がぐるぐると辺りを見回し、何かを見つけたように素早く動いた。
蛇腹の腕を振り回すドラム缶を目で追っていると、彼は部屋の片隅に置かれた小さなテーブルに手伸ばした。
U字の手でがっしりとホールドする形で掴んだのは、長方形の白い箱だった。
箱を持ったドラム缶はこちらへと近づいてくる。
何だろうと思ってよく見ると、それは白いレースで彩られた豪華なティッシュケースだった。
「あばっ、あ、どうぞ」
差し出されたティッシュケースを見てようやく、自分の頬に涙が落ちていると気がついた。
「あ、ありが…ござ…ます」
差し出された優しさに礼を言おうと思った。だけど殆ど言葉になっていなかった。言葉の代わりに涙がごろごろと転がり落ちていた。
目の前の銀ドラム缶が歪んで溶ける。ガシャガシャと音を立てているが、今彼が何をしているのか見ることができない。だが何やら白い物体をズイズイと差し出しているのはわかった。おそらく持ってきてくれたティッシュケースだろう。受け取った箱に視線をやると、ぼたぼたと音を立てて雫が落ちた。未だガシャガシャと音を立てているロボットに謝意を表そうと思ったが、やはり言葉にならなかった。
どうして泣いているのか、自分のことなのにまったくもって意味がわからなかった。
ただただ零れ落ちてくる涙を何度も拭い、詰まった鼻をチーンとかみ、それでも後から後からやってくる涙をまた拭った。
箱ティッシュが空になった頃、私は床に尻をつけて氷雨澤邸の図書館みたいな漫画部屋をぼーっと見上げていた。鼻の先がまだ熱を持っている。
随分寝ていないことと泣き疲れたこと、それからだいぶとお腹がすいたこと。それ以外何も考えられず、聳える山脈のような本の背表紙たちを、ただぼんやりと眺めていた。
「こ、こ、こんなものしかありませんが」
背中にかけられた声に振り返ると、昭和ロボットが高そうな陶磁器のトレーを運んできていた。トレーの上には揃いのカップとティーポットが乗っている。昭和ロボが運んでくるには随分と豪華なティーセットをぼんやりと眺めた。「漫画家さんにお茶汲ませるなんてもってのほかだ」と脳内の私が叫んでいたが、どうにも立ち上がる気力が湧いてこない。
ロボは本棚前の小さなテーブルにトレーを置き、U字の手で器用にテーポッドからカップへと紅茶を注ぐ。
「どど、どうぞ」
私に向かって差し出されたカップは、緊張のせいだろうかプルプルと震えており、ティーソーサーに茶色の雫を飛ばしている。
「ありがとうございます」
地べたに尻をつけたまま腕を伸ばして、ソーサーごとカップを受け取った。
温かな湯気と柔らかな香り。きっとこれもいいとこの茶葉なんだろうな、と思うと少し笑えた。
びちゃびちゃのティーソーサーと、かろうじてカップに残る高級紅茶。
普段紅茶を淹れることがあまり無いのか、それともわんわんと泣き出した大人に慌てたのか。
どちらにせよ氷雨澤青の不器用な優しさが、何だかとても嬉しかった。
カップを啜って息を吐く。苦くて不味い。多分入れ方が間違っている。普段紅茶も淹れないし、泣き出した大人に慌てもしたのだろう。
「まっずい」
思わずそう言って笑った。
「すす、すみません」
ペコペコと頭を下げる昭和ロボは、やはりとてもいい人なんだと思う。
「こちらこそすみません」
私はゆっくり頭を下げた。
「不法侵入してくるわ、途端に泣き出すわ、お茶がまずいだとか。本当にご迷惑をおかけしてすみません」
「いえ、な、何かあったんですか」
不安げな眼差しを送ってくるロボに、私はそっと顔を上げた。それもそうだ。氷雨澤青にしてみれば、午前中に帰った担当編集が数時間で戻ってきたかと思えば、目の前でわんわんと泣き出したのだ。原稿に不備があったとか、そういう側面が心配になるだろう。
「大丈夫です。氷雨澤さんの原稿は完璧で、鳴宮麗子先生も驚いていらっしゃいました」
力の入らない顔で精一杯笑って見せる。
「どうぞ、ご心配なさらず」
「それはあの、良かったんですけど、何があったんですか」
長方形の眉毛をハの字にして、氷雨澤青は私を見ていた。
おそらく彼は原稿ではなく「私」を心配しているのだろう。
優しい心を持つロボットを見ていると、なんだか悲しくなってきた。
「氷雨澤さんは、心を壊したくてロボットになられたんですよね」
私の話に驚いたのか、眉を上げたドラム缶は半球状の頭をそっと下げて頷いた。
「私、心が壊れているんです」
そう話すと、ガラスの目がパッと丸くなるのが見てとれた。
あぁやっぱりこのロボットには心がある。
ただの脳波の影響なのか、本当に心というものが存在するのかはわからないけれど、目の前のロボットには心がある。少なくとも私にはそう見える。それが何だかとても悲しい。
「倒れている氷雨澤さんを見た時、私は氷雨澤ご本人の心配をしていませんでした。私が心配したのは氷雨澤さんの漫画を待つ未来の読者さん、つまり自分の仕事の心配をしたんです。酷いですよね、到底人間の心があるとは思えない」
ロボは黙って私の話を聞いてくれていた。放たれる温かな視線が痛い。思わず俯いた私の目に、カップに残る不味い紅茶が映る。ゆらゆら揺れる緋色の水面に私の影が落ちていた。
「ジュエルに来たのだって、私の心が壊れていたからなんです。作家さんを追い詰めて追い詰めて、作家さんが逃げ出すまで追い詰めました。でも私は作家さんを追い詰めていたことにすら気がついていなかった。原稿にしか興味がなかった」
緋色の水面に一粒の雫が落ちた。涙なんて全部出し切ったと思っていたのに。
「私の心は壊れてしまっているんです」
「あのっ」
勢いをつけるように放たれた声に、私は顔を上げた。ロボットはガラスの瞳を小さく揺らしながらも、しっかりと私を見ていた。
「美空さんは、僕と面白い漫画を作りたいと言ってくれました。それは嘘ですか?」
「嘘じゃありません」
考えるより先に言葉が口をついた。
「私の心は壊れています。だけど氷雨澤さんと漫画を作りたいと思ったことも、その漫画を読者さんに届けたいと思ったことも、それだけは嘘じゃありません」
その気持ちだけはいつだって嘘じゃなかった。
いや、嘘じゃなかったと信じたかった。
その気持ちが嘘になってしまったら本当に私は原稿を取り上げるだけの鬼悪魔、心無いモノ。ロボットなのは私の方だ。
「じゃあ、あの、丁度いい、ですよね」
目の前の銀のドラム缶は、四角い口をパカっと開けた。
「心を壊したい僕と、心が壊れているという美空さん。一緒ならきっと面白い漫画ができますよね」
ツルツルの銀の頬が微かに桃色に染まっている。ガラス玉の瞳の中に星型の光を映すロボットに、私は思わず首を横に振った。
「いいんですか?心無い人間が担当になるんですよ。嫌じゃありませんか?」
こんなことを聞いたって困らせるだけだ。頭ではわかるのに、なぜか言葉を止められなかった。
氷雨澤青はU字の手を顎につけて、体をギッと傾けた。
「あの、こんなこと言ったら失礼かもしれませんが、僕には美空さんが「心の壊れた人間だ」というふうには、全然見えないんです」
蛇腹の細い脚で絶妙に傾くロボットは、銀の薄い瞼をぱちぱちと瞬かせる。
「むしろとても情熱的な方で、僕みたいな新人とも呼べない漫画家に真摯に向き合おうとしてくれている。温かな心がある。僕にはそんなふうに見えています。でも貴方は、自分の心は壊れているとおっしゃる」
そう言って氷雨澤青はU字の手をドラム缶の中央上辺りに置いた。人でいうところの胸に当たる部分に手を置いて長方形の口をパカっと開く。
「だから、一緒なら、面白い漫画ができるのかなって」
人見知りでへんてこなロボットのはにかんだような笑顔が、私の胸の奥を柔く撫でた。
変われなくても、
綺麗な心を持っていなくても、
目の前のロボットは私と一緒に物語を作ろうとしてくれている。
こんな奇跡みたい話があるだろうか。
そう思うとまた目の前が滲んだ。
その時、ドラム缶からグーという音が響いた。
「す、すみません。まだちょっと何も食べてなくて」
ロボは頬を赤く染めながらペコペコと頭を揺らしている。
「…今のはお腹の音ですか?」
「はい、お聞き苦しい音をすみません」
「ロボなのに?」
疑問は脳の審査を通ることなく、あっさりと口から出てしまった。
やってしまった、ロボット差別しているみたいに聞こえないよう気をつけようと思っていたのに…。だが私のそんな後悔など微塵も気付かなかったように、氷雨澤青はペコペコと頭を下げ続けた。
「はい、体は確かにロボットなんですけど、脳は人間なので眠たくもなるし、お腹も空くんです、すみません」
「じゃあいよいよなんのためのロボットなんですか」
…この口ぃ!と思わず自分の頬を張りたくなった。どうにも頭のネジが緩んでいる。寝不足と空腹に加え、散々泣き喚き散らかしたことで、氷雨澤青に対する警戒心みたいなものが緩んでしまっているのかもしれない。
だがやはり、私の失礼な発言に対して氷雨澤青は嫌な顔をする様子はなく、両手をギュっと体の前で合わせていた。
「そうなんですよね。心が壊れていないんだったら、ロボットである必要はないんですよね」
申し訳なさそうな顔をするロボットを見て、私はここに来た理由を思い出した。
「あの、ロボットである必要がないんだったら、人間に戻りませんか」
目の前で彼の仕事ぶりや考え方を見聞きしている私にしてみれば、彼は間違いなく氷雨澤青本人だし、ロボットでいることは彼の仕事のクオリティを底上げするようなものではない。だが彼の状況を知らない人からしたら「ロボットが描いた漫画」というものは、やはりとんでもなく印象が悪いだろう。AIが漫画家やイラストレーターの知的財産を泥棒しているとの声が吹き荒ぶ今、いくらAIとロボットは似て非なるものだと言っても、すぐに聞き入れてもらえるとは思えない。
私は必死になって氷雨澤青にロボットでいることのデメリットを解いたが、彼は銀の頭を下げるばかりだった。
「それがその、戻れないんです」
その言葉に私の喉はひゅっと音を立てる。
「戻れない、とは?」
「人間に戻るためには、脳波を発している僕自身が「戻りたい」と強く思わないとダメなんです」
祈るように両手を合わせる氷雨澤青は、私に向かって何度も頭を下げる。
「戻りたいと思う脳波が一定以上を超えた時、病院側にアラームが鳴って僕本体を起こす設計になっているんです。僕自身、今自分の体がどこにあるかも知らないんです」
「何でそんな」
息を絞り出すようにいうと、氷雨澤青はそっと顔を上げた。
「この実験はまだまだ発展途上の技術が使われています。万が一ロボットの僕に新たな自我のようなものが芽生えて本体を攻撃するみたいな、そんな映画のようなことが起こらないとも言い切れません。だから僕本人が心の底から人間に戻りたいと思った時だけ人間に戻れる。そういうロックみたいなものがかけられているんです」
そこまで話を聞いて、私は手のひらを強く振った。
「ちょっと待ってください。氷雨澤さんが強く「戻りたい」と思えば、人間に戻れるんですよね?だったら今すぐ戻れるんじゃないですか?」
技術のあれやこれやは正直わからないこともあるが、聞く限り人間に戻るのは難しくないように思えた。だが目の前のドラム缶は申し訳なさそうにU字の手のひらをガチャガチャと鳴らす。
「それがその…どうやら僕、戻りたくないと思ってるみたいで」
その言葉に私は一瞬息を止めた後、深く長く吐き出していた。
静かな部屋に響くその呼吸に慌てたように、氷雨澤青は再び頭をペコペコと下げる。
「あの、ロボットは知的財産を盗んだりするようなものじゃないんです。手足が動かせなくなった人と、目線や脳波だけで会話が出来るように研究されてきた技術ですから、AIのそれとは全く違うんですけど…」
「ですが、氷雨澤さんには健康な体があるんですよね?」
そう言い放つと、ドラム缶は背を丸めるようにして縮こまった。まぁ金属で出来ている体なので全くもって縮こまれていないが…。
実際、氷雨澤青の言い分は理解できる。だがAIと聞けば蕁麻疹が出るような今の出版業界にロボットの体で描いた漫画を受け入れられる度量があるようには思えない。
「氷雨澤さんはきちんとした体があるわけですから、ロボットの体で漫画を描いてあれやこれや謂れのない文句をつけられるより、本人に戻った方がいいに決まってるじゃないですか」
なるべく穏やかに聞こえるように気を付けて、俯く顔を覗き込んだ。
「それは、そうだと思うんですが…」
氷雨澤青はU字の両手をガチャガチャと鳴らして床を見つめている。
「何が問題なんですか?」
思い切って聞いてみると、氷雨澤青は手を鳴らすのをやめ、しばらくじっとした後
「怖いんです」
と呟いた。
「美空さんと出会って、一緒に面白い漫画を作ろうって言ってもらえて、今、産まれて初めて漫画を描くのが楽しみだって思ってるんです」
「これまで、漫画を描くのは楽しくなかったんですか」
「そういうわけじゃないんですけど、ずっと一人だったから。誰かとお話ししながら漫画を描くって、こんなにワクワクするって知らなかったし、このワクワクした気持ちで漫画を描き上げたいって思っている、今の僕のこの気持ちが…」
丸い頭を振り上げるようにして、氷雨澤青は顔を上げた。
「この心が、人間に戻ることで無くなってしまうんじゃないかと思うと、怖いんです」
長方形の眉を八の字に下げ、ガラスの瞳に雫模様を映している氷雨澤青は、両手をぎゅうと握り合わせていた。
「ロボットに脳波を移すことには成功しました。だけどその逆がちゃんと成功する保証はどこにもない。人間に戻った時、今のこの気持ちを、心をちゃんと持って帰れるのかが、怖いんです」
そう言うと、丸い頭はぐったりするように再び下を向いた。握り合わせている手は小さく震えている。
「でもそれじゃあ一生ロボットでいることになりますよ。それでいいんですか」
投げかけた私の声に、氷雨澤青は頭を小さく横に振る。
「よくありません。僕も人間氷雨澤青に戻りたいとは思っています」
震えながら「戻りたい」と放つロボットを見つめた。
おそらく彼に「人間に戻りたい」という気持ちがあるのは本当だろう、だが人に戻る条件が「心から戻りたいと思うこと」ならば、心を失う恐怖に怯えているうちは戻れないのではないかと思った。
「…わかりました」
ずっと持ったままになっていたティーカップをぐいっと傾けて、不味い紅茶を喉に流し込んだ。苦味をグッと堪えて立ち上がる。
私が勢いよく立ち上がったのを感じてか、氷雨澤青も顔を上げたので、その顔に向かってティーカップを持った手を差し出した。
「ほんだら私と、ロボットの氷雨澤さんで、最高に面白い漫画を作ろうやないですか」
私の言葉に驚いたのか、言葉遣いに驚いたのか、銀の薄い瞼がぱちぱちと動いている。瞬きを繰り返す瞳に向かって私は人差し指を立てた。
「ただし、ひと作品や。最高の漫画をまずひとつ作る。氷雨澤さんはその漫画に、漫画家としての全てを詰め込んでくださいや」
カップの取っ手をぎゅっと握り、氷雨澤青の胸に向かって突き出す。
「今の氷雨澤さんが大事にしたいと願うその「心」が、もしも消えてしもうたとしても、描いた漫画を見れば全部思い出せるような、大事な心を取り戻せるような、そんな漫画を描き上げてくださいな」
氷雨澤青は突き出されたカップと私の顔を交互に見て戸惑っているようだった。私は深く息を吸い込んで、拳を固めてロボットの胸を突いた。
「出来ひんとか言いませんやなぁ」
意識半分、無意識半分、私は地元訛りの言葉を放つ。
「AI騒動でピリピリしとる出版業界に、いくら本人の脳波とはいえロボットが描いた漫画を載せよう言うてますんや、私が背負うリスクの分、氷雨澤さんにだって努力してもらわな釣り合わんいうもんですわ」
私は片眉を引き上げてロボの顔を見つめ、顎で自分の拳を指し示した。
「やれますやんな」
そう言った私の意思が伝わったのか、氷雨澤青はOの字にした手で私の拳にちょんと触れた。
「よし、そうと決まれば制作開始ですわ。早速取り掛かかるとしましょ」
そう言って腕を広げた私の腹がグゥと音を立てた。
小さな沈黙が空間を支配する。
「…あの、料理長呼びましょうか」
気まずそうに銀の手で遠く置かれた黒電話を指すロボットに、私は息を吐き出して笑った。
「いや、料理長なんぞおるんかい。金持ちか」
笑った私に戸惑うかのように、氷雨澤青は「す、すみません」と言いながらペコペコと頭を下げた。
人見知りで気弱な大金持ちの王子様。だけど漫画のためなら体を投げ出すことも厭わない不思議な男。そしてそんな男と漫画を作ることを心から楽しみしている自分がなんだか可笑しくて、私は肩を揺らして笑っていた。私が笑うからロボは何度も頭を下げる。
心を壊すためにロボットになったのに、今度は心を壊さないためにロボットでいたいと願う変な男との、漫画作りが始まった。
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