天球の音を聴く風音

PRIZM

第1話 目覚め・水星の時代①

「ただいま」


 学校から帰って誰もいない部屋に入り、風音かざねは力が抜けたような声を掛ける。それは独り言であって誰かに向けたものでは無い。首には緑色のカラーゴムに通した家の鍵がペンダントのようにぶら下がって揺れている。


 誰もいないのはいつものことだ。その「誰も」というのも父と母のことである。二人ともそれぞれの仕事に出ている。夜遅くなることは当たり前。


 この時、風音かざねは小学六年生。秋には十二歳になる。

 誰にいうことでも無いが、学校では普通の人のフリをしている。多くの人たちと話が合わないことに気が付いた随分と前から、同級生や学校の先生たちとは話を合わせて、その場では問題の無いように過ごすことを選んできたのだ。それ自体が大変ということでもなかった。むしろ風音の、自分にとっての本当のことというのを他者に話すことの方が無理があることに思えていた。


(わかんない人にはわかんないことだから……)


 両親からの返事が無いことをわかった上で「ただいま」と言っているのは、ひとつの境目を作るかのようなものだった。学校の時間と自分の時間とは風音かざねにとってはまるで違う時間だったのだ。言わばそれは、公私混同しないということ。


 続けてそれから、声のトーンを一段階下げて、再度言う。無自覚にだが耳を澄ませている。一瞬目を閉じる。


「ただいま帰りました」


 これは、存在たちへの挨拶であった。

 存在たちというのは、人間以外の、という意味になる。部屋はしんと静まりかえっている。誰かからの返事があるわけでも無い。それでも風音かざねにとっては何も居ないわけでは無かった。


 風音かざねにとってはそれも当り前のこと。両親のように居ない、留守にしているというのとは違って、そこに静かに生息しているものたちが黙って自分のことを認識しているという、そんな自覚があった。

 特に用事の無いときには、むしろ返事などは不要なのだ。ただお互いの存在を確かに認識していた。

 人間が人間に対して感じること、思うこととそれは違っているようだが、風音かざねにはこちらのあり方の方が常であり、違和感など感じることは無かった。


 風音かざねの両親は、仮の姿としての社会の中での仕事をしている人たちでもあった。二人から説明されたということは無い。ただ両親を見ていることで、一緒に毎日生活している中で、ある時そう感じたのだ。


 おそらくは独特の感性を持っている三人である。その中でも風音かざねは父親の影響を濃く受けているように自分では思っていた。父が語ることはいつだって「孤独」であることの意味について、だった。


「いいかい? 地に埋もれてはいけないよ。何からも縛られることの無い自由であることを望むんだ、風音……」


 父が語り出すと、それはいつだって紺色の夜の静けさの風景へと周囲が一変してしまう。そう見えるのだ。

 風音かざねは毎日のこの時間がとても好きだった。いつまでも終わらなければいいのにと感じていた。


 その思いとは違って、父はほんの1時間程だけでその紺色の風景を自ら閉じて、日常の雑多な色の世界へと移動させてしまう。途端に同じ色だというのに、重たくのっぺりとしたまるで生きていないみたいな色の重たい世界へ。

 風音かざねはこの重たい色の世界が正直に言うと、好きではなかった。まるで鉛のように重たい色の世界が目の前に広がっている。


(つまらないな……面白く無い……息苦しいよ……)


 母は社交的だったので、よく人と会いよく喋る人ではあったが、闇を見るのが好きな人でもあった。その多くは地上にある人間と人間の中で起きる様々な感情問題である。諍いや喧嘩、妬み、裏切りということによく縁しているようだった。

 母がよく仲裁に入ったり当事者になったりしているのを見て、風音かざねはその手の人間関係は苦手だなぁと感じていた。けれど幽霊とか、そういう形式での見えない世界については父よりも感度は高かった。彼らにも感情があった、色濃いものが残ったのだと母は言う。


「生きている者の方が、本当にそれが一番怖いのよ。覚えておいて、風音」


 それは母の口癖だった。


 父は宇宙の方。母は地上の方。父も母もそれぞれの見えない世界に縁していて、町の中では仕事もしているけれど、全く別のことが本当は仕事の人たちなのだと思って見ていた。でも、スパイとか秘密組織の一員とか、そういうのでも無い。いやもしかしたら、そういう一面もあるのかもしれないけれど、それでも彼らの本当の仕事は密かに、そして確かにあるように思えた。気が付いてはいけない、気が付かないからこそ稼働している、というような、説明出来ない感じがずっと幼い頃から風音かざねにはあった。


(しかしここは、地球は、本当に重たい所、だよね……)


 何気なく風音かざねは左斜め上を見上げた。いつもわりと側に居る一頭の龍に声を掛けた。側に居るといっても身体のすぐ近くに、という意味ではない。かなり上空ではあるが、すぐそこと感じられるということであって、この家の中を龍が泳いでいるわけではない。


 家の中の空間と上空とが場所を越えて重なっている、といった方が近いだろう。

 もちろんのことだが、肉眼の目で見えるものでは無かった。

 空に浮かんでいる白い雲のような素材で出来ているように見えるその龍は、返事もしないままに、ただそこに居て風音かざねのことを認識しながらも黙って悠々と泳ぎ続けていた。


 風音かざねはその龍の存在を随分前から感知していた。実のところこの龍だけでは無い。たくさんの生命があるものたちがこの地球に居ながら、重たい身体を持つことなく生きて居るのを幼い頃から見ていた。それ自体を疑うわけなど無かった。当たり前にたくさんの生き物たちとの出会いがあるのが毎日だったし、この地球には重たい身体の生き物と軽い身体の生き物との両方がまるで混ざるように共に存在していることに何ら不思議さは感じていなかった。しかし多くの人間はそのことには気が付いていない。そういう時代なのだよ、と風音かざねは父から聞いていた。


 見たままを誰かに話すということはしないもの、ということは学んだ。でも見えない生活を選ぶということではなかった。


(いる、から、いる、と言っているのですよ、ね……)


 風音かざねは、低学年の頃から自分が小学生であることをもどかしく思いながら生きていた。意識的にはもっと成長している存在なのだ。なぜ小学生という立場を生きているのか、その方がわからなかった。理解しがたかったが、この地上社会では「小学生」という存在をやっている最中だった。ようやく六年生になったが、思ったより自由が利かない子供という立場に、ここまでのとても長い道のりをよく耐えてきたものだ、と感じていた。


(こんなことをしている場合ではないのに……なぁ)


 いつもそう思っていた。地球製の身体も重たくて扱いにくいものだった。

 ランドセルが疎ましかったのは本当のことである。早くもっと自由に動けるように大人になりたかった。大人という意味もわかってはいないと思うが、それでも例えば父や母のように、今の自分よりも自由に動いているように思えた。何より彼らは学校になど行かずに仕事をしているのだ。風音かざねは羨ましいと日々思っていた。


「ふうっ……」


 ひとつため息をついて、冷蔵庫に冷えている麦茶をマグカップに入れて、自分の部屋のある二階へと上がった。


 途中、玄関に寄って鍵が掛かっていることを確認する。夜遅くまで一人になるのだ。戸締まりには神経を使っていた。各部屋の窓という窓に鍵を掛け、再度確認する。

 夜になるとテレビを付けて前に座る。人の声がすることで、ここには他の誰かがやって来ない気がしていた。防犯という意味で安心するのだった。これで自分の時間が守られる。


 風音かざねは気が付いた時にはすでに、見える存在、例えば「人間」という生き物の方を信用していなかった。


 





 2025/01/06

 久しぶりの小説の公開です。直しながらアップしていきます。まずは第1話から。

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