第4話 青べこの漫画家。
午後イチになってジュエル編集部にやって来たのは若い男性だった。
細く長い手足を丸めて応接室のソファに座っている姿に、どこか妖怪じみたものを感じて立ち竦んでしまったが、それは氷雨澤青も同じだったようで、応接室にやってきた私を見て一瞬の戸惑いがあったようだった。
おそらく前任の担当者が来ると思っていたのだろう、妙な間を潜り抜けるように私はスーツの胸ポケットから名刺ケースを取り出し、今朝支給されたばかりの名刺を差し出した。
「お待たせしてすみません。私、新しくジュエルに配属されました美空茜と申します。よろしくお願いします」
水色と桜色に塗り分けられたファンシーな名刺と共に挨拶すると、氷雨澤青は慌てたように立ち上がって、腰を折り曲げるようにして何度も頭を下げてきた。
「あ、氷雨澤です、すみません」
謝るのが癖なのか、腰を曲げたまま何度もペコペコと頭を下げる姿に、お土産でもらった赤べこを思い出した。まぁ目の前の男は線が細く顔色も悪いので、どちらかといえば白べことか青べこといったところだ。赤べこにそんなカラーバリエーションがあるのかは知らないが。
いまだペコペコと頭を下げる氷雨澤青をソファに座るよう促し、私も向かいのソファに腰掛けた。
「早速ですみませんが、漫画を拝見しても?」
「あ、はい、すみません」
座ってからも何度も頭を下げた氷雨澤青は、ソファに置いていた四角い鞄から茶封筒を取り出した。
雑誌掲載用の原稿用紙は雑誌よりもふたまわり程大きな原稿用紙に描かれるため、それを入れるための茶封筒も鞄も必然的に馬鹿デカくなってしまう。そのサイズ感も合間ってか氷雨澤青があたふたと原稿を取り出す様子は、幼稚園生が通園鞄から必死に画用紙を出している姿に似ていた。
(待ち時間あったんだから、原稿机の上に出しておけばいいのに…)
段取りの悪さに多少の苛立ちを覚えるが、顔には出さないよう心がける。
「よ、よろしくお願いします」
ガサガサと音を立てて、氷雨澤青は茶封筒から出した原稿を渡してきた。
手渡された原稿を見た瞬間、息が止まるような気がした。いや多分、実際に私の呼吸は数秒止まっていたと思う。
―これほどまでか。
氷雨澤青の原稿はとてつもなく美しい。
それはまるで美術品のように繊細でありながら、見るものに訴えかけてくるような迫力があり、白黒の原稿だというのにキャラクターの瞳は宝石のように輝いて見える。
午前中、作品倉庫で以前持ち込まれた原稿のコピーを見た時も、その圧倒的な画力に息を飲んだが、生の原稿は現代コピー機でも太刀打ちできない衝撃的美を放っていた。
幼い頃から「美術館でじっと絵を見とる人間って時間無駄にしとると思わんのかいな」と思う私が、氷雨澤青の原稿をまじまじと見つめてしまっていた。
「…こちらは、一人で作画を?」
原稿一枚目を見つめたまま話しかけた。
氷雨澤青は肉食動物に見つかった兎のように身を震わせた後、すりつぶされたような声で「はい」とだけ応えた。
持ち込み者ファイルに記載されていた通り、氷雨澤青は毎月新作を描いて持ってくる。たった一ヶ月、それも一人で、全ページ美術品のような作品を仕上げられる画力は、もはや神技と言って差し支えないように思う。
だからこそ言おう、
―作品が、クソつまらねぇ、と。
神の画力を持ちながら雑誌掲載経験が一度もないのは、漫画がクソつまらねぇの一言に尽きる。
主人公の気持ちがわからないから感情移入できないし、そもそも登場人物の中でどれが主人公かわからないといった破綻ぶりだ。
話の展開ももっさりして…というか展開らしい展開が見当たらない。事件も起きなきゃ悪役も居ないし、描きたいテーマもわからなきゃ話のオチも見つからない。
最後の一枚をめくった時、頭にはてなマークが三つは浮かんだと思う。「え?まさか家に数枚置き忘れて来たとか」と思って原稿の枚数を数えた。持ち込みには規定の枚数があるので、数えた原稿が規定枚数ぴったりだったときには、もはや恐怖を覚えた。
氷雨澤青の漫画を一言でいうなら「ただそこに綺麗な絵があるだけで漫画として成立していない」だ。
「あの」
氷雨澤青の原稿をそっと机に置き、私はにこりと笑った。
「イラストレーターに転向されては?」
私から言えるのはこれだけだ。
氷雨澤青に漫画家の才能はない。
だったらうだうだ漫画を描き続けるより、すっぱり諦めてイラストレーターに転向した方が上手くいくだろう。
本気でそう思って放った一言だった。
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