一裏ノ知

 その日の朝は、厳しさを増していた北風が不意に穏やかだった。町の様子もそうであって欲しかったのだが、どうやらここにも衛兵が派遣されるらしい。念のためミーフェには、町へ入った時から外出を控えるよう伝えていたものの、僕らはかれこれ一月ほど滞在している身だ。懐疑の目を向けられないと考える方が不自然だった。


 次の目的地として、ず浮かんだのは隣町だった。あそこは人が少ないから、情報も流行も一回り遅れている。国が目をつけるまで、短く見積もっても二月はある筈だ。そこも潰えれば、次は山を越えた先の集落へ行こう。幾度か訪れたことがあるが、文化から隔別された秘境に住む住民には、特有の温かさがあった。



 ――しかし、こんな其場そのば凌ぎの旅に、果たして終着点はあるのだろうか。ほとぼりが冷めるまで、統治者が代わるまで。はたまた国が滅ぶまでずっと、こうして逃げ隠れるのか。仮初めの平和を乗り換える日々は、本当に際限なく続いてゆくのだろうか。


 窓の外には、静けさを被った灰色の街並み。旭光はほのかに滲んで、石畳に柔らかな影を落としている。ずっと変わり映えのしない、退屈極まりない景観だ。...しかし、もしもだ。もしそれを切り取った刹那でも、ミーフェの視界を満たすことができると云うのなら、僕はきっと全てを――この心臓でさえも惜しまないだろう。



 ・・・隣国へ亡命すると云うのも、今となっては、悪手ともならないのだろうか。言うまでもなく、共同管理どっちつかずの森域との境界はそう容易い関門でもなければ、そうでなくとも人気ひとけのない場所で日を跨ぐことのリスクなど、到底一口に形容できる代物ではない。そんな懸念に鑑みるほど、その逃避行が魅力的に思えて果てがない。


 これも、一つの運命なのだろうか。“運命”とはどれほど無責任で、どれほど独り善がりな言葉だろうか、などと軽蔑していた時期もあったが。全ての物事は成るべくして成るのだから、超現実的な奇跡なんて幻想に過ぎない、ましてやその矛盾イレギュラーすら筋書きの一糸に過ぎないなど、大したご都合主義だ―――なんて心の内で高を括っていた僕も、実際にきわまってみれば案外に縋っているではないか。


 それに、あくまで困難は困難であって、不可能ではないのだ。見張りに配置されるのは戦争に怖気付くような腰抜けが主だと聞くから、鉄剣なまくらの一振りでもあれば如何程にもなろう。長い旅路も、周到に用意さえすれば大したことはないだろうから、むしろミーフェにとっては好い気晴らしとなるかも知れない。



 「なぁ、ミーフェ。この町での暮らしには、随分慣れたかい?」


 「そうね。でもやっぱり、散歩に行けないのは少し寂しいかしら」


 「そうか...すまないね、不自由を強いてしまって」


 「いいえ、貴方の困り顔が見たくて、言ってみただけよ。傍に居てくれるだけで、私は倖せだわ」


 ミーフェの無邪気な意地悪が、僕の微笑みも誘う。国の惨状を知らない彼女はとても純粋で、このままで居てほしいとも願ってしまう。どちらを望むのか――紙一重の世界を見る権利を前にしたとき、彼女は目を開くのだろうか。世界の美しさと世界の醜悪さ、利己エゴはどちらだろう?


 「ところでタィリア。そんなによそよそしくして、どうかしたの?」


 「あぁ、つい忘れるところだったよ。実は、また別の場所へ移ろうと思うんだが――」


 「本当に?それで、次はどんな場所へ行くのかしら?」


 「実はこの街を出ると、大きな森が広がっていてね。それを抜けた先には大きな港町があって、きっとそこなら未だ活気に溢れていると思うんだ」


 「港町なら、ウミネコのさえずりも聴こえるかも知れないわ。どの港町でも描かれているくらいだから、さぞ綺麗な声をしているのでしょうね」


 「あぁ。さえずりと言う程には繊細ではないかも知れないが、きっと愉快だろうね」




 「―――ところで


 「ところで、どうしたの?」


 「その港町にはなんでも、万病を治す祈祷師ネクロマンサーが居るらしいんだ」


 「へぇ、万病を…そんなにすごい人が、遠くの世界にはいるのね」


 「あぁ。それで――もし、君の目が見えるようになるとしたら。君はそうなりたいと思うかい?」


 「そうね・・・これまでずっと、私には見えてはいなかったから、すぐには決められないわ」


 「無理はないさ。君にとっては、それがずっと“普通”だったんだからね」


 「えぇ。だからこそ、このままでも生きてゆけるはずよ。

  ――――でも、もしそんな奇跡が起こり得るなら。私はきっと好奇心に負けてしまうでしょうね」

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君の瞳は透き通って 楓雪 空翠 @JadeSeele

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