知ノ無知

 ミーフェは、生まれつき眼が視えなかった。彼女が謂うには、光の強弱や色相程度なら認識できるらしいが、やはり不都合は多いらしい。しかし意外にも、一番は本が読めないことだとも言っていた。御伽噺が好きな彼女に、毎日のように読み聞かせていたものだ。


 その代わりに彼女は、鋭敏な聴覚を持っていた。モノトーンの世界を感じるために、色々なものに触れ、想像を膨らませているうちに自然と獲得したと謂う。殊にその感性は、他人のそれを卓越していた。風のに心をおどらせ、芝生の海をおどけながら素足で歩いて見せる姿は、心の底から一瞬間一刹那をたのしんでいるように映った。


 ―――つい、最近のことなのだ。ミーフェがと揶揄され、排斥されるようになったのは。




 僕らが生まれて十年を回った頃、城下の方で疫病が蔓延はびこったらしい。なんでも、万病に効く薬草も、国一番の祈祷師のまじないも、まるで意味を成さないのだと謂う。かくしてその天変地異は街に潜む魔女の仕業であると云うことになり、特異や類稀なる才を持つ人々が吊るされていった。


 そうなると、郊外の漁村に住む僕ら――つまり、ミーフェも例外ではなかった。幼少から親戚のように接していた周囲の人間の視線は、共通のかたきを見つけた途端に温度を失い、次第に後ろ指を指すようになっていった。状況が深刻化するほどに疎外は目に余るものとなっていた。言うまでもなく、彼女には知る由などなかったのだが。


 そんな中、『国土中の魔女を殺せ』と云うお触れを風伝いに耳にした。...まぁ、当然と言えば当然であろう。このまま事態を収束できなければ、民衆の信仰が離反するのなど容易に想像できる。異端者の排他はきっと束の間の安堵を生むだろう。内情を多少なれども理解している身だ、それが間違いだとは微塵も思わない。



 


 ――けれど。


 気が付くと僕は、ミーフェを町の方へと連れ出していた。


 何も知らない彼女は、無垢な目に煌きの色を落としていた。無論、事実を伝えようと何度も逡巡したのだ。しかし、世界の穢れを、人間の濁りを、そして欺瞞ぎまんの何たる純白を知らない彼女の“夢”を壊す勇気など、僕にある筈などなかった。


 想定通り、村を離れた時点から周辺の衛兵の巡回が目に見えるほど明らかに増えた。町についてもまるで活気はなく、町人は相互不干渉で疑心暗鬼をひた隠し合っている。そんな水面下のいさかいなど眼中に入れず、ミーフェは久々の遠出に嬉々としていた。彼女が笑顔で居てくれるなら、ここに暫く留まるのもそう悪くない。


 「ねぇ、タィリア」


 「どうしたんだい?」


 「どうしてここには、昔のような賑いがないのかしら?」


 「そうだなぁ…きっと、の病のせいさ。あまりに恐ろしくて、皆の気持ちも沈んでしまっているんだよ」


 「そうなの......えぇ、そうでしょうね。多くの人が亡くなっているんだもの、陽気でいられるはずがないわ」


 「あぁ。一刻も早く、教祖様がお救い下さることを願うよ」


 「そうね。ところでタィリア、私たちは今夜どこに泊まるの?」


 「少し行ったところに小さな宿屋があるんだ。少し質素だが、近くに屋台もあるし、なかなか悪くないと思うよ」


 「ふふっ。それはとても楽しみね」





 「ねぇ、タィリア」


 「なんだい?」


 「――貴方には、何が見えているの?」


 「   あぁ、うん...そうだなあ」


 心の臓を穿たれたような、冷たい鎖に裂かれたような。視えないはずのミーフェの瞳は、僕に向いているようで、その奥底深くにある透明の何かを俯瞰しているようだった。無知で、うつけていて、一点の霞みもないその碧眼が、僕の偽善を絆す。


 彼女のそれは、純粋な疑問であったのか。それとも、疾うに欺瞞など見え透いているがために、僕を試したのか。確かめる術はないが、世界を見られない彼女が、誰よりも世界を見ようとする底知れぬ渇望だけが変わらずそこにあった。



 「夕陽が、とても綺麗なんだ。とても…そうだな、とても由々しくゆらめいているよ」


 「由々しい…ぷふっ、タィリア、やっぱり貴方って面白い人ね」


 「そうかい?僕はこれでも真面目に答えたつもりだったんだが」


 「だって、貴方が読んでくれたどんな本の中にも、“由々しい夕陽”なんてなかったもの。今日のお日さまは、本の中とは違っているのかしら」


 「うむ・・・いや、そうではないさ。僕らがどう解釈しようと、太陽は変わらず光り続けているんだからね。それが太陽であることには変わりないだろう」


 「それもそうね。いつか私も、夕陽を言葉で表してみたいわ」


 「あぁ、いつかきっと、叶うさ」

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