第9話 社畜と、気弱な天才。

「では、よろしくお願いします」

白煉瓦のどでかい家の玄関先、白亜の門柱前まで出た私は、厳重に梱包した茶封筒をバイク便の運転手に手渡した。

運転手は受け取った茶封筒を座席後ろのボックスに入れ、ハンコを押した発送票の控えを差し出してきた。

東京は大手町にある「ジュエル編集部」宛の発送票に目を落としていると、運転手は「それじゃ、毎度ありがとうございます」と言って不自然なほど白い歯を見せてからバイクに跨り走り去った。

四角い宅配ボックスのついたバイクは、どこまでも続く氷雨澤邸の壁横の道を颯爽と駆け抜けていった。

あっという間に小さくなっていくバイク便を見送っていると、アスファルトからの照り返しが目に刺さった。

眩し過ぎる朝の光にぎゅっと眉を寄せ、スーツのポケットからスマートフォンを取り出して電話をかけた。電話先はもちろんジュエル編集長である岸辺大五郎だ。

朝八時。氷雨澤青に締切だと伝えたが時間だが、本当の最終締切時間は昼の三時。

だがその締切は本当に本当のデッドラインなので、基本的に漫画家には教えない。締め切りに余裕があると思うと全然原稿に取り組まない作家を何人も見てきた編集者たちの処世術だ。まぁ氷雨澤青は真面目な性格をしていそうだが、今回は別の意味で「最終締切を教えておかなくて良かった」と思った。

「もしもし、どうなった?」

一度のコールで電話に出た大五郎に、編集部に原稿を送ったことを報告した。

完成した原稿は直接印刷所に送っても良かったのだが、時間に余裕もあるので、臨時アシスタントである氷雨澤青の仕事が雑誌掲載に耐えられるものなのか、編集長である大五郎に最終判断を仰ぐことにしたのだ。

鳴宮麗子の病室を出た時や氷雨澤青に仕事を頼んだ時など、適宜報告を行なっていたためか、電話先の大五郎は落ち着いた声をしていたが、一コールで電話に出たことからしても氷雨澤青の仕事がどのようなものだったかは気にしていることが窺えた。完成原稿がまもなく届くとはいえ、私は氷雨澤青の仕事について簡単に報告することにした。


結論から言えば、私は賭けに勝った。


氷雨澤青の画力というものは、やはり飛び抜けた才能だった。

ほとんど詐欺のような私の作戦にかかってしまった氷雨澤青は、鳴宮麗子の原稿に触る前に少し時間が欲しいと言ってきた。

「締め切りは朝の八時ですよ」と釘を刺したが、必ず締め切りまでには作画を完成させると言うので、私は彼の提案を飲んだ。

時間を与えられた氷雨澤青は、作業部屋を出て廊下を抜け、食堂を抜けては玄関ホールにある階段を登って大豪邸の二階へと向かった。蛇腹の足で器用に階段を登る姿に「あ、それ、いけんねや」という気持ちが芽生える。昭和白黒特撮に出てきそうな見た目に騙されるが、やはりこのロボットは高性能なモノなのだろう。

氷雨澤青が向かったのは二階の「漫画部屋」だった。

まぁ彼曰くの「漫画部屋」なわけで、氷雨澤邸の漫画部屋はもはや国立図書館の様相を呈していた。吹き抜けの大空間に壁一面天井付近までびっしり詰まった漫画本。ど田舎の土地余りすぎ漫画喫茶だってこんな取り揃えはないだろう。重要文化遺産として登録した方がいいのではないかと思いながら辺りを見回していると、銀ドラム缶は本棚の一角で足を止めていた。U字の手で器用に漫画本を取り出し、ガラス玉の瞳で表紙をじっと見つめている。

見つめていたのは鳴宮麗子の「虹色の窓」単行本第一巻だった。

表紙をしばらく見つめた後、ページを捲り、漫画を凝視する。しばらくするとまたページを捲り、凝視する。氷雨澤青はその作業をずっと繰り返した。

十分ほどかけて単行本一巻を見終わったかと思うと、二巻に手を伸ばし、同じように凝視とページめくりを繰り返す。「え?これをずっとやるつもり?」そう思って本棚を見た。

虹色の窓の単行本は全部で二十四巻ある。こんな調子で凝視とページめくりを繰り返していたら、あっという間に時間が無くなってしまう。

止めるよう声をかけようと思ったが、私は短く息を吸い込んだ。単行本を凝視する横顔に鬼気迫るものを感じたからだ。

私はこの横顔を何度も見たことがある。

天才作家たちが机に向かっている時の横顔だ。

数々の変態天才作家の横顔と、目の前のロボットの横顔が、なんだか重なって見えた。

これまで担当してきた変態天才たちは、普段はいくら飄々としていても作品を作る横顔だけは鬼気迫るものを持っていた。どんな声をかけたとしても耳に入らないような気迫と集中力。

普段からそうやって仕事してくれればどれだけいいかと思ったが、そんな軽口すら叩けないような真摯な横顔を、この目で何度も見てきた。そうやって出来上がる素晴らしいとしかいえない原稿も、何度も何度も受け取った。

そんな記憶を思い起こし、腕時計を見た。昼の三時を過ぎている。

氷雨澤青に伝えた締切まであと十七時間。最終デッドラインまで二十四時間。

氷雨澤青は「時間内に作画を完成させる」と約束してここに来た。私はそれを了承した。キメの大ゴマ含む二ページのキャラクター作画と、背景や小物の作画。彼の作画速度がどれくらいのものなのかはわからないが、月に一度新作を持ってくるだけの速さがあることは間違いない。焦る気持ちを抑えて半球状の横顔を見つめ続けた。


結局、氷雨澤青が漫画部屋を出たのは夕飯時もとうに過ぎた午後十時だった。約七時間は漫画を見つめていた計算だ。

漫画部屋を出て階段を降りるドラム缶について歩く。

信頼している作家ならこの時間を使って飲み物や軽食の準備くらいはしただろうが、私は氷雨澤青について知らなすぎるし、そもそもロボットの食事事情についてなど知識が皆無だ。

黙って彼の後ろについていき、作業部屋の王族デスクについた銀ドラム缶に対して、付かず離れずの位置にいることにした。

氷雨澤青はデスクの上、鳴宮麗子の原稿に対して深く頭を下げた。初詣かのように念入りにU字の手を擦り合わせ、何かをぶつぶつ呟いたあと、ゆっくりと頭を上げてペンを握った。

そこからの彼の作画はまさに「見事なもの」としか言いようがなかった。

彼が最初に取り掛かったのは背景だった。ペンを握ってから数分後、銀色の左手が上がったのを見て、私はデスクの横へと歩いていった。

「何か質問ですか」

そう言いかけて、一瞬で言葉を失った。

原稿にはすでに背景が入っていたのだ。

学校の渡り廊下を煽りの角度で見る構図の背景。一般的に建物や背景は角度がつけばつくほど描くのは難しいとされている。状況を説明するのに必要な情報が増えるからだ。だというのに、目の前にある原稿はどう見ても完璧な仕上がりだった。

「こ、こんな感じで大丈夫でしょうか…?」

原稿を見る私を、恐る恐る見上げるドラム缶。ガラスの瞳にはてなマークが表示されているが、こんなに自信の無さそうな態度の意味がわからない。


―当たりだ。私は確実に今、大当たりの馬券を握ってる。


興奮する気持ちを抑え、描かれた背景に本当に問題がないかの確認をする。

すると、ふと疑問が浮かんだ。

描かれた背景は文句のつけようのないクオリティなのだが、先日見た氷雨澤青の作画ほどの迫力がないように見えた。

「氷雨澤さん」

「ひゃい!」

私が声を発すると氷雨澤青は震え、握っていたペン軸がドラム缶に当たっては「ゴーン」という音を響かせた。

そんなにビビらなくても…とは思ったが、まぁ私のしてきたことを考えると仕方がないか。

「失礼ですけど、先日編集部で見せていただいた作画の方が背景も圧倒的に美しかったと思うのですが、手抜きました?」

時間もないし、背景としては文句のつけようがないのだからリテイクを出すつもりはないが、気になることは気になるままにしておけない。

私の視線に銀ドラム缶は頭を横に振った。

「こ、これは、麗子先生の原稿ですから」

そう言われてハッとした。

原稿を持ったまま作業部屋を出る。長い廊下を駆け抜けて食堂を通り抜けては玄関ホールに向かい、二階へと繋がる階段を一段飛ばしに駆け上って漫画部屋へと入った。

先程まで銀ドラム缶がいた場所に駆け寄って、本棚に並んでいる虹色の窓の単行本から、最終巻である二十四巻を引き抜きページをめくった。

そこでようやく気がついた。

これは「氷雨澤青の描いた背景」ではなく「鳴宮麗子のアシスタントが描いた背景」なのだと。

線の細さ、強弱の付け方、キャラクターを引き立たせるための光の処理の仕方など、ありとあらゆる技術が先日見た氷雨澤青のものとは違う。

これは、今まさに氷雨澤青が描いたこの背景は、鳴宮麗子の専属アシスタントが描いたものにしか見えなかった。


―万馬券だ。いや、もしかしたら十年に一度出るかどうかの百万馬券かもしれない。


氷雨澤青という人間の才能に震えながら、虹の窓の単行本を握って漫画部屋を出た。階段を降りて玄関ホールを抜けて食堂から廊下を抜けて…遠いな作業部屋!

呼吸荒く作業部屋に戻ると、デスクから不安そうに私を見つめるドラム缶がいた。

「問題ありません。次の作業に移ってください」

と伝えると、氷雨澤青は胸を撫で下ろすように(実際はツルツルの円柱なので胸と呼べるところがあるかどうかは疑問だが)ほっと息をついた。

その後も作業は順調過ぎるほど順調に進んだ。

作画のスピード、仕上がりの美しさ、鳴宮麗子アシスタントとしての再現性。どれをとっても一級品であり文句の付けようがなかった。

(もしかして、ロボットになっているのはこの作画スピードを担保するため?)と思ったが聞くのはやめた。下手なことを言って臍を曲げられては困る。沈黙は金、雄弁は銀というやつだ。

深夜零時を回った頃、Gペンが立てるカリカリという音が止まった。高級住宅街のど真ん中、静か過ぎるほど静かな空間で止まった音は、違和感となって私の耳に届いた。

王族デスクに目をやると、銀ドラム缶の動きがぴたりと止まっていた。

トーンを貼っているわけでも、何か私にわからない作業をしているといった様子もない。半円の頭をガックリと下げて原稿に向き合ってはいるようだが、ぴくりとも動いていない。

故障か?と思った時、どこからともなく隙間風が通り抜けるようなヒューヒューという微かな音が聞こえてきた。

こんな豪奢な家に隙間風?そう思ってよくよく音の出所を探すと、音は銀ドラム缶から放たれていた。

「氷雨澤さん?」

声をかけてみるが応答はない。ヒューヒューと微かな音が繰り返されるだけだ。

「どうかしましたか?」

作画に入ってまだ二時間程度だが、思えば昼の三時から作業をさせてきたわけだ。九時間ぶっ続けで動かせば、家電だって何かしら不具合が起こってもおかしくはない。

「私に出来ること、何かありますか?」

頭を下げたままヒューヒューと音を放つドラム缶に声をかけてみる。背中をバシッと叩いてみようかと思ったが、流石にやめた。最近の精密機器は叩いてどうこうなるもんでもないし、そもそも見た目は完全に昭和のロボットとはいえ氷雨澤青本人に手を挙げたとなれば大問題だ。

「何かあったなら、言ってもらわないとわかりません」

強めの口調で押してみる。

すると氷雨澤青は蛇腹の腕を動かして、私を指差してきた。え、なに?私何かした?と思って見ていると、ヒューヒューと繰り返される音の隙間を縫うように

「そ、その鞄」

との声が聞こえた。

氷雨澤青はどうやら私ではなく、私が抱えている鞄を指差しているらしい。

「鞄がどうかしましたか」

繰り返されるヒューヒュー音は徐々に大きくなるが、氷雨澤青からの言葉はない。

私は思い切って持っていた鞄を半円状の顔の前に差し出してみた。すると昭和ロボットはUの字の手をうまく使って鞄を受け取り、そのまま顔を突っ込んだ。

ロボットの奇妙すぎる行動に私は一歩後退りをした。

普段なら目の前の人間が奇妙であればあるほど心落ち着く私だが、流石に銀ドラム缶が半球状の顔らしき部分を私の鞄に突っ込んでいる姿には少々の恐怖を覚えた。

「氷雨澤さん?」

鞄の中には特に珍しいものはないはずだ。ノートパソコンや書類がいくつか入っているだけ。

もしかして先ほどの契約書を奪おうとしているのかと思ったが、そうだとしたら顔を突っ込む必要はないだろう。

ヒューヒューと繰り返される音だけが響く奇妙な空間に立ち尽くしていると、音は少しずつ小さくなり、フーフーという穏やかなものに変わり、やがて聞こえなくなった。

「た、助かりました…」

昭和ロボットはそう言って、鞄から顔を出した。

「す、すみません、き、緊張しちゃって」

放たれた言葉の意味がわからずにいると、ロボットは蛇腹の腕を伸ばして私に鞄を返してきた。

「ぼ、僕、その、過呼吸持ちで…」

申し訳なさそうに頭を下げるロボットを前に、私は「かこきゅう」の意味が一瞬理解できなかった。

か、こ、きゅう?

おそらく「過呼吸」のことを言ったのだろうと理解したのは、差し出された鞄を受け取って数秒後のことだった。

不安や緊張で胸が苦しくなり、息を吸っても吸っても治らず、手足の痺れや痙攣を起こし、最悪の場合意識を失って倒れることもある「過呼吸」。民間療法として紙袋などを口にあて呼吸を繰り返すというものがあるが、周りに袋状のものがなかったため私の鞄を使ったということだろうか。

そこまで考えて、頭に浮かぶことは一つだ。

―ロボットなのに?

いくら昭和の見た目とはいえ、性能は高そうなロボットが…過呼吸?何のためにそんな機能搭載してんの?そう言いたかったがグッと堪えた。ロボット差別をしているように聞こえて臍を曲げられたら困るし、過呼吸持ちということは不安や緊張に弱いということだ。下手なことを言って倒れられでもしたら原稿が落ちてしまう。

「大丈夫ですか?」

一応心配しているというような声をかけた。

ロボットは「お陰様で」とだけ言ってデスク上に転がっていたGペンを握った。

「…麗子先生のキャラクターに命を吹き込めるのは、麗子先生だけです」

ペンを握るロボットの手はガタガタと震えていた。言うことを聞かない右手を嗜めるように左手で右手を掴んだが、それでも震えは止まっていなかった。

震えるペンの先を見ると、キャラクター作画の残る原稿用紙が目に入った。鳴宮麗子がざっと描いたであろうラフがあるだけの決めの大ゴマ。その作画をするという緊張から氷雨澤青は過呼吸になったのかもしれない。

「でも今、麗子先生は病床に伏せっていらっしゃる。代わりができるのは僕だけ…」

病床に伏せるというには、あまり似つかわしくないギャルなりきり金髪おばあちゃんが思い起こされたが黙っておいた。鳴宮麗子と面識がない氷雨澤青の脳内にはおそらく薄幸で病弱な美女が浮かんでいることだろう。コンコンと咳き込んでは血でも吐いている鳴宮麗子に代わって「虹の窓」の作画をする。きっとそういうドラマを想い描いている。実際は夜食の卵にあたった食中毒だが。

「やらなくちゃ、これまで僕を助けてきてくれたのは麗子先生だから。今度は僕がお助けしなくちゃ」

四角い口で何度も息を吸い込んでは吐き出し、握ったペン先を原稿へと近づけていく。

インクを含んだペンが原稿に触れそうになる。その瞬間ペン先がブルブルと震え始め、氷雨澤青は慌てて原稿からペンを離した。口元からヒューヒューという音が漏れ聞こえてくる。

まずい。なんでそんな機能があるかわからないが、このロボットが過呼吸で倒れて壊れでもしたら原稿は終わりだ。

「あの、よかったらこちら見ますか?」

少し気を紛らわせたほうがいい、そう判断した私は二階から持ってきた虹色の窓の単行本を見せた。これ以上ないキャラクター作画の参考資料だが、氷雨澤青は半球状の頭を横に振った。

「僕は、麗子先生の真似がしたいわけではないので」

その言葉には疑問が浮かぶ。先ほど背景を描いたときは「麗子先生の原稿だから」と専属アシスタントが描いたかのように作画したのに、キャラクター作画をするというここにきて、「漫画家氷雨澤青」を世に知らしめたくなったのだろうか?

「ですが麗子先生が描いたようにして頂かないと、何万人というジュエルの読者が待っているんですから」

言葉で釘を刺してみると、蛇腹の腕がガクガクと揺れた。

「はい。だから真似じゃ絶対ダメなんです。麗子先生にならなくちゃいけないんです。最新のタッチをただ真似したって麗子先生にはなれない。先生が歩んだ軌跡を辿らなくちゃ、あぁ、あっ、あっ、先生のデビュー作から見返す時間はありませんか」

ガタガタと震えながら私に視線を送ってくるロボットに向かって、私は首を横に振った。「虹色の窓」二十四巻の確認に七時間かけた男が、昭和から活躍してきた鳴宮麗子のデビュー作から見返しなんかしたら絶対に締切に間に合わない。それは氷雨澤自身もわかっているのだろう、そうですよね…とだけ呟いて下を向いた。

かといって、このままだと作画が一向に始まらない可能性が高い。

何かないだろうか。この神の画力を持つくせに妙に気の弱い天才に作画させる方法は…

…天才?

そう思って気がついた。

目の前のこの男も「変な天才」に違いないということに。

これまで「偏屈」とか「頑固」とか「奇妙」な天才ばかりで「気の弱い天才」というものに当たってこなかったから気付かなかったが、なんの因果かこの氷雨澤青という男も「変態的天才」に違いないのだ。

目の前の人間が変態的天才なら、私にはこの男に作品を描かせるための突破口が見えるはずだ。

「…ぴ」

ほとんど無意識に、そう発していた。

「ぴですよ、描かなくちゃいけないのは、いえ、描きたいのは世界一カッコいいぴなんですよ」

私の言葉の意味がわからなかったのだろう、キョトンとした瞳で見上げるロボットに、私はグッと顔を近づけた。

「鳴宮麗子先生は世界一カッコいいぴを読者に届けようと原稿描いていらっしゃいました」

思った以上の大きな声が出た。そのせいで目の前のガラスの瞳に渦巻き模様が表示されたが、飛び出した言葉を止めることはできない。

「本来であればこの決めゴマの一番カッコいいぴこそ、麗子先生ご自分で描きたかったでしょう。ですが病魔に蝕まれた先生は、全てのぴが誰の目にも届かなくなるよりはと原稿を託してくれました」

どうしてそう思うのかはわからないが、漫画を愛し漫画家を敬愛する気弱な天才には、お世辞や虚言ではなく、原稿に込められた愛を説いたほうがいいという気がしていた。

「鳴宮麗子先生は半世紀以上少女漫画を描いてきた大天才であり、自分の漫画を我が子のように深く愛していらっしゃる方です。そんな麗子先生は病室で私におっしゃいました。「私の漫画を殺さないで」と」

どでかい病室でギャル語を放っていた鳴宮麗子は、最後のその言葉だけは「私」と名乗った。つまり「私の漫画を殺さないで」は漫画家鳴宮麗子の強い意志だ。

その意思を、世界一カッコいいぴを読者に届けたいと病院に原稿を持ち込んだ鳴宮麗子の執念を、納得のいく作画ができずに苦しみ断腸の思いで託した我が子を「殺さないで」と願う大漫画家の作品と読者に対する大きな愛を、目の前の気弱な天才に伝えることが私の役目だと思った。

ぐるぐる模様の渦巻きを瞳に映しているロボットに向かい、拳を強く握り締める。

「決めの大ゴマは、そりゃあ麗子先生だって気合を入れて描くでしょう。でも今の氷雨澤さんみたいに、震えながら怖がって描くなんてことは絶対に無い。そんなものは鳴宮麗子じゃない。どうやったらぴがカッコよく見えるか、読者のみんなの胸を揺らすことができるか、ただそれだけを考えて真摯に作画をするはずです」

そう言った私は…後になって思えばなぜそうしたのかわからないけれど…デスク横のスツールに片足を乗せ、まるで遠いところにある星を目指すかのように天井を高らかに指差していた。

「おめぇが鳴宮麗子になって作画するっちゅーなら、気合い入れて歯ぁ食いしばって、最高にカッコいいぴを描き上げることだけ考んかい!」

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