第5話 夢と憧れと、生きる意味。

「こんのおバカ!」

ジュエル編集部のファンシー動物園。

ピンクの椅子に深く座る大五郎は、私の報告を受けて、高い声をもう一段高くした。

「アンタ氷雨澤さんに本当にそんなこと言ったの?イラストレーターに転向しろって」

空っぽの編集部に響く声に、私はゆっくり頷いた。

「あの人に漫画家の才能はありません。才能が無いのに漫画家という道に拘って人生終わるより、イラストレーターになって大成する未来を選んだ方がいいんじゃないですか?うちの会社には優秀なイラストレーターを募集している部署も多くあるわけですし」

思ったことをそのまま伝えた。

別に氷雨澤青がジュエルで連載を持たなくても、うちの会社にはファンタジー小説を扱っている部署や近未来SF小説を扱っているがある。小説の世界観を完璧に表現してくれるイラストレーターはどの部署でも万年不足気味だ。

そういった部署にとってみれば氷雨澤青は喉から手が出るほど欲しい人材だろうし、会社全体として見ても「うだつの上がらない漫画家」より「最高峰のイラストレーター」の方が圧倒的に利がある。彼の才能はそちらで活かすべきだ、そう主張すると大五郎の深いため息が聞こえた。

「アンタ、あたしの言ったこと全然理解してないじゃない」

何かを諦めるかのようなその深い息に、なんだか罪悪感のようなものが胸に湧いたが、私はとくに間違ったアドバイスをしたつもりはなかった。

そんな私の心を見透かしてか短く息を吐き出した大五郎は、ジャケットの胸ポケットから白いハンカチを取り出してそっと目の端に当てた。

「噂は本当だったってことね…」

出てもいない涙を拭くような仕草をしながら、大五郎は私に視線を送ってきた。

「ねぇ茜、覚えてる?」

ハンカチを握る大五郎が何を言いたいのか理解ができなかった。

「なんのことですか」

思いをそのまま伝えると、大五郎は深く息を吸い込んでは短く吐き出し、ハンカチを綺麗に折り直して胸ポケットに入れた。

「あのね茜、氷雨澤さんは数ある発表先の中から「ジュエルに載りたい」と思って毎月原稿を仕上げてくれてる漫画家さんなの。それをイラストレーターに転向しろだなんて」

「でも、才能の無い人間を漫画に縛り付けることのほうが酷じゃありませんか?」

大五郎はジュエル編集長だ。彼がジュエルの利益を追求したいのはわかる。だが会社全体の利益を考える目を持った方がいいのでは?

そんなことを言おうと思い切り口を開いた私に、大五郎はゆっくりと首を横に振った。

「利益の話じゃないの」

心を見透かされ、言葉が喉に詰まった。

「夢と憧れの話、したでしょ?」

大五郎の声はとても穏やかなものに変わった。

「憧れの作家さんと一緒の雑誌に乗りたいっていう夢を、潰していい権利があなたにあるかしら」

穏やかで柔らかな声が、私の胸の奥を突き刺す。

「ウチに漫画を持ってきてくれるってことは、このジュエルに夢と憧れを持ってくれてるってことなの。ジュエル編集部の人間というのは「その夢がどうしたら叶うのか」を共に考える存在でなくちゃならない。漫画家にとって最高の味方でいなくちゃいけない。なのにあなたは漫画家の夢と憧れを潰すような言葉を放った。それは編集として絶対やっちゃいけない事だわ」

普段の語尾にハートマークがつく喋り方と違い、穏やかながらどこか淡々と話す大五郎の言葉が胸の奥をじわりじわりと刺していく。

「夢と憧れは、漫画を描く意味を、ひいては「生きる意味」をくれる。アナタは一人の漫画家の生きる意味を奪うような言葉を放ったわ。そしてなにより「漫画家の生きる意味を奪った」という事実に気付く事ができなかった」

端正な顔から放たれる優しい声は、私を責めるような音を持っていない。だからこそ胸に深く痛みが走る。

「ねぇ茜」

小さく息を吐いた後、大五郎はピンクの椅子からゆっくりと立ち上がった。

「アタシたちこれまで一緒には働いてこなかったけど、大事な仲間だと思ってた。だからアナタにどんな噂があっても、アタシ全然信じちゃいなかった」

背を折り視線を合わせてくる大五郎の瞳は、友人を心底心配するもののように見えた。

「実は一年前ね、人事から相談が来たの」

「えっ?」

思いもよらない話に、短い息が喉に詰まる。

「…美空茜は原稿取りの鬼悪魔。冷徹無情で人の心が無い女。作家を追い詰め過ぎるところがあって、編集と密に話して作品を作るタイプの作家とは組ませられない。だから…アタシのとこで引き取ってくれないかって」

言いにくそうに放たれた大五郎の言葉が痛い。

社内に私にまつわる噂がいくつもあることは知っているし、原稿取りの鬼悪魔であることは紛れもない事実だ。作家を追い詰めたことだって一度や二度ではない。だがそれは遅筆な作家に作品を書かせ、待ち望んでいた読者に作品を届けた誇りでもある。

私の仕事は間違っていない、そう言って胸を張りたいはずなのに、温かみがある穏やかな声で放たれた言葉は、胸に重しとして積み重なっていく。

私は思わず大五郎の真摯な目から顔を背けてしまった。そんな私に大五郎は穏やかに話し続けた。

「アタシはそんな話信じちゃいなかった。茜が心のない人間だなんて、そんなことあるわけないって。ぶっきらぼうで口汚いところはあるけど、誰より真面目で仕事熱心で、愛のある人間だと思ってた」

目を逸らしたままでも分かるほど優しく穏やかな声は、その後ずっと私の胸に残る事になった。


「ねぇ茜、アナタ心をどうしちゃったの」

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