インホスピタル
かまつち
前編
淡い光がこちらの方にやってくるのを感じた。暗闇の中から急にもたらされた光に驚き、反射的に右腕を顔の方に手をかざし、ゆっくりと目を開けていった。
ぼやけていた視界が段々と明確になっていき、自分の方へやってきた光が、丁度日の出の時なのだろう、日光から、うっすらと開いたカーテンの隙間から、窓を通して、こちらへやってきていた。どうやら今まで眠ってしまっていたようだ。
私は体を起こそうと両手で体を押そうとした。その時、両手、特に左手に鋭い痛みが走り、体勢を崩してしまった。
今気づいたが、私の手には、左手の方は、手の平から二の腕の辺りまで、右手の方は前腕の辺りが包帯を巻かれており、体や足の方も、所々包帯が巻かれているようで、顔にも一面包帯の感触が感じられた。また、服は青色を基調とした病衣のようなものを纏っていた。
自分が、眠っていたベッドを見ると、ベッドは全体的に白く、とても清潔感が保たれている感じのする、綺麗なもので、普段自分が寝る時のそれとは明らかに異なり、そしてそのベッド見た目から、ここが病院の一室であることが分かった。
今度は痛みのないように、ゆっくりと体を起こし、わずかな痛みに耐えながら、なんとか身を起こした。
今度は、慎重にベッドから立とうとして、いった。肌が服と擦れる時、痛みが走ったが、それでもゆっくりと動き、立ち上がった。
そして、日光が差す窓の方に行き、わずかに開いたカーテンを両面とも開いた。
外は、いつも通りで、晴れており、また、日の出の時であるので、赤焼けの空が、この目に映った。
そして、そこには住宅街が広がり、学校らしきものや、小規模なビルなども見られた。しかし、私の目を惹きつけるのは、太陽ともう一つのものであった。
一本の木がそこにはあった。病院に備え付けられた駐車場の方に生えた一本の木がとても大きかったのである。その木とは、高低差があるとはいえ距離は近く、そのため、目を引きやすかった。
しかし、最も大きな理由は、その木が、朽ちかけていることにあった。他の場所に見られる木は、その枝に青々しい、葉をつけており、その中で一本、その木だけは腐り落ちようとしているかのようで、枝には、二枚ほどの葉しかついていなかった。
街中の木、その朽ちかけた木の近くに立つ木々さえ、正常な、とても立派な印象と、活力を感じるような見た目で、そして陽の光さえ、正面から喰らっているように見えるのに、その木だけは違った。
木の長さは通常のものよりも大きいのにも関わらず、弱々しく見え、陽の光を打ち消すかのように立っていた。
私はその木をじっと見つめていた、その木に魅入っていた。
少しして、私はベッドの方に戻って寝転がり、自分がどうしてこの病院にいるのか、なぜこのような大きな怪我を負っているのかを思い出そうとした。しかし、頭の中で何かを思い出そうとすると、頭の中にもやがかかったみたいに、何も思い出せなかった。
考え事をしていると、病室のスライド式の扉が、音を立てながら開かれていった。私がそちらの方を見ると、開かれた扉からは一人の、女性の看護師が部屋に入ってきていた。
彼女は最初は顔をやや下にやって入ってきたので、こちらの様子が分からなかったのだろう。
ほんのちょっとの空白を経て、彼女はこちらを向き、そして、驚きの表情をこちらに見せた。
「すみません、少し待っていてください、すぐに先生を呼んできます」
困惑と悩んだときのような顔をしていたが、すぐに真面目そうな表情をして、看護師は言葉を選んでいたのか、少し間を開けた後にそう言って、病室を出ていった。
私は、一瞬の間で起きたその出来事に呆気にとられたが、相手の言葉を少しのラグをもって理解して、ベットに横たわり、ゆっくりすることにした。
ちょっとの間、横たわりながら、朧げになった記憶を少しずつ整理しようと努めていた。何も特筆すべき成果がなく、それでも思考を紡ごうとしていた。
少し時間が経って、先ほどの看護師が医者を連れてきた。
「やっと目が覚めましたか」
医者は私の方を見てそう言った。
「少し混乱しているかもしれませんね、少しそのまま横になって落ち着いてください、時間をかけてゆっくりと、今のあなたの状況について、お話ししますので」
医者は、中年ぐらいの見た目の、しかし、清潔感のある男だった。彼は優しい顔で私にそう言った。
私は医者の指示を聞いて、医者の言うように、ゆっくりと深呼吸をした。そして落ち着いて今の自分を見てみると、普通の人間よりもどこかが異常に見えたのだ。
何か、恐ろしい何かに囚われているような感覚であった。恐ろしく、そして自分を死に至らしめるものが感じられた。
しかし、不思議とそれは私が感じるにふさわしい感情でもあると思えてしまうものであった。
今の私を人が見るなら、その目には、焦燥感を感じていて、何かに追われている顔をした人間の姿が現れるだろう。
私は深呼吸をしていくうちに、気持ちの自覚している部分のみならず、無自覚的な部分も落ち着いてきたのだろう。少なくとも医者はそう判断したようで、私への話を再び初めていった。
「まず、あまりショックを受けないようにして、聞いて欲しいのです。あなたに今から話すことはあまり良い内容ではありません、つまりはあなたの身に、何があって、今ここにいるのかを知っても落ち着いていてもらいたいのです、よろしいですか。」
医者は真剣そうな表情で私にそう言い、私はその表情に押されて、とりあえず首を縦に振った。何だか喉の方に違和感があって、言葉を発することが普段よりも難しく感じられたからでもあった。
「まず、あなたはしばらくの間、昏睡状態にありました、あなたは一ヶ月間、ここで眠っていたのです、その間、私たちは、あなたの体中についている怪我の治療を行なっていました」
…
「次にあなたの、体の状態について話しましょう…単刀直入で言わせてもらいますと、ここへ来た時あなたの体は、全身に酷い火傷を負っていました、あなたの体中に、これからもその痕は残るでしょう、そして特に酷いのが顔でした」
……
「あなたの顔は、皮膚のほとんどが、焼け爛れている状態で、どのような方法で治療しても、完全に治ることはなく、今でも、その顔には酷い痕が残っています、その顔を人に見せることはしないほうが良いでしょう」
………
「そしてそのような重度の怪我を負った原因を、あなたは覚えていますか」
…………頭が痛い。
「警察の調査によりますと、あなたとあなたの父とが暮らしていた家、そこでガスによる爆発が起きたそうです、原因は不明ですが、家の中に、過剰な量のガスが漏れていたそうです」
頭の痛みを私は手で押さえ込もうとした。
「そしてあなたの父に関してです」
…………そうだ、父は、あいつは。
「あなたの父はそのガス爆発に巻き込まれて死亡しました。気を失っていたあなたの上に覆い被さるかのようにして、亡くなっていたそうです」
医者のその言葉が終わるや否や、急激に、失われていたはずの記憶のフラッシュバックが行われていった。
あの日、家で起きた出来事の光景、いつも通り会話をして、いつも通り食卓を囲んで、いつも通り過ごしていた時、あれが、ああなった。
一瞬だった。一瞬で全てが灰に帰した。私はあの景色を思い出して、気持ち悪くなった。
頭の痛みと、胸の奥の気持ち悪さが、とても不快なまでに増していっている。
私は過呼吸を起こした。
体は震え、そして、まともな思考も徐々にすることができなくなっていった。
医者は私の体を抑え、看護師に、注射を持って来させた。そしてそれを私の首元に辺りに突き刺した。
私は意識を失っていった。
あの日最後に見た、あいつの顔を思い出しながら。
悪夢のようなものを見ていた。一人の男の顔が暗闇の中を首から上のみで浮かんでいた。そいつはとても悲しそうな顔をしていた。
そして私はその顔を見ながら、とてつもない後悔を感じていた。
後悔は私に苦しみを与えていた。こうなれば感じることになると分かっていた苦しみに、今後悔している。
目の前の男の顔は、どこからともなく生まれた炎の中に包まれていき、そして、呼吸もできなくなっていき、喘ぎながら、目から血の涙を流して、こちらを憎むかのように見ていた。
男の目はずっとこちらを睨み、そして、口の喘ぎのための動きは私への呪詛を吐き続けているかのようだった。
そしてついに見慣れた男の顔は、骨だけとなり、それでもなお、目と口は残り、目はこちらを睨みつけて、口は呪詛を吐くように動き続けていた。
私は手元に持っていた刃物を目の前の頭蓋骨に突き刺した。
次の瞬間、自分の体が暗闇の中を落下していく感覚が、続いていき、そして、自分の体は強い衝撃によって打ち砕かれていった。
だんだんと視界が開かれていき、光がこちらを照らしてきた。
私は目が覚め、そして、横たわったまま、先ほどの出来事を思い出していた。
医者の言葉を思い出し、そして、今まで分からないままでいたことを思い出す。
気分が悪くなっていった。吐き出しそうになりながらも記憶を辿る。それでも、やはり現実は何も変わらない。
所詮、苦しみに耐えても何も変わることはないのだった。一つの苦しみを耐え抜いても、すぐに新たな苦しみがやってくる。
その上、死というものが、自分の努力を台無しにしてしまうのだから、なおさら報われないのだ。
そういった教訓が自分の中で培われてきた。
この場合だってそうなのかもしれない。自分のあの頑張りもまた、無駄だったのかもしれない。
自己嫌悪という罪が、他者への憎しみと自身の苦しみの上に積み重ねられただけだった。
死は虚しい。死は、全ての苦しみからの解放という幸福と、人生が無意味だという悟りと、自暴自棄の思考を人に与える。
私には、とても耐えられるものではなかった。
再び私は体を起き上がらせた。今度は痛みのないように、慎重にやった。今度はうまく起き上がることができた。
ベッドの上から辺りを見渡したが、変わらずあの病室の光景がそこにはあった。
起き上がる時からなぜか違和感を感じているが、それが一体何に対するものなのかが分からない。
とても大事なにかが駄目になってしまっているような感覚、そんなものがある。
突然、体に何かが触れてきて、軽く揺らされた。
私は驚いて、つい体を、触れてきたものとは反対の方向に思いっきり下げた。
するとベッドの上から体が落ちていき、体が衝撃によって痛んだ。
火傷の痛みがさらにひどくなり、体を悶えさせた。体の痛みに対して、うめき声を出していた。しかし、ここで私は違和感の正体に気づいた。
音が聞こえないのである。
自分の声も、ベッドから滑り落ちてしまった時の音も、起き上がる時のベッドから鳴るはずの絹の擦れる音も。
その事実に気付き、耳に手をやった時、私はかえって痛みが気にならなくなり、冷静になっていった。
そして、先ほど自分に触れてきたものの正体を確認するために、そのものの方を向いてみると、そこにいたのは先程の医者であった。
医者はとても心配そうな顔をして、こちらを見ていた。そして、私がそちらの方を向くと、医者は私に何かを話してきた。
私はとにかく、医者に声や音が聞こえない状態であることを伝えた。自分は確かに声を出しているはずなのに、聞こえるべきものが聞こえず、不思議な感覚だった。
医者の顔は驚いたものになり、そして、声を出そうとしたのか、口を開きかけ、次に白衣に取り付けられたポケットから紙を取り出して、そこにペンで何かを書き連ねていた。そして彼は私に向けてそのメモを見せてきた。
メモの内容は単純で私の耳の不調に対する質問であった。私は一応言葉を発することができたので、彼からメモで言いたいことを伝えてもらうことで、なんとか意思疎通ができた。
そして彼は私から必要なことを聞き出し終えたのか、その後、紙で私に安静にすることと、そして、私の母が明日、やってくるということを私に伝えてきた。
私はその言葉に驚き、内心動揺した。医者にはうまく気づかれないようにできたようで、彼はその後、病室を後にしていった。
私は医者と話をする間にベッドの上に戻した体をそのままにして、母のことを思い続けた。
私と母の記憶は曖昧なもので、いまだに記憶が混乱しているのか、何かを思い出すということはなかった。
顔さえ曖昧になってしまった母、私は彼女の姿を見て、何を思うのだろうか。
いや、まず、私に本当の意味での母親というものなどいるのだろうか。
病室の扉の方を見る。先程看護師が、私のために食事を持ってきてくれたのだが、彼女が、病室から出ようとすると、扉の先に人がいて、今彼女はその人に対応していた。
その人の服装は警官のようで、あの特徴的な青色を基調とした制服からそのことがよく分かった。
警察官は、看護師と長い時間話していた。おそらく、彼は私に何か話があって、ここまでやってきたのかもしれない。しかし、それでも、看護師によって、それは阻止されたようだ。
とうとう、看護師は警官との話をしながら、病室の扉を閉めてしまった。
私はその後、用意されたものを食べて、すぐに眠りについた。
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