天球の音を聴く風音
PRIZM
第1話 目覚め・水星の時代①
「ただいま」
学校から帰って誰もいない部屋に入り、
誰もいないのはいつものことだ。その「誰も」というのも父と母のことである。二人ともそれぞれの仕事に出ている。夜遅くなることは当たり前。
この時、
誰にいうことでも無いが、学校では普通の人のフリをしている。多くの人たちと話が合わないことに気が付いた随分と前から、同級生や学校の先生たちとは話を合わせて、その場では問題の無いように過ごすことを選んできたのだ。それ自体が大変ということでもなかった。むしろ風音の、自分にとっての本当のことというのを他者に話すことの方が無理があることに思えていた。
(わかんない人にはわかんないことだから……)
両親からの返事が無いことをわかった上で「ただいま」と言っているのは、ひとつの境目を作るかのようなものだった。学校の時間と自分の時間とは
続けてそれから、声のトーンを一段階下げて、再度言う。無自覚にだが耳を澄ませている。一瞬目を閉じる。
「ただいま帰りました」
これは、存在たちへの挨拶であった。
存在たちというのは、人間以外の、という意味になる。部屋はしんと静まりかえっている。誰かからの返事があるわけでも無い。それでも
特に用事の無いときには、むしろ返事などは不要なのだ。ただお互いの存在を確かに認識していた。
人間が人間に対して感じること、思うこととそれは違っているようだが、
おそらくは独特の感性を持っている三人である。その中でも
「いいかい? 地に埋もれてはいけないよ。何からも縛られることの無い自由であることを望むんだ、風音……」
父が語り出すと、それはいつだって紺色の夜の静けさの風景へと周囲が一変してしまう。そう見えるのだ。
その思いとは違って、父はほんの1時間程だけでその紺色の風景を自ら閉じて、日常の雑多な色の世界へと移動させてしまう。途端に同じ色だというのに、重たくのっぺりとしたまるで生きていないみたいな色の重たい世界へ。
(つまらないな……面白く無い……息苦しいよ……)
母は社交的だったので、よく人と会いよく喋る人ではあったが、闇を見るのが好きな人でもあった。その多くは地上にある人間と人間の中で起きる様々な感情問題である。諍いや喧嘩、妬み、裏切りということによく縁しているようだった。
母がよく仲裁に入ったり当事者になったりしているのを見て、
「生きている者の方が、本当にそれが一番怖いのよ。覚えておいて、風音」
それは母の口癖だった。
父は宇宙の方。母は地上の方。父も母もそれぞれの見えない世界に縁していて、町の中では仕事もしているけれど、全く別のことが本当は仕事の人たちなのだと思って見ていた。でも、スパイとか秘密組織の一員とか、そういうのでも無い。いやもしかしたら、そういう一面もあるのかもしれないけれど、それでも彼らの本当の仕事は密かに、そして確かにあるように思えた。気が付いてはいけない、気が付かないからこそ稼働している、というような、説明出来ない感じがずっと幼い頃から
(しかしここは、地球は、本当に重たい所、だよね……)
何気なく
家の中の空間と上空とが場所を越えて重なっている、といった方が近いだろう。
もちろんのことだが、肉眼の目で見えるものでは無かった。
空に浮かんでいる白い雲のような素材で出来ているように見えるその龍は、返事もしないままに、ただそこに居て
見たままを誰かに話すということはしないもの、ということは学んだ。でも見えない生活を選ぶということではなかった。
(いる、から、いる、と言っているのですよ、ね……)
(こんなことをしている場合ではないのに……なぁ)
いつもそう思っていた。地球製の身体も重たくて扱いにくいものだった。
ランドセルが疎ましかったのは本当のことである。早くもっと自由に動けるように大人になりたかった。大人という意味もわかってはいないと思うが、それでも例えば父や母のように、今の自分よりも自由に動いているように思えた。何より彼らは学校になど行かずに仕事をしているのだ。
「ふうっ……」
ひとつため息をついて、冷蔵庫に冷えている麦茶をマグカップに入れて、自分の部屋のある二階へと上がった。
途中、玄関に寄って鍵が掛かっていることを確認する。夜遅くまで一人になるのだ。戸締まりには神経を使っていた。各部屋の窓という窓に鍵を掛け、再度確認する。
夜になるとテレビを付けて前に座る。人の声がすることで、ここには他の誰かがやって来ない気がしていた。防犯という意味で安心するのだった。これで自分の時間が守られる。
2025/01/06
久しぶりの小説の公開です。直しながらアップしていきます。まずは第1話から。
天球の音を聴く風音 PRIZM @prism13
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