第8話 意向に従う、威光作戦。

鳴宮麗子なりみやれいこに託された原稿を持って、私は氷雨澤青ひさめさわあおの自宅へと向かっていた。

数時間前までの「電話しても出てもらえないかも」などという憂いなど、緊急事態の前では瑣末なもの。持ち込み者ファイルに記されている連絡先へと電話をかけた。携帯電話の番号はなく、固定電話の番号しかなかったためすぐに連絡が取れるかひやひやしたが、幸いなことにかけた電話は氷雨澤青へと繋がった。

「連載の話でなくて申し訳ないのですが、氷雨澤さんの圧倒的な作画力を見込んでのお願いがあるんです」

そう話すと、電話口の戸惑う声の中に喜びの色を感じた。これは、押せばいける。

「とある漫画家と専属アシスタントが急病で、原稿が落ちるかもしれない。背景や小物などの作画が数ページ残るだけなのだが、ぜひ力を貸していただけないでしょうか」

悲劇的でドラマチックな現状を打破できるのは貴方だけ!そんな風に聞こえるように話していく。

でも、いや、僕の力では…などと返してくる氷雨澤青に

「今あなたが力を貸してくれなければ、全国全世界のジュエル読者が悲しむことになるんです」

と強く押した。まるで「おぉ勇者よ、この世界を救ってくれ」という無茶な要求をするRPG王様よろしくの大袈裟な物言いだ。

自分の力を求められた勇者氷雨澤青は「わ、わかりました」と言って一つの条件を出してきた。

条件といっても簡単なもので「いま家から出られないので、原稿を自宅まで持って来ていただけないでしょうか」というものだった。

あの神技とも言える画力が貸してもらえるなら、原稿を持っていくことなど容易いことだ。


―そう思って指定された住所に来たのだが、家は白亜の大豪邸、現れた本人は昭和ロボットになっていたのだから、流石に面を食らってしまった。


だがボケっとしている時間はない。締切は着実に迫っているし、何より氷雨澤青が作画するところを見たことがあるわけではない。鳴宮麗子の原稿に相応しい作画ができるのか、出来るとして締め切りに間に合うのか、全ては賭けだった。

「さ、作業部屋で描いてもいいですか?」

玄関口で茶封筒を高く掲げる私に向かい、氷雨澤青を名乗るドラム缶型昭和ロボットはU字の手で奥を指していた。

指し示された方向に視線をやるが、作業部屋なんてものがあるようには思えなかった。氷雨澤邸の天井は高く、シャンデリアの飾られた玄関ホール奥に、ゲームでしか見たことない二箇所からのぼれる階段が見える。これがホラーゲームやミステリーなら絶対あのシャンデリアが落ちてきて一人二人は犠牲になる。そんな雰囲気の大豪邸に「作業部屋」なんてものがあるのか?あるとしたら書斎とかそういった名前のつく場所じゃないのか?

そんなことを思っていると、目の前のロボットの銀色の眉が下がった。

「…あの」

「ええもちろん。一番作業しやすい環境でお描き下さい」

私はにこりと微笑んで茶封筒を抱え直した。

とんでもねぇ大豪邸に内心冷や汗をかいたが、どんな家に住んでいようが、どんな見た目をしていようが、私は仕事を頼みにきた漫画編集者で、目の前にいるのはデビューもしていない漫画家の卵。恐れるものは何も無い。

「あ、スリッパ、どうぞ」

氷雨澤青は蛇腹の腕を伸ばし、私の前にスリッパを置いた。

「有難うございます。お邪魔します」

会釈の後、靴を脱いでスリッパを履いた。瞬間、足裏にベルベットの滑らかさが伝わる。こりゃやべぇ。このスリッパ絶対ホームセンターで売ってないやつだ。

「あ、こっちです」

ガシャガシャと音を鳴らしながら、氷雨澤青は玄関ホールの奥へと向かった。階段下の両開きの扉を押し開ける。そこは美術の教科書で見た「最後の晩餐」に描かれたような大食堂だった。

「ぐるっと回っていってもいいんですけど、ここを通るのが近道なので」

そう言って氷雨澤青は食堂奥へと歩みを進めた。

近道?近道ってなんだ?家の中で使う言葉ではなくないか?

多すぎる情報を脳内整理しながら導かれるまま奥へ奥へと、つるりとした銀の背中について歩く。何人掛けと呼ぶのが正解かわからないダイニングテーブルを横目に、壺やら絵やら骨董品やらが随所に置かれた食堂を黙って通り過ぎた。

食堂奥の扉を開いた先は広い廊下になっており、所々に西洋甲冑が置かれていた。

どうして金持ちは廊下に甲冑を置く趣味があるのだろう。「趣味は料理」「趣味はゴルフ」みたいに「ご趣味は?」って聞かれた時「甲冑です」と答えるのだろうか。どこの層に需要のある趣味なんだ。そこまで思考を巡らせて、一つ息をついた。

だめだ、情報が多すぎて翻弄されている。原稿以外の余計なことは考えないようにしよう。

そう思って前を歩く昭和ロボットの背中を見た。

鳴宮麗子の入院先に行った時も面食らったが、それよりもなお荘厳で華美な廊下を歩いて進む銀色テカテカ昭和ロボット。頭が痛くなりそうな光景だが、とにかく原稿完成が最優先。それ以外なことは瑣末なこと。訪ねた家が大豪邸で尋ねた作家が昭和ロボットになってるなんて瑣末なこと、そう思い込むようにした。

目の前のロボットは私を気遣ってなのか、これが最高速度なのかはわからないが、人と同じくらいの速度で進む。締め切りまでの時間が迫っているのでもう少し早く歩いてもらいたいものだが、円筒状の体から生えている蛇腹の足は細く、大きな体や頭を支えるのには随分アンバランスに見える。滑って転んで怪我でもされたら大惨事なので黙って歩く。見つめた蛇腹の脚先、ティッシュ箱のような形の足にベルベットのスリッパを履いている。私に出されたのと同じデザイン…だがサイズが全く違う。オーダーメイドということだろうか?洋服着てないのになんでスリッパだけ履いてるんだろう、人間だったらだいぶ変態じゃない?

そんなことを考えてしまっていることに気がついて、思考を止める。原稿のこと以外は考えない、考えないぞ。

長い廊下を歩き、ようやく辿り着いた突き当たり。天井まで伸びる両開きの扉に出迎えられた。「開けゴマ」とか言わないと開かないような大きさの扉だ。

「ここが僕の作業場です」

昭和ロボットはU字の手を器用に使って重そうな扉を押し開けた。

押し開けられた扉の先には美しい緑が広がっていた。一瞬、外に出たのかと思ったが違った。部屋の奥一面が見渡す限りガラス窓になっており、緑生い茂る庭から燦々と光が注いでいる。壁面は白い大理石で作られていて、並べられた家具や調度品が嫌味なくセンスよくお金の匂いを放っている。

「あそこが僕の作業場でして」

ロボはU字の手で部屋の奥を指していた。私の住む六畳間が三つか四つ入りそうな意味不明の空間の先に二十センチほどの段差があり、その上にアンティーク調の白いデスクが置かれている。グランドピアノでも置くようなアイランド型の大理石の上、歴史の教科書に出てくる王族が使っていたような猫脚のデスクが置かれていて少々頭痛がしてきたが、アンティークデスクには全く似合わぬ無機質なデスクチェアが合わせられているのが気にかかった。

デスクに向かって歩くロボットを追うと、合わせられているデスクチェアに見覚えがあることに気がついた。昔担当していた小説家に頼まれて探したことがある人間工学のなんちゃらかんちゃらをどうにかしたとかいう、長く座っても疲れないことで有名な椅子だ。どうやら氷雨澤青という人間がちゃんと漫画を描いていたことは間違いなさそうだ。ほんの少しの安堵に短く息を吐く。

「作業に入っていただく前にひとつ、よろしいでしょうか」

鞄からファイルを取り出し、中から一枚の紙を取り出した。

「こちら機密保持の契約書です。今から氷雨澤さんに作業していただく原稿は当然世間に未発表のものですから、雑誌発売まで全て機密情報となります。契約書に目を通していただき、内容に問題がなければサインをお願いします」

「あ、はい」

差し出した契約書を、氷雨澤青はU字の手を殆どOにして受け取った。

なるほど、昭和ロボットに見えるが薄っぺらい紙一枚を掴めるくらいの性能はあるらしい。これなら「漫画を描ける」という話も嘘ではないだろう。

そんな査定のような目で見ていることなど露ほどにも気付かぬ様子の氷雨澤青は、半球状の顔の前に契約書を持っていった。おそらく内容をあらためているのだろう。まぁ紙一枚ということもあって、そんなに仰々しい内容が書かれたものではない。

出版社と漫画家アシスタント、お互いの権利を守るため必要最低限の契約があるだけた。「アシスタントには背景や小物などの作画をお願いする」「アシスタントは今回の件で知った情報を人に言ったり、SNSで発信したりしない」「出版社は今回の件で発生した報酬を何月何日にアシスタント指定の銀行口座に振り込む」とか、そういったものだ。

「はい、問題ありません」

半球状の顔の前から紙を離し、ガラス玉のような目でこちらを見つめた氷雨澤青に、私はにっこりと微笑んだ。

「では、こちらに日付とサインを」

契約書の空欄に名前を書くよう指示する。氷雨澤青は無機質な椅子に座り、アンティークデスクの上に置かれている宝石のようなペンスタンドから羽根ペンを取り出して、とても美しい字でサインしてくれた。

いや、羽根ペンて!と思ったが、あまりに色々ありすぎて羽根ペン如きではもう驚きも薄い。

「はい、確かに」

サインの入った契約書を受け取り、代わりに茶封筒を差し出した。

「ではこちらをお願いしますね。先生の指示や下書きはすでに原稿に入ってますから、指示通りにお願いします」

ニコニコと微笑みながら私は契約書を早々に鞄にしまった。

昭和ロボットはまるで爆弾処理でもするかのように慎重に、渡された封筒から原稿を取り出している。

「わぁっ…あぁ…」

封筒から原稿の頭三分の一が見えたあたりから、ロボットは感嘆の声を上げていた。

「鳴宮…麗子先生!」

バスケでもしたいんかと思うくらい溜めながら原稿に向かって息を吐いている。ロボットなので呼吸というよりは排気とかそういったものかもしれないが。

数十秒かけて封筒から原稿を取り出し、寝ている我が子を運ぶかのようにそっとデスクに置いたロボットは、U字の両手を原稿の前で合わせた。祈りを捧げるような姿だ。

「これって…運命ですかね」

紙の神を拝みながら声をかけてくるロボットに相槌を返したが、彼は私の声を聞いているのかいないのか、真っ直ぐ原稿を見つめたままガラスの瞳に雫のマークを映し出している。あれ何だ?泣きたいほど感動してるっていうことか?と思ったところで、すぐに視線を離した。

珍妙なロボットの一挙手一投足にどうしても意識を持っていかれるが「作戦」をつつがなく決行するには、なるべく早くこの場を立ち去るべきだ。

鞄を抱え直し、大理石の小島からそっと降りる。両開きの扉へと進路を決めたところで、ぐずぐずと鼻を啜るような音が聞こえて振り返った。

「僕、初めて読んだ漫画が鳴宮麗子先生の虹の窓だったんです…。こんな、こんな素敵な運命ってありますか」

鼻の無いロボットの啜り泣く声に、ふと大五郎の言葉が思い出された。

『子供の頃からの憧れが、新しい憧れを作る』

氷雨澤青がジュエルに持ち込みを繰り返すのは、鳴宮麗子の影響が大きいのかもしれない。

…そうだとしたらやはり、編集者である私がここに居続けるのはまずい。

これまで何人もの「変態作家」を見てきた私の編集者の勘みたいなものが警鐘を鳴らしている。「氷雨澤青の前に原稿を置いて撤退」これが最善手だと告げている。

原稿をそっと捲りながら、感嘆の声を上げ続けるロボットに聞こえるか聞こえないかの声で、そうですか、そうですよね、と相槌を打っておくが、どうにも耳に入っていない様子のロボットに、そっと背を向ける。

「では、私はこれで。締切は明日の朝八時ですが、六時には原稿取りに伺います」

それだけ言って扉に向かう。六畳間四つ分の無駄に広い空間を、足音を立てないように気をつけながら早足で歩く。

「ヴェ」

踏みつけられた牛蛙のような声が聞こえたが、知らんふりをして歩を進める。

「ちょちょちょ、ちょっと待ってください!」

ガタガタと金属が何かに当たるような音がして、慌てた声が背に掛かった。

…ちっ、ダメだったか。この部屋が無駄に広いせいで逃げ遅れた。

「こここ、これ!これ!」

ガシャガシャと金属の揺れる音に仕方なく立ち止まって振り返る。追いかけて来たロボットは、小さく震えながら手をU字だった手をLにして原稿を指さしていた。

「こ、ここ、麗子先生の作画が入ってなくて…ぼぼぼ、僕の見間違いじゃなければ…あの、僕がキャラクター作画することになってますけど?」

ロボットは原稿と自分の顔を交互に指差している。

…ちっ、突っ込まれたか。

悪態をつきたいところだが、私はにこりと微笑って見せる。

「それがどうかしましたか?」

「そ、それがって…ええ?」

ロボットはガラスの目の中に渦巻き模様を出しながら、視線をあちらこちらへと彷徨わせた。

まぁ、多方予想通りの反応ではある。

病室で受け取った鳴宮麗子の原稿にはアシスタントに対する指示が事細かに書いてあった。どのような背景を入れてほしいか、どんな雰囲気の小物を描いてほしいかなど、印刷に映らない水色鉛筆で指示が書かれていたが、決めの大ゴマには鉛筆でうっすらとキャラクターのラフが描いてあるだけで、アシスタントに対する指示は無かった。当然だ。本人が作画するつもりだったのだから指示なんかある訳ない。

だがその事実を氷雨澤青に知らせるのは悪手だと思った。

連載経験どころかアシスタント経験もない氷雨澤青に「超大御所漫画家、鳴宮麗子が本当は描きたくて描きたくてたまらなかったキメの大ゴマ、君に頼むね!」なんて言えば恐れ慄いてしまうだろう。最悪の場合、作画してもらえないことも十分考えられた。だが氷雨澤青以外にこの原稿を完成に導ける人間は、もはやいないのだ。

そこで私はキャラクター作画も鳴宮麗子の指示であるかのように偽装してしまおうと考えた。鳴宮麗子が他人にキャラクター作画をさせないことを知らない氷雨澤青なら、大先生の指示には従うと思った。

氷雨澤青はどう見たって気の弱い人間だ。

大先生からの指示が入った原稿さえ置いて立ち去ってしまえば、後でいくら文句を言われようが「編集である私では先生の意向はわかりかねます、とにかく先生の指示に従ってください」の一点張りでなんとかなると思ったし、編集者である私がそばにいれば「何とか作画をしない方法はありませんか」と泣きつかれるだろうと思った。だがそんなもんは無い。描いてもらう意外の選択肢は、絶対に無い。

鉛筆でうっすらと描かれたキャラクター横、作画指示を書き入れることを決めた。

だがあいにく私は印刷に映らない水色の鉛筆など持っていなかったし、漫画原稿に関しては素人もいいところだ。万が一にも私の書いた文字のせいで原稿がダメになる危険性を考え、キャラクターの横に小さな付箋をつけることにした。「アシスタントが完成原稿に仕上げる」と書いた付箋を。


―まぁ原稿に付箋がついてれば、そりゃ気になって見るわな。


原稿を渡してから姿を消すまでの時間を稼げるよう、なるべく小さな付箋をつけたつもりだったが、バレてしまったのなら仕方ない。別の作戦に切り替えるだけだ。この賭けに敗北は許されないのだから。

作戦変更を決めた私は、いまだぐるぐるとした渦巻き模様を瞳に出しているロボットに向かって微笑んだ。

「先生の御意向に何か不備でもありましたか?」

作戦は変更するが、あくまでもキャラクター作画は鳴宮麗子の指示とした方がいいだろう。編集からの指示より大先生の指示の方が従いやすいはずだ。だが氷雨澤青はドラム缶上の半球状の頭をブンブンと横に振っている。

「だだ、ダメですよ!麗子先生のキャラクターに命を吹き込めるのは、麗子先生だけです!ぼぼぼ、僕は他人の、それも麗子先生のキャラクターを作画するなんて、そんな無責任なことできませんっ!」

「…できません?」

私は鞄の中から契約書を取り出した。

「おかしいですね。氷雨澤さんは先程、こちらの内容を確認してサインしていただけたはずですが?」

「あ、いや、そうですけど、でもその契約書にも「背景や小物などの作画」って書いてあるじゃないですか」

「そうですよ」

私は契約書の一文を指差した。

「背景や小物「など」の作画です。当然キャラクター作画も含まれますよ?」

「ふふふ、含まれませんよぉ…」

「おや、じゃあ何が含まれると思っていたんですか?」

瞳に雫と渦巻きを交互に出しながら震えるロボットに向かって、私はにこりと微笑んだ。

「大丈夫です。私が徹底的にサポートいたしますから」

実際私は漫画編集者としては新人だ。漫画的サポートは全くと言っていいほど出来ないのだが「作家を椅子に縛り付ける」ことにおいて、私の右に出るものはいない。お望みとあらば徹底的にサポートして差し上げよう。

これまでの「大先生の意向には従いますよね威光作戦」から「恐怖の編集者密着二十四時!作画するまで帰りません作戦」に切り替えた私は、金魚のように口をぱかぱかと動かしているロボットの横を通り過ぎ、王族デスクを指でトントンと鳴らした。

「時間は待ってくれないんです。引き受けたからには誠心誠意お仕事してくださいね」

私の笑顔にロボットはますます震え上がったようだったが、関係ない。絶対に原稿を完成させる。その為なら別に手段は何でも構わない。

私は王族デスクの横に置いてあった、赤色のスツールにどっかりと腰を下ろした。

「さて、お仕事始めましょうか」

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