第12話 一寸先は、沼。

私の手を掴んだ氷雨澤青を最高の漫画家にするため、私は大五郎の元へと向かっていた。

高層ビル建ち並ぶ丸の内オフィス街、正午を回ったところということもあって、広い道にはずらりとキッチンカーが並び、並んだ車にまばらに人が並んでいる。

一昔前キッチンカーで昼食をとるのはある種のステータスだったらしいが、七、八百円から千円出してまでちっさいカップに入れられた飯を食う意味がいまだに分からない。袋の口をくるくる丸めた持ちずらそうな茶色の紙袋を持って歩く、相容れないであろう人々が作る波を切るように大股で歩いた。

特別急ぐ必要がないことはわかっている。けれど、どんどんと早足になるのを止められない。

たっかいビルの中層階、中央に位置する中くらいの広さのジュエル編集部。並ぶ六つのデスク奥、ファンシー動物園の中で原稿に目を通している大五郎が見えた。

「氷雨澤青の担当編集にしてくださいっ!」

荒い呼吸を整える間もなく私はそう発していた。原稿に集中していたのだろう、大五郎は驚いたように身を震わせて顔を上げた。

ピンクのジャケットに身を包んだ大五郎を真っ直ぐ見つめたまま、並んだデスクを通り抜ける。

「もちろんこれまで通り新人発掘の仕事も請負います。ですから私を氷雨澤青の担当編集にしてください」

そう言い終わるくらいで、ようやく編集長デスク前に到着した。肩で息をしながら大五郎のくっきりとした二重まぶたがパチパチと揺れるのを見つめる。

運動不足は玉に瑕だ。全く整わない息の隙間を縫ってもう一度

「私を…」

と言うと、

「どのくらいかかりそう?」

と返ってきた。

海外俳優のような堀深い顔は「おはよう」に「おはよう」を返すくらいの気軽さを見せる。私は鼻で大きく息を吸い込んで、大五郎の大きな瞳を見つめ返した。

「半年」

息を長く吐き出して、背筋を伸ばす。

「半年いただければ、連載を勝ち取れるような作品を持ってきます」

そう言ってから、指を三本立ててみせる。

「三年いただければ、ジュエルで一番人気の漫画家にしてみせます」

言い切った私に、大五郎は持っていた原稿をそっと降ろした。

「わかったわ。茜に任せる」

編集長のその一言に飛び上がりそうになる。

「だけどね」

そんな私を察してか、大五郎はデスクに肘をついて頬杖をつきながら、私がしたのと同じように指を三本立ててみせた。

「アタシから三つ、条件を出すわ」

編集長直々のお達しに、私は息を深く吸い込んだ。

芽が出るかわからない漫画家に半年以上の期間を要求したのだ。どんな厳しい条件が出るかはわからないが、どんなものでも飲むつもりでいた。

「一つ目」

人差し指だけを残した大五郎は、そのままその指で編集長デスクをトントンと叩いた。

「とくに出社の必要はない。だけど報告は適宜して」

おそらく編集長である大五郎はここにいるから、と言う意味も含んでいるのだろう。私は深く頷いた。

「二つ目」

指を二本立ててピースサインのような形にした大五郎は、そっと頭を横に振った。

「茜にとって、これはとっても厳しいことかもしれないけど…」

その様子に、私はふと嫌な予感がした。これは悪友の話し方だ。予想通り大五郎は唇の端を引き上げて笑った。

「いついかなる時もジュエル編集者として恥ずかしくない出立ちをして。勤務態度はもちろんだけど、服装や身だしなみも超大事♡」

大五郎は器用に片方の眉毛だけあげて私を見上げている。二十四時間以上働いているせいだが、昨日と同じ黒スーツに物申したいのだろう。

「別に毎日違うスーツを着ろとか、少女漫画だからピンクのフリフリを着ろとか、そういうことを言ってんじゃないわ。ジュエルという夢と憧れを作る雑誌の編集者としてふさわしいと思える格好ならなんでも結構」

うちの会社にこれといった制服はない。ゆえに私は誰にも文句を言われようのない黒スーツを着ているのだが、一般女子より頭一つ背の高い私が、全身黒スーツを着ているのは少々威圧感があると自覚している。変態天才小説家たちから原稿を巻き上げるには都合が良かったが、少女漫画の編集として相応しいかと言われれば、なんというか一考の余地があるように思う。

だが大五郎のいう通り、この条件は私にとって難題だ。

ぱっと思い返してみたが、スーツ以外の服といえば学生時代から熟成させたジャージ以外に思い出せない。

「小学五年生みたいな格好してたらしばき回すからね♡」

睢水亭に居る時の私のことを言っているのだろう。…まぁネットで探せばなんとかなるか。

「三つ目」

眉根を寄せていた私に向かって、大五郎は指を三本立ててきた。

「一つ目と二つ目の条件を守って、目一杯に好き勝手やること。以上」

そう言ってしまわれた指に、私は肩透かしを食らった。

「それだけ?」

思わず口をついた言葉に、大五郎は編集長と悪友を混じらせた不敵な笑いを見せる。

「好き勝手やることに、手を抜くんじゃないわよ♡」

そう言った大五郎はジャケットの胸ポケットから白いハンカチを取り出して、鼻歌混じりに折り目を直し始めた。

「んじゃ、そういうことでよろしく♡」

折り目を整えた大五郎は片手をひらりと上げた。

どうしてだかわからないが、私はふと、そのハンカチに見覚えがあるような気がした。

大五郎と白いハンカチ。

それは何かとても大切な記憶だったように思えたのだが、鳴り響いた着信音に私の思考は引き裂かれた。

「ちょっと失礼」

鳴ったのは大五郎のスマホだった。昨日も聞いたデフォルトの着信音。ということは病院の白石からだろうか。

「はい、ええ。もちろんよ。…お世話になっております」

最初は気安く話していた大五郎だったが、途中から丁寧な口調へと切り替わった。おそらく電話の相手が変わったのだろう。

「はい、ありがとうございます。えぇ?まさか、ふふふ」

丁寧に話す大五郎の視線は、何故だか私へと向かってきた。

「そちらの件に関しては担当に確認しておきます。まずは何よりお身体ご自愛なさってくださいね。ええ、では失礼いたします」

相手が電話を切ったのを確認するように、しばらくスマホを見つめてから、大五郎はふふふと声に出して笑った。

「どうかしたんですか」

「鳴宮麗子先生からよ」

その名前に私の胸はギクリとした音を立てる。これまで何度も担当作家たちから無理難題を言われ続けてきた私にとって「先生からの電話」というのはちょっとした恐怖だ。果たした仕事に対し、根本から全てをひっくり返すようなことを言われるのだって珍しくない。

「何か不都合でもありましたか?」

私の青い顔を見てか、大五郎は肩を揺らして笑っている。

「氷雨澤さんにお願いした原稿、アタシは全く問題ないと思ったからこのまま印刷所に送っても良かったんだけど、麗子先生を不安にさせるのも良くないと思ってね」

大五郎はデスクに置かれている原稿に視線を落とした。今朝完成した鳴宮麗子の原稿だ。一番上には氷雨澤青が仕上げたページが乗っている。

「原稿をデータにして白石のタブレット宛に送ったの。幸い白石の病状は落ち着いてて、彼女からも何かできることがあれば指示してくださいって言われてたしね。それで白石に、麗子先生が原稿を確認できそうな精神状態なら氷雨澤さんの仕事ぶりを確認してもらって、って言っておいたのよ」

「それで、先生はなんて」

氷雨澤青の仕事に自信はあったが、変態小説家たちから最早いちゃもんとも言えるような我儘を浴びてきた私にとって、先生からの言葉というのは毎度心臓を締め付けられるような思いがする。

「大丈夫よ、麗子先生は氷雨澤さんの仕事ぶりにいたく感心していらしたから」

私の心を見透かすように、大五郎は穏やかに笑った。

「ただ絵が上手いってだけなら掲載NGにすることも考えてたらしいんだけど、まるで自分が描いたみたいで驚いたっておっしゃてたわ。それでね」

何がおかしいのか、大五郎はくすくすと笑っている。

「あまりにも自分の絵にそっくりだったから、最近話題のAIに描かせたんじゃないかって疑ってらしたのよ。先生の絵を学習させた機械で描いたんじゃないかって」

その一言に、喉がギュッと音を立てた。

AIに描かせたわけではない。だがロボットが描いたことには違いない。

氷雨澤青の脳波で動かしているとはいえ、機械の体で描いたことを、鳴宮麗子がどう思うかはわからない。

「だからね、ちゃんと人間が描いたから安心してくださいって伝えたわ」

大五郎はにこにこと笑っている。氷雨澤青を知る大五郎は、あの細長い手脚を丸めるようにする人間が描いたと微塵も疑っていないのだ。

「ウチの秘蔵っ子なんで、いずれデビューしたら可愛がってあげてくださいねって言っておいたわ」

つい先程まで走り出したいほど軽かった体が途端に重くなった。ぬかるみに足を取られているみたいだ。

「というわけだから茜、氷雨澤さんとの面白い漫画、待ってるわよ」

編集長の笑顔を見ながら私もにこりと笑ってみせたが、うまく笑えているかはわからなかった。

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