後編
また夢を見ていた。
それは一人の女性が私を置いてどこかへ行こうとする夢であった。
私を置いていくその女性は、こちらを見ることもなく、どこか遠いところへ行こうとする。
私にとって、大切だったその人は、私を見捨てて、どこかへ行くのだった。
私を見捨てていこうとする彼女に私は追いつこうと、走ろうとするのだが、右手を何かに引っ張られる。
巨大な体格をした男の顔が、こちらを見ていた。この時の光景は全体的に暗く、世界がモノクロとなっていた。
そのため、目の前の男の姿、そして、向こうへ向こうへと歩いていく女性のも自分の手や体さえもモノクロだった。
男の顔は影で覆われていて、よく見えないのに、その目だけが、こちらをじっと見ていた。その目には、私に対して何かを責めるような感情と、私が女性の側に行くことを非難するような感情のこもった目だった。
私はそれでも、女性の方へと行こうとした。しかし、抵抗するたびに、男の手の力は強くなり、私の手は引きちぎれるのではないかというぐらい痛み始めた。
私が男の手から逃れようともがいていると、足を踏み外して、体が横に倒れてしまった。その時、地面にやった手に何かが当たった。
私はそれを持ち、顔に近づけて見てみると、それは包丁のようなものだった。私は、その刃物を持って、ある考えが頭の中によぎった。
そして、早速私はその刃物を持ち直し、体を立ち上がらせると同時に、男の足に刺した。
そして倒れ込む男の腹部に包丁をもう一度刺した。この二回の刺突の瞬間に、肉の蠢くような感覚が刃物を伝って感じられた。
そして最後に男の首と肩の辺りに一突きした。
私の手を強く握っていた手は、力を失っていき、そして最後には離れていった。
男の顔は、私を見て、悲しむのような表情をしていた。影で隠された顔からそのような印象を抱くのは変であるかもしれないが、確かにそう感じたのだ。
そして、私は女性の方へと走り出していった。女性との距離はすぐに縮まっていった。
私はその女性の腕をやっと掴むことができ、そして、その女性のことを呼んだ。
すると、彼女はゆっくりとこちらを向いていき、そして、膝を曲げ、体をしゃがませて、私の頬に、手をやった。
彼女は私の顔をまじまじと見ていた。そして、私に微笑みかけた。
母さん…
そうして、私は母に抱きついた。彼女もまた、私に背中に手をやるようにして、抱き返してくれた。私は少し泣きそうになりながら、母を呼びつづけた。
しかし、ある声が、私に語りかけてきた。私の中の感情を、その声は蘇らせた。
私は胸の奥から湧き上がってきた、その感情に突き動かされ、そして、正気を失って…手に持っていた刃物を母の背中に突き刺した。
彼女は驚いたような顔をこちらへ向けたが、私はそれでも、彼女を刺し続けた。体のあらゆる箇所、胸や腕、背中、あらゆる場所を無我夢中で刺し続けた。
顔の周りに血がべっとりと付いて、そして、自分の手には、包丁が母の体に刺しこまれていくいく感覚と、母の体がそれに合わせて蠢く感覚とが伝わっていった。
顔の周りに付いた血を拭き取り、改めて彼女の顔を見た。もはやその目には光はなく、口は開いたままの状態で、体の力も、生気も、もはや感じられなかった。
私はその母の亡骸を見て、我に帰り、その場に倒れ伏した。
母を殺した感覚を思い出して、吐き気に襲われ、口を押さえ続けた。
彼女が私を置いていったのは、私が嫌いだったからではなかった。彼女と父の問題だった。
けれども、それでも、私を置いていった母の姿が忘れられなかった。私を彼女は捨てたのだという感覚は捨てられなかった。これは、逆恨みに近いものだと思う。
父への恨みもまた、そうであった。私のことを大切に思うからこそ、私を彼は叱ったり、怒ったりしたのだろう。けれど、私はそのような彼の想いを、むしろ、鬱陶しく感じて…
もうやめてしまいたいと思った。この感情を捨ててしまいたいと思った。けれど、もう引き返せない。心の中の怪物が、それを許さない。
もう、私は後戻りのできないところにまで、来てしまった。だから、これから、やるべきことをやって、そして、罰を受け入れよう。
そして、私の体は、暗闇の中のさらに奥深くへと、深淵の中へと落ちていくのだった。
病室のベッドの上で、時間が経つのを待っていた。ただ、その時が来るのを待っていた。自分の中で、あらゆる感情が衝突し合っている感覚が、止まらなくて、気分が悪くなっているのに耐えながら、その時が来るのを待っていた。
朝、目が覚めたら、そこはやはり病室で、現実は、現実のままだった。自分の中にある後悔と苦しみが、今から自分が行おうとしていることを止めようとするが、私の中のそれを、これらの感情が打ち消すことはない。
枕の下には、一本のハサミが置かれている。彼女がやって来た時に、使うためのものだ。準備はできていた。後は彼女が来るのを待つのみだった。覚悟は出来ていた。
私の世話をしてくれている看護師が、母が来た時に、私の部屋へ連れて来てくれる予定だった。
何年も会うことがなかった母の姿を、あの夢を通して、私は思い出すことができた。私はこれから会う、自分の母親の顔ばかりを思い浮かべ、そして、より明確にこれから起きる出来事を想像して、吐き気に襲われていた。
早く終わらせてしまいたいという考えを必死に抑えながら、私は、枕の下にあるハサミの存在を、何度も握って、確かめている。
そのような時間を延々と過ごしていた。
コンコン、と扉がノックされた。そして次に、扉は開かれ、看護師と一人の女性が部屋へと入って来た。
そして、看護師は女性を部屋へと案内し終えると、病室から出て行った。部屋の中には、私と、女性の二人のみになった。
目の前の女性の顔には、所々、シワが出来ていて、そして、私が想像していた顔よりも、とても年老いた感じがしていた。
私が彼女と別れた後も、歳を重ねていったように、彼女もまた、年老いていたのだ。
彼女の手、薬指に付いていたあの綺麗な指輪は、もうなくなっていた。目の前の母親は、とても弱々しく見えた。
それが変に、心に悲しみを与えていた。
苦しい思いをしてきたのは、私だけではないというのがよく分かる姿だった。
「最後に別れた時に比べて、大きく…なったわね」
母は悲しそうな顔をして、感傷に浸りながら、そうやって私の姿を見て、つぶやいた。
「母さん、僕は、僕だって成長するさ」
何か余計なことを言いかけて、そして、代わりの言葉をなんとか紡いだ。
「ええ…そうでしょうね、とても長い間、会っていなかったものね」
母の顔は、より悲観に暮れたような顔をしていた。
「私は、あなたが何をしたのか、よく分かっているわ」
母は突然そのようなことを言ってきた。私の胸が痛く締め付けられるようになった。
「あなたが、私や、あの人のことを憎んでいることはよく分かっているわ、だから来たの」
「母さん、僕は…」
そうやって言葉をなんとか出そうと、つづけていると、母が、抱きしめてきた。
「今まで、あなたのことが怖かった、あなたの目が怖かった、あなたに責められるような目で見られるのを想像したら、たえられなかった」
母は私の、僕のことを抱きしめながら、そして優しい声でそう言った。
「でも今は違うわ、あなたの怒りを、私は受け入れるわ、あなたを捨ててしまったことへの罰を、私は受け入れるわ」
母さんは、そう言った。
そして、僕も母さんのことを抱きしめて、言葉を発した。
「母さん、僕はあなたや、父さんのことが、憎かった、許せなかった、僕のことを捨てたあなたを、そして、僕のことを責め立ててくる父さんの子を」
僕は泣きじゃくりながら、言った。
「でも、自分のことも許せないんだ」
僕がそう言うと、母さんは、僕の頭を撫でて言った。
「あなたが、自分のことを許せないと言うなら、あなたもあなたの罪を受け入れるしかないわ、けれどもね、これだけは覚えておいて」
母さんは、僕の方へしっかりと顔を向けて言った。
「あなたがどんな選択をしようと、私はあっちで、待ってるから」
僕は再び声を出して泣きながら、母さんの温かい抱擁を、受け、気持ちを落ち着けようとした。
しばらくの時間が経って、私は泣くのをやめ、そして、母に抱きしめてもらうことをやめた。
私は、枕の下に置いていたハサミを取り出して、母の方を向いて言った。
「本当に良いんだね、母さん」
母さんは一息、深い息をして、こちらを向いて行った。
「ええ、良いわ」
私は、手に持った一本のハサミを持って、再び、抱きしめた。母も私のことを再び抱きしめた。
「さようなら、私の愛おしい息子」
「さようなら、そしてありがとう、母さん」
私は手に持っていたハサミを、苦しまないように、母の急所へ思い切り突き刺して…
「愛してるよ、母さん、また後で会おう」
病院の外は、晴れており、温かい気温で、とても良い天気であった。
その中で一本だけ、異質な雰囲気を放つ木が立っていた。
その木は朽ちかけていて、周りの木々に比べても、元気がないとはっきり分かるほどのものだった。
他の木は、太陽の光を、気持ち良さそうに受けているのに対して、その木だけは、太陽の光を打ち消すかのように浴びていた。
その木に付いている葉はあと一枚しかなく、その葉っぱももう、取れてしまいそうになっていた。
病院の方を見てみると、病院に存在する、病室の内の一つの部屋の窓が開かれた。
その窓を開けたのは、一人の男で、彼の顔は、顔の皮が焼け爛れたようなものになっており、顔は赤く、血液が全体で浮き出てるかのようだった。その男の顔に特に赤いものが、男のものとは異なる血が付いていた。
彼の顔には、涙が流れており、しかし、表情は無であった。
彼は、朽ちかけているその一本の木を一目見た後、一度、深呼吸をした。
そして、再び、木の方を見ると、今度は窓から真下の方を見て、そして、自身の体を病院の外へと、放り出すように、飛び出て、下へと落ちていき、そして、地面に衝突すると、頭の方から、血が流れていき、一つの血溜まりが出来ていった。男の顔は、空の方を向いており、最後に、一度、微笑を浮かべると、目の光が消えていった。
それとほとんど同じ時、朽ちた木に付いていた最後の一枚の葉が、木から地面へと、落ちていくのだった。
インホスピタル かまつち @Awolf
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