第6話 壊れた心と、強情な天才。

「私の心は壊れているのかもしれない」

氷雨澤青の一件から、私はそんなことを思うようになっていた。


私はいつだって真摯に仕事をしてきたつもりだ。結果として天才小説家たちに新作を書かせてはヒット作を世に送り出してきた。

けれど私がやったことといえば、偏屈な天才の無茶な要望を全て叶えては「これだけやったのに新作書けないとか言いませんよね?」と微笑んだり、奔放な天才の行きつけの店を全て押さえ「どこにも逃げ場はありません、書くまでこの世の果てまで追いかけます」と微笑んだり、奇妙な天才が世界一美味しいトマトを食べないと書けないというので、全世界から多様なトマトを送りつけては「原稿、まだですか」と微笑んだ。

元々人気の天才作家たちだ、椅子に縛りつける事さえ出来ればほとんど自動的に名作が生まれてくる。だから私の仕事は「作家に作品を書かせる」ということであり、そのための手段なら幾つでも持っているし、人の心を持っていては使えないような非人道的手段も躊躇いなく使ってきた。


その結果私の心は、自分ですら気付かぬうちに壊れてしまったのかもしれない。


そんなことを考えて二日が経った。

この二日、編集部に直接作品を持ってくる人間はいなかった。

デジタルで漫画を描くことが出来、それをそのままSNSにアップすれば世界中の人に見てもらえる可能性がある現代において「アナログ原稿」を描く人間も「編集部に持ち込みに来る」人間もとてつもなく希少なもの。氷雨澤青はその希少な人間のひとりだったのだ。

 大五郎は最初からそう言っていた。その上で希少で大切な人間の対応を私に任せてくれた。それなのに私は漫画家の夢をすり潰すようなことを言ったのだ。


ジュエル編集部に配属されて三日目、作品倉庫に保管されているすべての漫画を読み終わって倉庫を出た。「これは面白いかも」と思うものも「これはちょっとな」と思うものもあったが、ここにあるすべての漫画がジュエルに載りたくて描かれたものだと思うと、やはり私が氷雨澤青に放った言葉は適切ではなかったと思い知らされる。

鉛を飲み込んだような気持ちを抱えたまま、ジュエル編集部へと戻った。

編集部には今日も大五郎と私しかいない。今月号の漫画締め切りがいよいよ明日に迫り、大五郎はブルーライトカット用のメガネをかけた難しい顔でパソコンを見つめていた。

小さく「戻りました」とだけ放って自分のデスクに向かう。「おかえり」との声が聞こえたが、大五郎の視線はパソコンに向かったままだった。

自分のデスクへと戻った私は持ち込み者ファイルを開いた。ここ二日、作品倉庫で確認した漫画と、それを描いた漫画家の情報を照らし合わせながら今後営業をかける漫画家を順にリストアップしていく。

『過去持ち込みして来た人間に、作品の進捗を伺う』

今は漫画家が編集部に漫画を持ってくるのを待つのではなく、漫画を描いてもらえるよう営業をかける時代へと変わっているのだと知った。

黙々と営業リストを作っていると、ファイルは「は行」へと差し掛かった。氷雨澤青の名前に目が止まる。

長い手足に青白い顔。腰を折ってペコペコと頭を下げる姿はどう見たってコミュニケーションが得意そうな出立ちじゃなかったが、それでも毎月漫画を描いては編集部にやってくる若い男。彼にもどうしてもジュエルに載りたい理由があったのだろうと思うと胸が痛む。

ファイルに記載されている氷雨澤の名前の横には、過去持ち込まれた作品タイトルの横の欄に「編集部からのアドバイス」が書かれている。

過去の担当者が本人にどう伝えたかまでは資料から読み取ることができなかったが、記載されている文言はあまり「アドバイス」とは呼べないようなものだった。「絵は上手いけど話が…」「他先生のアシスタントに就けばあるいは…」「プロアシ転向を薦める」先日私が言ったことと同じような言葉が並んでいる。

だが唯一、半年前氷雨澤青が最初に持ち込みに来た時の欄だけ様子が違った。「宝石ちゃん」と一言書かれているだけでほとんど暗号文みたいだが、独特な丸文字で書かれたその一行を見て、私はふと顔を上げた。

離小島の編集長デスクに座る大五郎に視線をやる。どうして彼は、氷雨澤青の担当を私に任せたのだろうか。

信じちゃいなかったと言っていたが、私に原稿取りの鬼悪魔という話があるということを大五郎は知っていた。今の私が心無い人間になっている可能性があると知っていた、ということだ。

そんな私を自分の元に引き入れて、大事な宝石である氷雨澤青の担当につけようとした。つまり、ここに載っているアドバイスとは違う何かを、私ならできると思ったのじゃないだろうか。

ジュエル編集部に来た初日、大五郎は運命信者のような話をした後「だから、アナタに頼むんだ」と言った。大五郎の中には、私と氷雨澤青の邂逅に際して、何かしらの勝算みたいなものがあったのじゃないだろうか。


そんなことを考えてもう一度ファイルに目を落とした。載っている連絡先に思い切って電話をかけてみようか。だが彼の夢を潰しておいて、私は彼に何を言うというのだろう。言い訳じみた言葉以外何も出てこない気がする。そもそも電話をかけても、私からだと分かれば出てもらえないんじゃないか。

そんなことを考えていると、スマートフォンが勢い良く鳴った。

私のものではなく、ファンシー動物園にいる編集長岸辺大五郎のスマホがけたたましく鳴っている。

その光景を見て私は「珍しいな」と思った。

この令和の世でも大五郎はいちいち人によって着信音を変えているマメな人間だ。流れる曲はポップサウンドだったり柔らかな水のせせらぎだったりと様々だが、今彼のスマホからは「着信音」としか表現しようのないデフォルトの音が流れている。

「もしもし、はい。…え?ええ…」

電話に出た大五郎の声も、いつもより焦りを含んでいる気がした。

電話先の話をしばらく聞いた後、大五郎はブルーライトカット眼鏡を外し、デスクに肘をついて頭を抱えた。

「状況はわかったわ。悪いけど少し時間を頂戴。そうね、十分後には連絡するからアナタはそこで待機してて。ええ、それじゃ」

そう言って電話を切った大五郎の顔からは、明らかに生気が無くなっていた。

「大丈夫ですか?」

声をかけてみると、長いため息の後にポツリと

「集団食中毒だって」

と放たれた。

その一言で大方の察しがついた。

連載作家の誰かが集団で食中毒を起こし、原稿の進捗に大幅な遅れ、もしくは休載せざるをえないほどの状況になっているということだろう。

だがそうだとしたら、編集長である大五郎がデスクに肘をついてまで頭を抱える様子に説明がつかない。

週刊誌や月刊誌には大抵「代理原稿」というものがあるからだ。作家の急病などで雑誌に穴が開いた際に掲載する、いわば二軍のエースみたいな作品だ。

それこそ私が担当している「新人発掘枠」にも代理原稿として預かっている作品が幾つかある。連載作家陣の急な休みは、新人にとってはまたと無いチャンスだ。倉庫に眠る代理原稿たちを思い浮かべながら、どのくらいの穴を埋めなければならないのかを確認するため、大五郎のデスク横へと向かった。

「どなたが食中毒なんですか?」

鳴宮麗子なりみやれいこ先生」

その一言で、なぜこんなに重苦しい空気なのかということを理解した。

鳴宮麗子は月刊ジュエルを創刊当初から支えた超大ベテランの漫画家だ。別部署にいた私ですら会社主催のパーティに来賓として招かれたお姿を何度もお見かけしたことがある。仕立てのよい着物を着てご登壇なさる姿は品の良いお婆様といったところで、若々しく見えるが確かお歳は六十代後半、もう七十歳に近かったはずだ。

ご年齢のこともあってか現在連載は持たれていないが、先生の代表作のひとつである「虹色の窓」が実写映画化される事になり、それに合わせて今月号に読切として「虹色の窓」の正統続編を掲載することが決まっていた。

巻頭カラーで、大々的に映画宣伝の煽りをつけて、五十ページに渡る掲載予定が組まれている。そんな漫画原稿が落ちるとなればジュエルへの損害は計りれない。新人の代理原稿など幾つ載ろうが「レジェンド漫画家鳴宮麗子の代表作の正統続編」の穴は到底埋められるはずもない。

「待ってください」

自分の声が震えているのがわかったが、私は恐る恐る言葉を続けた。

「確か…表紙の入稿は終わってますよね」

私の言葉に大五郎は力なく頷く。絶望という二文字が頭に浮かんだ。

紙媒体の雑誌は、白黒の漫画原稿とは別にカラー原稿のスケジュールが組まれている。特に雑誌の表紙としても使われるカラー原稿は、漫画原稿より二、三週間は先行して入稿していただくのが通例だ。表紙には載せるべき情報が多くあるので、原稿をいただいてからデザイナーの仕事が複数入るためだ。

当然鳴宮麗子からも既にカラー原稿を入稿してもらっており、デザイナーの仕事も終えたその原稿は今、印刷所にある。

『祝・映画化記念!虹色の窓正統続編ドーンと掲載五十ページ!!』という煽りのついた表紙はすでに印刷にかけられている。にもかかわらず肝心の漫画原稿が届かないという話なのだ。

鳴宮麗子の漫画原稿が届かないとなれば、当然表紙は刷り直しだし、謝罪文の告知が必要で、他の作家さんに無理なカラー原稿をお願いした上でデザイナーに徹夜で仕事をしてもらう…など、とにかく莫大な費用とマンパワーが必要になる。にもかかわらず雑誌の売れ行きは見込めなくなるのだ。地獄と言っていい。昨今の雑誌販売事情を鑑みると、ジュエルは一気に廃刊に追い込まれる可能性だってある。

「し、進捗は?」

一縷の望みにかけて私は声を発した。

「原稿の進捗はどのくらいだったんですか」

漫画原稿の締切日は明日だ。余裕を持って描かれている先生ならすでに完成に近い状態の可能性はある。けれど大五郎は青い顔の前で指を組んでいた。

「そうね…背景入れや小物の描き入れが数枚残ってるらしいけど、麗子先生の作画は、ほぼ終わってるらしいわ」

「え?じゃあ」

何も問題も無いじゃないか、と言おうとしたが、大五郎は首を横に振る。

「普通の先生ならなんとかなったかもしれない。だけど麗子先生のところってことが問題なのよ…」

深く吐き出された大五郎のため息に、私の背中も嫌に冷えていった。

パーティで会った鳴宮麗子は穏やかで柔らかな印象の人物だったが、一体何が問題なのだろう。

「麗子先生はね、その、職人なの」

吐き出すようにポツポツと話す大五郎の言葉に耳を傾ける。

「他人に原稿を触られるのが大嫌いな先生でね、専属のアシスタントさんが二人ほどいらっしゃるけど、そのお二人にも背景や小物を任せるだけで、キャラクターには指一本触れさせないわ」

なるほど、昭和時代からの大物漫画家にありがちな話だと思った。だが鳴宮麗子の作品が落ちることは、ジュエルにとって即死級の大ピンチだ。多少無理を言ってでも原稿をいただく以外に道はない。

「担当編集は?担当はどうすると言ってるんですか」

「麗子先生の担当編集は白石っていう若手の子なんだけど、先生と一緒に食中毒で入院してるそうで、えらく参ってるみたい」

編集が自分の体調で参ってる場合やないやろ!と拳を出したい気持ちをグッと堪えた。まぁ映画公開を控えた大先生の原稿が完成間近となれば、担当が先生のそばにいるのはある種当然のこと。おそらく白石という若手編集も先生の近くで色々とサポートをする中、運悪く共に食中毒になってしまったということだろう。思えば先ほどの着信音がデフォルトのものだったのは、入院患者となった白石が病院の受付にある公衆電話から掛けてきたからか。

「…あの、編集長」

青い顔の大五郎に少々酷だとは思ったが、私は今一番聞かなければならないことを聞くことにした。

「先ほどのお話ですと、鳴宮麗子先生の作画は「ほぼ」終わってらっしゃるということでしたが」

「ええ、そうよ」

大五郎の顔色はもはや青を通り越して水色になっていた。このまま血の気が引いていけばいずれ真っ白に燃え尽きて、リングコーナーで灰となってしまうかもしれない。

「ほぼ終わっている、ということは…もう少しだけ先生の作画が残っていたということですよね」

「…あと二枚、ですって」

小さな声が嫌に頭に響く。大先生の「不可侵のキャラクター作画」があと二枚…。

「しかもキメの大ゴマの作画がまだだったらしいの。そんなの絶対他人に触らせてくれないわ」

そう言いながらも大五郎はぬいぐるみの隙間から分厚いファイルを取り出し、ページをペラペラとめくり始めた。

「絵の上手い先生に何人か心当たりはあるけど、作画を引き受けてくれるとは思えないのよ。みんな麗子先生のこだわりを知ってるから下手に手を出して恨まれたく無いだろうし、そもそもアナログ作画未経験の先生もいるし…それ以前に、麗子先生が未完成の原稿を渡してくれるとも思えないわ。あぁ頭が痛い」

眉根を寄せる大五郎を見て、私の脳裏に一つ確信めいたものが浮かんだ。


―鳴宮麗子、専属アシスタントにも作画させないこだわりを持つ、大ベテランの人気漫画家…


「つまり、鳴宮麗子先生は「強情な天才」ということですか?」

尋ねると、大五郎はファイルに目を落としたまま小さく息を吐いた。

「言い方は悪いけど、そういう事になるわね」

「じゃあ私の出番ですね」

そう言うと、大五郎が驚いたようにこちらを見上げてきた。丸く見開かれたその瞳に出来るだけ真っ直ぐ視線を返す。

鳴宮麗子が「強情な天才」だというのなら、変態的天才の手綱を握り続けてきた私なら、何か突破口を見つけることが出来るかもしれない。

「鳴宮先生の原稿取り、私に行かせていただけないでしょうか」

くっきりとした綺麗な二重瞼をぱちぱちと瞬かせる大五郎の瞳をじっと見つめた。


―私の心は壊れてしまっている。だからこそ今、目の前の友と雑誌を守り抜く仕事が出来るはずだ。


冷徹無慈悲な原稿取りの鬼悪魔。それでいい、悪魔の仕事で雑誌と大五郎が守れるなら、大切なものが守れるなら、鬼でも悪魔でも何と言われても構わない。

「お願いします」

そう言って深く頭を下げた。

「こちらでは新人編集ですが、旧部署では読者の楽しみを守るため様々手を尽くしてきました。先生の要望と原稿の状況を把握し、読者の皆様の楽しみを守れるよう最大限尽力します」

悪友の助けになりたいと思いジュエル編集部にやってきて三日。私のやったことといえば一人の漫画家の夢をすり潰したことだけ。

だからこそ、

心の壊れた私で役に立てるのなら、鬼悪魔の私が役に立つことがあるのなら、どんなことだって出来る気がした。

頭を下げ続けていると、息を深く吸い込む音が聞こえた。続けて息を強く吐き出す音が聞こえたかと思うと、

「…もしもし」

という声が聞こえてきた。

腰を折り曲げたまま顔だけ上げると、大五郎がスマホに向かって話しているところだった。

「ウチから一人編集者を出すわ。他部署から来た新人だけど、先生の手綱を握ることは得意でね。ええ、すぐ向かわせるからできるだけ詳しく状況を話してあげて。頼んだわ」

そういって大五郎は、スマホを私に向かって差し出した。

「茜、白石に繋がってるわ。話を聞き次第すぐに麗子先生のところに向かって」

「はい、ありがとうございます」

私は背を正し、スマホを受け取った。


編集長のようで悪友のような不思議な表情をした大五郎に見つめられながら、私は白石という若手編集と話をした。

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