4.冬告鳥と六華の便箋


 指先で、アメダスと検索する。

 手の平に収まったスマホが、気象庁のページを表示した。わたしの住む街をタップすると、つい1時間前までの気温や降水量、風速、積雪量などの情報が目に飛び込んでくる。

 3月1日正午の気温はマイナス8度、積雪深は82センチメートル。



 ――この雪がとける頃、わたしは大学生になる。



 足元の暖房から突き上げてくる熱気が、はき慣れた厚底ブーツの中に溜まり込んでいる。わたしは窓ガラスに頭を押し付け、二人掛けの席を占領していた。線路の切れ目をまたぐ振動が、リズムを刻むように、わたしの頭の中をかき混ぜる。毛羽だった制服の生地がお尻をこすり、ひどく座り心地が悪かった。通路側の席には、使い込まれたスクールバッグが無造作に投げ出され、いつかどこかで友達と買ったキーホルダーが寝そべっていた。


 窓ガラスはひんやりと冷たくて、ひどく結露していた。髪がはりつき濡れていたけど、わたしは気にせず同じ体勢のまま、窓の外へ視線を向けた。


 電車は先頭車両が舞い上げた雪煙を纏い、わたしを運んでいる。窓の外を流れる景色は、時間が止まったように凍てついた銀世界の連続。たまたま誰かが撮った雪景色を、スナップ写真のように並べているだけに見えた。時折、窓ガラスに映りこむわたしの瞳にも、真っ白な世界が流れては、陽炎のような色彩が映り消えてゆくのだろう。



 何かを刈り取った乱雑な畑。アスファルトがひび割れた道路。カラフルな色の屋根が並んだ住宅街。イタドリが枯れて色褪せた河川敷。線路脇の敷砂利。



 それらすべてのものが白い雪で閉ざされた時は、街がわたしのものになるような気がする。


 だから、冬は心地よい。身を切るような風が残す寒さも、舞い上がった雪煙が身体にまとわりつくことで、わたしの体温を上げていく。そして、毎日、電車の中で外の気温と積雪量を確認する。儀式のようなものだ。冬を数えるための。


 今日は、大雪が降った。朝のニュースによると、数年に一度の大雪らしい。今はもう止んでいるけど、電車のダイヤが大きく乱れていた。この雪のおかげで、今まで少なかった積雪が、ようやく平年並みになった。朝、天気予報のお姉さんが、一日に降った雪の量は過去最大だったと、テレビの中で興奮気味に喋っていた。


 ニュースを見なくても、わたしは知っている。積雪量は昨日まで過去最低をずっとキープしていたことも、今年の冬は史上初、降雪量が最も少ない記録を残したことも。



 けれど。

 こんな時期にようやく雪が降って、残り少ない冬の中で、わたしは一体何を準備できるのだろう。




 ◆◇◆◇◆◇




 小さい頃から、わたしの家は父も母も働いていたので、祖父母の家で過ごすことが多く、わたしは典型的なおばあちゃんっ子だった。


 祖母はとても世話好きで、家の前で小さなかまくらや雪だるま、可愛らしい雪うさぎを作ってくれた。遊び疲れて身体が冷えた後には、肌を優しく撫でる灯油ストーブの温もりを感じながら、祖母が作ってくれた舌がとろけるような甘さの甘酒をふぅふぅと飲んだ。これがまた格別で、何度もおかわりをしては小さなお腹を膨らませ、夕ご飯を残して母に怒られていた。


 祖父は元土木屋さんで、除雪車が運んできた雪の山で金属製スコップを使い、札幌の雪祭り会場かと見間違えるほど、大きなソリの滑り台を作ってくれた。幼かったわたしと更に小さな弟は目を輝かせ、起きている時間が極端に短い冬の太陽と睨めっこしながら、ひたすらにソリを滑らせていた。

 そんな長い冬の生活がとても心地よくて、雪が好きで好きでたまらなかった。



 わたしが住む町では、雪が降った時に祖母から話される言い伝えがあった。冬告鳥ふゆつげどりと呼ばれる幻の白い鳥が飛ぶ頃に、六華りっかの形をした便箋びんせんが届く。その便箋を受け取った回数が自分の身長を超えると、子供から大人になるのだと言う。ちょっとした御伽噺おとぎなばなしだ。


 だから、初雪の便りが届く日は、まだかまだかと身体が敏感になり、熱くなっていた。

 早く大人になりたくて、寒くなってきた季節にはその鳥を本当に探し求めたことがあった。



 うっすらと雪に包まれた踏切の警報機の上、枯れた河川敷から見上げる灰色の空の中、家の裏の薄暗い軒下、ブラックアイスバーンの道路沿いに立つ電信柱の間、真っ白な絨毯を敷き詰めたような広大な畑の真ん中……。



 でもその白い鳥は、探せど探せど、一向に見つからなかった。



 それが本物の鳥ではなく、雪が降る比喩であると気づくまでには結構な時間を要した。そしてそれが、祖母の作り話であると気づくまでには、更に時間がかかった。



「そういうことに気づくことが、大人になるってことなんだよ」



 そんなことを言われても、ちっとも大人になった気がしない。

 わたしにとっては、サンタクロースを信じるか、信じないかの境界線がわかってきて、親にちょっとだけ気を遣うことができる子供と一緒のような気がした。



「じゃあ、子供から大人になる時間って、どのくらいの長さが必要なのさ?」



「さぁねえ……。大人になったらわかるんじゃないかい?」



 わたしが頬を餅のように膨らませても、祖母はしわの増えた顔で笑いながらごまかしていた。




 小学生の頃はそれでよかったのだと思う。

 けれど、中学生、高校生になって、雪が降り積もっては、やがて溶けて、春がやってくる時間に身を任せる中で、なんとなく気づき始めてきた。


 祖父母が段々と年を取って来たということもあるのだろう。でも、祖父母の家で過ごす冬の生活がちょっとずつ、乗りなれた電車に座り続けてお尻がそわそわするような、変な引っ掛かりを覚えるようになった。気に入っていた毛布の長さがいつの間にか短くなっていて、足元がじわじわと冷えてくるような居心地の悪さだった。



「もしかして、大人になるということは、子供の頃に心地よかった時間や夢を忘れていくことなのだろうか」と。




 ◆◇◆◇◆◇




 大学の合格発表はインターネット上で公開されていた。自分の番号があるかどうか、朝からドキドキしていたけれど、無事に発見して胸を撫でおろした。


 後期日程での受験であり、3月中旬の合格発表であったため、ほっとする時間もなく、引っ越しの準備が始まる。



 その合間で、祖母にもわたしが大学を無事に受かったことを報告した。



「あんたが第一志望の高校に受かった時が人生で最も嬉しい瞬間だったけれど、大学に受かった時も人生で最も嬉しい瞬間かもしれないねぇ」


 と深い皴を刻みながら破顔し、何度も頷いていた。



 大学に入学したら、祖母の家へ来ることは少なくなる。わたしはたぶん、人生で最も不安そうな顔をしていたのだろう。祖母は笑顔のまま、甘酒の入ったいつものマグカップをわたしの前に置いた。



「この街から出ていく寂しさよりも、新しい街で過ごすワクワクを考えなさい。その方が、悲しみも薄まるだろうよ」



 祖母がみかんの皮をむきながらわたしに笑いかける。わたしは今年最後になるであろう甘酒をゆっくりと噛みしめる。悲しみが濃くなっても、祖母が作る甘酒の味は、いつになっても変わらないままで嬉しくなった。



 そのあとは、感傷に浸る間もなく、人生初のイベントが怒涛の如く押し寄せ、息をついている時間すら無かった。

 大学の入学手続き。新しい部屋探し。必要な生活用品の購入。荷造り。そして、新しい街への旅立ち――。




 気が付いたら、何もなかったはずの部屋に、新しいベッドや洗濯機、冷蔵庫、炊飯器が運ばれ、本やら服やらが詰まった段ボールがいくつも積まれていた。



 まだカーテンすらない新しい住処の窓を開けると、冷たい風と共に、小さな六華がちらちらと名残惜しそうに舞っていた。

 スマホを取り出して、新しい街のアメダスを検索する。積雪量は既にゼロになっていて、わたしは小さくため息をついた。明日からきっと、この街がわたしの体温を上げることはもうないのだろう。



「じゃあ、私たちは帰るよ。ちゃんとご飯食べるんだよ、新大学生!」


「甘酒は送れないけども、野菜とか冷凍品とかは送るからねぇ」



 引っ越しを最後まで手伝ってくれ、夕ご飯の準備までしてくれた母と祖母がいつもと変わらない様子でわたしの肩を叩いた。重い荷物を運んでくれた父は無言のまま煙草を吸い、既に車へ乗り込んでいるのが窓から見えた。みんなドライだなと思いつつも、わたしは「うん」と頷く。



 3人を乗せた車が砂埃を上げながら、いつもよりゆっくりと走り去っていく。その後ろ姿を、わたしはまだ見慣れないアパートの玄関で、いつまでも眺めていた。




 雪はもう止んでいた。

 もう、独りぼっち。




 まだ散らかった部屋へ戻ると、濡れるような寒さが肌を差し、身体が震えた。窓を開けっぱなしだった。すぐさま閉める。


 薄暗い部屋の明かりを点け、備え付けの暖房のスイッチを入れた。埃を混ざったような温風がわたしの手のひらをすり抜けて、身体を乾かしていく。




 大学に受かることを夢に見ていた高校生のわたしは、もうここにいない。

 その夢は、もうここに現実として存在している。



 わたしにとって、積雪がゼロになる日は、それまでの幼いわたしが心の中から巣立ちしていく日だ。



「明日からはきっと、これまでよりも成長した大人の時間を生きてく」と心に誓いながら、段ボールのガムテープを破り、部屋を片付け始める。



 ふとキッチンに目を向けると、ピカピカの鍋がコンロの上に置いてあった。蓋を開けると、まだ温かな白い湯気といつもと変わらない甘い香りが立ち上り、鼻を包み込んだ。

 

 わたしは冷えた体温を上げるために、コンロの火を勢いよく灯した。

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