5.Incarnation
ピアノ(キーボード、シンセサイザー含む)を音楽に取り入れて、自由自在に弾きこなしているバンドに憧れる。
指先と88個の鍵から生まれるそのメロディーは、きらびやかな音の色となって、しなやかに空気を震わせ、心の琴線にそっと触れてくる。
音に色と書いて、音色。美しい音楽は、わたしの目を鮮やかに彩るように光り輝き、一瞬の煌めきとなって消えていく。その後に残るものは、身体の中で産声を上げて湧き上がる感情たち。
やがて、生まれてくるそれに、喜怒哀楽の名前が付けられていく。
わたしの好きな女性作家の一人に、ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼルがいる。
かの有名なフェリックス・メンデルスゾーンの実姉で、600曲近い作品を書いたと推定されている。わたしはそのすべてを耳にしたわけではないけれど、「1年(Das Jahr)」と呼ばれる12曲のピアノ組曲は厳粛なピアノの音色が、まるで季節を巡るように姿を変え、思い出の世界に記憶を走らせていく。
おとぎ話。桃源郷。放浪の旅――。そんな言葉が似合うようなピアノの名曲たち。
ロマン派の時代を生きた彼女が織り成すメロディーは、わたしを古のヨーロッパへ誘う。
そんな彼女は、その出自からいろいろな束縛を受けて生きていた。
今でこそ、ジェンダーレスの時代であると社会で声高々と叫ばれ、女性も男性も幾分、意見を言いやすい世の中になったなぁと肌で感じてはいる。
わたしは、音楽には束縛や境界なんてものがないと信じている。それが音楽のすがたであり、誰が聴こうとも自由な音を奏でてくれる。
けれど、わたしたちは時々、生きづらい世界でお互いを確かめ合うように息をひそめていると感じる時がある。
だからこそ、そんな時こそ、わたしはいつも、数々の素敵な音楽を聴く。
それは流行りのポップミュージックであったり、静かな海で漂うようなバラードやソナタであったり、壮大な勇ましいオーケストラであったり――。
まだにこにこ動画が全盛期だった頃、自分のお気に入りの音楽と言うものは自分で発掘しなければならなかった。今でこそ、YouTubeとかサブスクとかで音楽を聴いていれば、「あなたへのオススメです」って感じで、自分の趣味に近い音楽をAIが検索してくれるけれど、十数年前は自分が知る限り、そんなものなど無かった。
新しい音楽に飢えていた学生のわたしは、近くのCDショップに通っては、まだ売れる前のインディーズバンドやら、ちょっと気になったシンガーソングライターのCDを借りては、自分に合う音楽を探し続けていた。
そんな中、2009年に『Scool Food Punishment』というバンドに邂逅した。わたしが知ってから3年ほどで解散してしまったけれど、「こんなにピアノがカッコよく鳴るバンドがいるのか!」と衝撃的な出会いだった。
最近で言えば、緑黄色社会もPeppeさんがキーボードをカッコよく鳴らしてくれる。『Shout Baby』のキーボード二刀流とか、超絶カッコいいもんね。鍵盤楽器をカッコよく鳴らす女の人、好き……。
最近、はまっているのが、NELKE《ネルケ》というバンド。こちらはYouTube Musicでわたしの好みを熟知しているAIさんがたまたま発掘してくれた。
以下に、『生まれ変わり』いう意味を隠した『Incarnation《インカーネーション》』の歌詞を引用する。
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散ってしまったはずの花びらってなんか
美してさ
どうして完全に嫌えない?
だけどやっぱり成功者を見ることは辛い
花は散ったとて 咲ける
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この歌詞に、わたしは今、創作意欲を掻き立てられている。
前置きが長くなったけれど、ここからが今日の話の本題――。
◆◇◆◇◆◇
二兎追うものは一兎も得ず。
と言う言葉があるけれど、よくできているなと思う。
わたしはかなり飽きっぽい性格で、1つのことが長く続かない。唯一、長く続いているのが、文章を書くことで、中学校の頃から大学ノートに日記を書き連ねたり、スマホを使ってSNSでブログを書いたりすることが大好きだった。
ブログは一時期、無駄に「1年間毎日投稿してやるぞ」と心に誓って更新し続けたこともあったけれど、今になって思い出してみると、よくもまぁ続けていたなと思う。
けれど、「いつか小説を書きたいなー」と心の中では思っていても、ずぼらで自分に激アマなわたしは、「なんとなく」の文章を紡ぐことしかできない毎日であった。
SNSを開くと、「毎日書き続けたことで受賞しました!」という投稿が、指先で目を突き差すようにチカチカと光っている。それを薄目で眺めながら、「いいなー。努力している人が羨ましい。わたしには、ちょっと真似できないけれど……」と自分に対してストイックな人を、ただただ、下から見上げるだけの日々――。
仕事柄、残業も多く、やっぱり目の前に積み重なったやるべき事も並行してやらなくてはいけない。仕事に必要な勉強もしながら、研鑽し続けなければならない。
わたしも一応、社会人の一人なのだから、軽い思いで仕事に向き合っていては、何事もうまくいかない。加えて、試験勉強もしなきゃいけない。
でも。
小説も書きたい……。
――そんな言い訳じみた葛藤が、ぽわぽわと泡のようにずっと沸いていた。
そんな中、2020年。
突然、コロナ禍に突入し、世界にとってもわたしにとっても、1つの転換期を迎えた。
緊急事態宣言が発令されて、ノートパソコンを家へ持ち帰り、在宅勤務が標準となった日々。まだ仕事も満足にできないような環境であったため、わたしは自身の体験を基にした長編小説を書き上げる時間が多分にあった。「毎朝3000文字以上は小説を書く」という目標を掲げ、わずか1か月で10万文字以上を一気に連ねたのだ。
とある人の推薦により、「その長編小説、小説現代の新人賞に挑戦してみたら?」というアドバイスを受けて、推敲を重ねて、応募してみた。
それが、わたしにとって、初めての公募だった。
結果は二次選考落ちではあったけれど、「わたしの文章が第三者から受け入れられた!」と心がふわりと舞い上がった。自然と頬も紅潮していた。
この時、自分の名前が載った小説現代は、宝物として今も手元にある。
しかしながら、これはコロナ禍であったからできたことで、通常のわたしの世界では、1+1が2にならないのである。どちらかの“1”を捨てない限り、やりたいことへの道を歩くには、肩に重い荷物を背負いながら、狭き危険な橋を渡っているのだ。
万物に与えられた平等なものの1つに、『時間』という概念がある。この限られた時間の中で何を為すべきなのか。わたしはまだ答えを見いだせていない。
いっそのこと、他のすべてを捨てて、文章を書くということに人生のすべてを捧げるのもいいのかもしれない。
むしろ、それくらいの覚悟で、自分をストイックに磨き上げて進んだ道の彼方だけに、わたしの目指す夢の切れ端が、砂漠の中で強風に吹かれてはたはたと横たわっているのかもしれない。
こういう葛藤を抱えている人は、世の中には、数多くいるのだろう。
新人賞を受賞した小説家のインタビューで、以下のようなニュアンスのことを言っていた記憶がある。(うろ覚え)
「小説を書くということは、渇望すること。自分と深く、深く、深淵の底まで向き合うこと。そこでようやく物語が始まる」
創作と言うものは、常に新しいものを身体の中に摂取して、深く掘り下げ続けて、成長していくしかない。
生きている限り、栄養のあるご飯と野菜を食べ続けなければならないけれど、2つのことを同時にこなすためには、満腹を超えて更にご飯を食べなければならない。でも、それでは太ってすぐに動けなくなってしまうので、身体の外にアウトプットして、栄養を知恵に変えて発信し続けていなければならない。
険しい道を進むには、飢えが必要だ。
だからこそ、これからも小説を書き続ける。
新しいものを食べ続けて、わたしは細胞から生まれ変わっていく。
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