第3話 悪友の編集長。

「月刊ジュエル編集部へいらっしゃぁ〜い♡」

荷物をまとめ、ジュエル編集部へとやってきた日の朝、私は早速大五郎節に触れることとなった。


超高層ビルの中層階。

六基あるエレベーターのうち四基が止まるこのフロアは、うちの会社の「雑誌編集部」というものがまとめて存在する。

エレベーターホールを抜けてガラスの入り口扉を潜ると、窓の外の景色が見えるほど開放感のあるワンフロアに様々な雑誌の編集部が点在している。

その昔は低い天井からボルトチェーンで吊られた看板に雑誌名が書いてあったものだが、現在は入り口にフロアマップがあり、Aー1、Bー1といった形で綺麗に区分けされている。発行部数の多い雑誌は関わる人間も多いため広いエリアに、マニアックな雑誌は狭く小さなエリアにといった様子で、フロアマップはほとんど社内の権力図といったところだ。

その実、ここにある雑誌編集部より発行部数が一桁多い雑誌は、さらに上の階に編集部があるのもなんだか社会の縮図みたいだなと思う。

そんな中、ジュエルの編集部は狭くも広くもない中堅どころに位置していた。

創刊五十年という歴史ある少女漫画雑誌であり、アニメ化している作品もいくつもあるが、社会現象を巻き起こすような大ヒット作にはここ数年恵まれていない。それが今のジュエルの立ち位置だった。

マップを頼りに辿り着いたジュエル編集部は、デスクが六つほど向かい合っているが周囲の喧しさとは切り離されたようにがらんとしている。

先明後日が漫画原稿の締切日であり、担当編集はそれぞれの漫画家の元に出向いているとは聞いているが、そもそも編集長である大五郎がテレワーク推進派なので編集部に人間がいることはほとんど無いのだという。

だがそんながらんとした雰囲気とは裏腹に、今私の視界は眩しさでいっぱいだった。編集部全体がテカテカ素材のバルーンと、ビビットピンクの花で飾り付けられているせいだ。

「待ってたわよぉ〜♡」

辿り着いた私を出迎えたのは岸辺大五郎きしべだいごろう「編集長」だ。だが、ピンクのジャケットに白のポケットーチーフ、白いジーンズを履いた長い脚をモデルのようにクロスさせて立つ大五郎は、木の網かごを腕に掛けて「悪友」の笑顔を見せている。

「月刊ジュエル編集部へいらっしゃぁ〜い♡」

「…なんですか、それ」

嫌な予感を胸に網かごを指差すと、大五郎は整った顔を子供のように緩めた。

「いやぁだアンタ、茜の歓迎フラワーに決まってるじゃぁない!」

そう言うと同時に、大五郎は網かごの中に入っていた花びらを相撲取りの塩よろしく撒き散らした。人間は私と大五郎しかいないジュエル編集部で、私は頭から花びらをぶちかけられている。

「ジュエルへよぉ〜こそ〜ぉ♡」

千秋楽大一番力士の勢いで花びらをかけまくってくる悪友は、私の機嫌などお構いなしというように楽しそうに笑っている。

「茜と働けるなんて嬉しくてねぇ♡」

その言葉はまぁ本当だろうし、私にもその気持ちは無くはない。にこにこと笑う大五郎のなすがまま、私はじっと花びらを受け入れた。

「よいしょっと」

網かごをひっくり返し、最後のひと花びらまで私に掛け終わった大五郎は「色々と話したいことはあるけど、ちゃんとお仕事の話もしないとねぇ」と言って自分のデスクへと戻っていった。

向かい合って並ぶデスクの横、離れ小島のようにポツンと置かれたデスク。一つだけ向きの違うそのデスクの上には「編集長」と書かれたピンクのプレートが置かれており目を引かれる。…正確に言うとデコレーションされたピンクプレートを囲むように所狭しと並んでいる大小様々なぬいぐるみが目を引いているのだが。

ピンクのウサギに白いクマ、犬猫キリンに虹色の丸に目が付いただけのよくわからないぬいぐるみひしめく、離れ小島のファンシー動物園。その動物園のシンボルかのように置かれた宝石を模したトロフィー。実物を見るのは初めてだが、おそらく昇進祝いに同期達から贈られたものだろう。きちんと場所を用意して飾っているところに大五郎の人となりが見える…が。

「オメェのデスクすんげぇ仕事しにくそうやな」

という言葉を飲み込んだ。これが十年前なら脊髄反射的に言っていたと思うが、今は編集長と一編集者という立場もある。

仕事しにくそうなデスクへと歩く悪友の背を見送って、私はため息混じりに一つのデスクを指差した。

「それで、私のデスクはここでいいんですか」

六つ並ぶデスクの一番端、一際豪勢に飾り付けられたデスクの上に花で出来たケーキが置いてあり、その中央に「ウエルカム!」の文字が踊っている。

「そうよぉ〜。そのお花、石鹸でできてるやつだから持って帰って飾ってね♡」

ファンシー動物園へと辿りついた大五郎は、ピンクのデスクチェアに腰掛けてこちらへと視線を送ってきた。

「まぁアンタんちにそれを飾れるような空間があれば、だけど」

大五郎は形のいい唇をにやりと引き上げて笑っている。

腹立たしいが、確かに彼の言う通り私の家には石鹸でできた花を飾る空間など無い。というか、家に空間というものが存在しない。

私の家は常にゴミ袋でいっぱいのため、空間というものはそもそも存在しないのだ。なんでゴミ出しってあんなに面倒臭いんだろう。分別は厳しいし、捨てられる曜日は決まってるし、せっかく気合い入れてゴミ捨てに行っても、時間に間に合わなければすごすごと持ち帰るしか無いわけで。あんなに惨めな気持ちになる瞬間はそうは無い。

そんなことを思いながら花のケーキを見つめていると、大五郎の穏やかな声が肩にかかった。

「それで茜、アンタに頼みたい仕事は決まってるんだけど、いいかしら?」

その一言に私は持ってきた荷物をデスクに置き、編集長デスク横へと向かった。

「よろしくお願いします」

ゆっくりと頭を下げてから大五郎を見つめる。穏やかに笑ってはいるが、その顔からは先程までのイタズラっぽさが消えていた。

ここから先は「同期の悪友」ではなく「編集長と一編集者」ということだろう。

深く頭を下げた私の対応に大五郎も満足したようで、ふと真剣な眼差しでぬいぐるみの隙間に指を入れた。こちらからは見えないが、そこに書類棚のようなものがあるらしく、一冊のファイルが取り出された。

「これね、宝石ちゃんリスト」

抜き出したファイルをデスクに置き、長い爪でトントンと叩く。

面倒くさそうな話に私が眉を顰めると、大五郎は形のいい唇を横に開いて笑った。

「伝わりやすい言葉で言うと、過去ウチに漫画を持ち込みに来てくれた漫画家さんのリストね。デジタル全盛の今でも月刊ジュエルは「編集部持ち込み」をOKにしてるの。新しい才能に出会う窓口は広いに越したことないからね」

「拝見しても?」

視線を送ると、大五郎は頷いてファイルを手渡してくれた。

A4サイズの分厚く重たいファイルは旧時代の遺物のように思える。

データ化すればいいのにと思いながらプラスチックの硬い表紙を捲ると、名前や住所やペンネームが書かれた横に、どんな漫画を描くか、編集部側からどんなアドバイスを出したのか、持ち込まれた漫画のコピーが置いてある作品倉庫の棚番号といった項目が並んでいた。

「茜に頼みたいのは、そのファイルに載ってる人たちの管理と進捗交渉よ」

思わずファイルから顔を上げた私の目に、大五郎の穏やかな笑みが映った。

「連載もしてない、持ち込みに来ただけの「新人」とも呼べないような人間に「進捗を伺うって?」って顔してるわね」

大五郎の言葉はまさに私の心情を一言一句言い当てたものだった。

私の心を見抜いたと知ってか知らずか、大五郎はさらに穏やかに笑う。

「現代の出版業界は本当に多様化しているわ。別にウチみたいな大手出版社を介さなくても本は出せるし、SNSでバズれば本は売れる。むしろウチの連載作家より稼いでる漫画家さんだってゴマンといる時代になった」

そう言いながら大五郎はぬいぐるみの群れの中に指を入れ、ラミネート加工された一枚の紙を取り出した。

「そんな時代の今、アタシたち大手出版社がするべきことってなんだと思う?」

大五郎は加工された一枚の紙を私に差し出している。

受け取ってみると、過去から現在に至るまで「ジュエル」はもちろん、ウチの会社が世に送り出してきた作品のタイトルがずらりと並んでいた。アニメ化や映画化し、国内のみならず海外でもファンフェスが開かれている作品たちのリスト。漫画やアニメに興味がない層でも名前を知っているであろう数々の名作たちだ。

「アタシたち大手出版社が作るのは「夢と憧れ」よ」

一枚の紙に漫画のタイトルが並んでいるだけ、ただそれだけなのに胸の奥が熱くなる気がして、ほとんど無意識に背筋を伸ばしていた。

私の様子を察してか、大五郎は柔らかに笑う。

「別にこれまでの実績にすがろうってんじゃないの。でもさ、自分が小さい頃から読んでた大先生と肩を並べて連載出来るっていうのがウチの強みであり、そうやってウチにきてくれた新人さんが、また大きな作品を生み出して次の子たちの憧れになる。脈々と受け継がれていく夢と憧れが、ウチ最大の強みってわけ」

どこか夢見る少女のような視線で、大五郎は私の持つ「持ち込み者」のファイルを指さした。

「そのファイルに載ってる子たちは、他の出版社でもSNSでもない、まさにウチに、この月刊ジュエルに載りたくて来てくれた子達なの。ウチにとってはこの上ない宝物のような漫画家さん、つまり宝石ちゃんってこと。もちろん現段階でいえば雑誌に作品を載せられるレベルの漫画家さんじゃないかもしれない。だけどアタシは「ジュエルに載りたい」と思ってくれたその気持ちを大切にしたいの。わかってくれる?」

放たれた言葉に私が頷くと、大五郎は机の引き出しに手をかけ、中からクリスタルのようなキーホルダーが付けられた鍵を取り出した。

「ありがとうね。それじゃ来てもらって早々悪いけど、今日の午後イチに持ち込みに来られる漫画家さんの作品を見てあげて。過去に何度も持ち込み経験のある方だから、午前中のうちに保管してある前作品に目を通しておいて」

差し出された鍵を受け取ると、クリスタルに「SAKUHINSOUKO」と刻まれていた。倉庫の鍵にしてはキラキラしすぎだと思ったが、細部まで可愛いにこだわるのが大五郎節なんだろうと思い直した。

「漫画家さんのお名前は氷雨澤青ひさめさわあおさん。これは本名ね、ペンネームは考案中ということでまだ無いわ」

やってくる漫画家の名前を聞いた私はファイルを捲った。

持ち込み者リストは名前順に並んでいるようで、「は行」の欄を捲ると氷雨澤青のページがあった。半年前から一ヶ月に一度の高頻度で持ち込みに来てはいるが、まだ雑誌掲載経験はない。

「氷雨澤さんは毎月新作を持って来てくれる気概溢れる宝石ちゃんなの。茜は氷雨澤さんの新作を読んで、作品が面白ければ雑誌に載せることを検討していいし、まだ雑誌に載せられる作品になっていないと思えば、どうしてそう思ったのかアドバイスしてあげて」

当たり前のように放たれた大五郎の言葉に、喉がギュッと音を立てて詰まった。指先が小さく震え、一瞬息ができなくなる。

『作家にアドバイスをする』

編集として当たり前の仕事だが、私にとっては非日常の業務と言って差し支えなかった。

これまで私が担当してきたのは奇人変人とはいえ本物の天才作家たちで、椅子に座って書き始めれば鬼気迫るほどの集中力を発揮し、名作を作る。それゆえ私は編集者として十年、作家からアドバイスを求められた経験は…皆無だった。

そもそも漫画と小説じゃ求められるものも違うだろうし、ジュエルへの配置換えが決まってから過去から現在に至るまでのジュエルの代表作を殆ど読んではきたものの、新人に的確なアドバイスができる自信は無い。だがそんなことは口が裂けても言えなかった。腐っても十年やってきたのに、新人へのアドバイスが出来ない編集者なんて存在していいと思えなかった。

持ち込み者ファイルに記された氷雨澤青の情報を見つめた。まだ一度も掲載経験のない人物が、途端にラスボスのような圧力をもって迫ってくるような気がした。

その時、ふと視線を感じて顔を上げた。

椅子の背もたれに身を預ける大五郎が茶色がかった大きな瞳を緩めている。

「ねぇ茜」

かけられた声に首を傾げた。編集長の声が「悪友」の響きを含んでいたように聞こえたからだ。

「アタシはね、アドバイスで漫画の魅力を引き出すことはとても大事だけど、漫画の魅力を引き出すだけじゃ空前絶後の大ヒット作は産まれてこないと思ってるの」

言葉の意図を汲み取れず、ただじっと大五郎を見つめていると、彼は口の端を引き上げて笑った。

「奇跡というか運命というか、漫画家と編集者がそういう出逢いをした時に最高の漫画ができると思ってるわ」

少女漫画の編集長はやはり運命信者なのか、少し面倒だな、そんなことを思っていると大五郎はますます穏やかに笑った。

「だからこそ今、アナタにこの仕事を頼むのよ」

まるで天使のように優しく笑う大五郎に「それってどういう意味?」と聞こうと思ったがやめた。編集長の威厳ある瞳の奥に、悪友としての輝きを混じらせているように見えたからだ。


私はその笑顔から逃れるように、ファイルに記載された氷雨澤青へと目を落とした。

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