急、原初の魔法
旅を始め幾年が過ぎただろうか。そもそも旅立ちの日より、時間の感覚など当に失せていたため見当がつかない。それに覚えていたとしてもそれは何ら意味のない数遊びでしかないため、ただの杞憂だった。
そんな認識があるため、もう主の祝福を口にした回数など覚えていない。数えようが数えまいがこの旅に終わりなどないのだから。それこそ本当に意味のない思考だった。しかし、どうしても考えてしまう。果てなき旅の終わりはいつ訪れるのだろうか。いつこの旅から解放されるのだろうか、と。
初めの洗礼の出来事は私の記憶に鮮明に残っている。確かにあの時間は幸福だった。直に主の御身に触れ、温かみを感じ、使命を得られた。その後の旅の道中で主の祝福を見出し、触れる度にその幸福を噛み締め、自身が成すべきことを再確認できたはずだ。
しかし、気がついたときにはそれが苦痛になっていた。飲み込むことが酷く苦しい。口にした瞬間に広がるあの抗えない感覚がとても不快だ。ひとえに私の信ずる心が弱いからに。
いつからここまで弱くなってしまったのだろう。旅立ち以前のことを思い返して、ぼんやりと考える。あの時の私は確かに強い心を持っていた。何があっても振り返らず、立ち止まらず、思いついた事を為したはずだ。
だが、今は恐れてしまっている。旅を続けるにあたって、払わなければならない代償と犠牲に恐れを抱いてしまっている。
後戻りはもうできない。その道は私が完全に閉ざしてしまった。ゆえに辛くても、苦しくても、恐れていても、進む以外の道は残っていないのだ。
この旅を続けて得たものは何もない。強いてあげるなら勝手に付いて来る話し相手ぐらいだろうか。それ以外はただただ失うばかりだった。
意思の強さを、折れぬ信心を。信頼も、尊厳も、最低限の倫理観さえも。
「また死んだ。お前がこの道を選んだからだ。多くの死を振り撒いてなお、まだ足を動かすのか?」
「……」
黒猫がいつものように私を詰る。彼女は常に俯瞰した目線から正しいことを突きつけてくる。それはとても痛いものだ。苦しいものだ。しかし、どこか私の背中を一押しする言葉となっていた。反抗心、と言えばいいのだろうか。ただ黒猫の言葉をみすみす受け入れてしまうことは本当の敗北へと繋がってしまうような気がしていたのだ。
ゆえに私はその言葉に何も応えない。聖体を隠し、主を異端と吐き捨てる背教者の屍の山を越えてその御身の元へと歩を進める。
「だんまりか。……まだ進むのか。言葉よりも行動で示す人間だったな、お前は。さあ、次はどうするんだ? もうやっていないことを数えた方が早いだろうな。どれ、オレが数えてやろう」
挫けそうな私を確実に折るために黒猫は言葉を並べ始めた。煩わしいことにその言葉の端々に嘲笑が溢れており、いつも以上に楽しそうだ。
「村を焼くか? 橋を切り落とすか? 井戸を枯らすか? 川に毒を混ぜるか? ああ、どれも間接的だったなあ。罪の意識は紛れたか?」
「……罪の意識などありません。それらは、確かに正しいことでしたから」
「……どうだかな」
背教者たちの隠れ家を漁りながら主の祝福を探る。黒猫の弁を聴かないようにしようとも、妙に通る声は否が応でも頭に入ってくる。言葉を聞いて今までの旅路の光景が頭を巡る。思い返す情景はどれも普通の人間であれば躊躇う所業だった。
しかし、それは正しいことのはずだ。他者が私のことをいくら残忍な人間だと詰ろうが、私の行ったことはきっと正義に該当するはずなのだ。
「ナイフで刺すか? 弓で撃ち抜くか? 槍で貫くか? それとも首を切るか? いずれもお前が成果を得るために行なった直接的な方法だ。どうだ、ついさっきまで生きていた肉が熱を失う感覚を覚えているか?」
「……必要な、犠牲です。私が旅を…成すための」
「それは結構なことで」
おおよその目星をつけて床を叩く。その行動を背後からまじまじと観察しながら黒猫は再び言葉を重ねる。彼女の放つ言葉は先ほど以上に嘲笑を含んでおり、棘も鋭く弱くなった私の心を貫いた。同時に、再度旅路の情景が思い起こさせる。
酷く血に塗れた惨状。反撃に遭い口内で滲む鉄の味。得物を握った手に残った小刻みに震える力の余韻。いずれも聖職者であるのならば記憶の底に秘匿しなければならい出来事が意識の薄層に浮上する。自分が起こした衝撃的な光景に面くらい、身をこわばらせて言い淀んでしまう。
言い訳がましい言葉を捻り出し、なんとか身体に力を込める。同時に床が大きく軋んだ。エリーはそちらの方に目をやった。どうやら、彼女の推察通りこの建物には地下があったようだ。軋んだ床板を引っ張ると綺麗に外れ、下に続く階段が姿を現した。
「なるほど…まだ蒐集を諦めないのか。……お前は本当に強いな。さて、これで何度目だ? まだ飢えているのか? それとも、お前の目には『穢れ』がいまだに輝いて見えているか?」
酷く深く刺さる。身体には一切の違和感はない。強いてあげるなら先ほどのいざこざで擦り傷を負ったぐらいだ。それ以降に目立った外傷を負った記憶はない。ならばこの痛みは黒猫の言葉によるものだろう。
「……見つけた」
ぼんやりとした意識の中、過去を思い返しながら、しかし前に進む意思を強く持って地下の固く封鎖された扉を開放する。中には棺が安置されており、その隙間からは名状し難い瘴気が発せられていた。それは確かに祝福だった。私が旅を続ける理由。蒐集しなければならない尊き輝きだったはずだ。
しかし、心が弱くなったがゆえに、いつしかその輝きは褪せ、私の思いとは異なり身体が忌避するようになってしまっていた。
「さあ、拝領の時間だ。……何を固まっている? それを得るために多くの惨劇を生み出してきたのだろう」
黒猫が囁く。その囁きは私の身体に進むことを強制させた。
そうだとも。彼女の言う通り私が起こした行動はすべてこの瞬間のためにある。だから早くそれを掴め。そう身体に言い聞かせ、信じられないくらい重くなった四肢を無理やり動かした。
こうして私は何度目かの『穢れ』を喰らった。
「……っ、うっ、ぐ、あっ……」
瞬間、口の中に広がる異物感。思わず嗚咽の声を漏らす。幾度も喰らったはずだ。なのに。いつのまにか。私の身体はそれを拒絶するように作り変えられていた。
うっすらと吐き出してしまう映像が見えた。しかし、それは絶対にあってはならないことだ。すぐさま両の手で口元を強く押さえ、上を仰ぎながら飲み込んだ。
「……くっ、う!」
肩を揺らして気を落ち着かせる。だが、落ち着かせようとする思考とは反対に込み上げてくるものがあった。初めの頃はその温かみに優しさを感じていたことがあったか。経てして、今の私は過去の自分に疑問を抱いてしまう。あの優しかった温かみをもう感じることはできない。なにしろ私の淵から湧き出てくるものは妙な熱さと嫌な粘性を持ったものだった。『穢れ』を得るたびに肥大し、かろうじて飲み込むことはできるものの完全に晴れることはなく、いつまでも滞留し続ける詰まりだった。
残念なことに今回ばかりは飲み込むことはできなかった。今まで続いた黒猫の言葉か、はたまた背教者どもの存在か。あるいは哀れなほど弱く、矮小な存在になってしまった自分か。どれが原因かはっきりとしないものの、私という存在を構成する要素の決定的な何かが壊れてしまったことだけが確かだった。
「……ん、で」
「どうした?」
「なんで、なんで。なんで! どうして私がそこまで責められなければならないのですか! ええ! 確かに私は殺しました! 何度も、何人も、数え切れないほどに! 私の旅路を邪魔する者を、主の威光を否定する者を葬りました! たとえ彼らに罪がなくとも、私は私の旅のために、主に祈りを捧げる者のために、そんな無辜の民を殺していきました! しかし、それはひとえに彼らが他を排斥する意思を持っていたが故じゃないですか! あからさまな悪意をちらつかせ、主の存在を軽んじ、都合のいい盾に仕立て上げ詰ってきたことが始まりじゃないですか! 異端? そんなことは知りませんよ。もとより孤独な身を救ってくれたのは彼らが異端と嘲笑する者たちでした。見捨てることしかできない者たちに何かを指図されるような言われはありません! なのに、平等な救いを求めるなど烏滸がましいほどにも程がある! その烏滸がましさこそが。いくら弱者を追い立てても満たされぬ強欲さこそが、救われない所以なのだ! その有り様こそが罪なのだ! 結局のところ全ての人間は罪人なのだ! それを自覚せずしてなぜ救いを求めるのだ、愚鈍どもが!」
吹っ切れる。今まで飲み込んできた熱い塊が言葉となって堰を切る。今まで抑圧されていたためか言葉は止まらない。息をすることさえ忘れて下品に言葉を吐き捨てた。同時に身体に熱が回る。言葉としてあの酷く熱いものが流れ出ているのにも関わらず、熱が身体を支配した。信じられぬことにそれにはどこか心地のよいものがあった。あれほど忌避していた不快な熱が全身を侵食すると、むしろ私にある種の快感を与えていたのだ。これほどの快感を得るのは私にとって初めての体験だった。
「……ああ、それだ。そうさ、それだよ! オレはこの時を待っていた! ようやくお前は辿り着いたのだな! ようやくお前は真に祝福を受け入れたのだな!」
大きな熱と攻撃性を持った言葉を一身に受けた黒猫は最初こそ硬直していたものの、一心不乱に言葉を垂れ流す私を見て大きな声を上げた。その声に嘲けり、笑うような意思は込められておらず、なぜか歓喜に近い感情が込められていた。
普段とは一変した様子を見せる黒猫に戸惑って、わずかに私の中に溢れる熱が弱まった。
「それが何だかわからない様子だな。いいだろう、教えてやろう。それは最も古く、原初の魔法に近いものだ。癇癪、逆上、激昂、嫉妬、憎悪、怨嗟、恩讐、憤怒。それらに連なるもの……すなわち怒りだ!」
「いか、り?」
「ああ、そうだとも! お前はようやく神の成果物をその身に宿したのだ! 祝福を……穢れを。いいや、神の遺骸を喰らったお前は旅の目的を今、この瞬間に成し得たのだ!」
黒猫は大きく笑い。初めてエリーに救いの言葉を言って聞かせた。同時に何かがぐらりと揺らいだ。
全知たる神が育て秘した禁断の果実を口にして、知恵を得た。では、その神の臓腑を喰らえば、何が得られるのだろうか?
果実は育てられることで知恵を孕んだ。であれば、神は神たるに至るまでに何を得たのだろうか?
その問いに関して考える時間など二人には必要なかった。神が神として成るまでに得たもの。それはすなわち情緒である。情動である。どうしようもなく無駄で、不完全な機構、心をその身に宿したのだ。
つまり、神は心を宿し、慈愛を得たからこそ大敵にさえも愛を捧げ自壊したのだ。
であれば。
であるのなら。主が死に際に覚えた情動は、死に至るまで抱かなかった感情は何になるのか。
「怒りだ! 怒りこそが、神がお前たちに、いいやお前に残した最後の恵みだ。復活のその時までにお前が抱き、保管し、無知蒙昧かつ白痴な信徒たちに教導しなければならない智慧(ちえ)なのだ!」
視座が塗り替わる。猫の皮が破れる。先程まで愛らしい容姿を保っていた四つ足の獣は見る見るうちに肥大化して立ち上がり、人の様相を取り戻す。背からは二対四枚のコウモリを思わせる、しかしどこか傷ついた羽根が大きく飛び出した。刺々しい黒の毛皮は艶やかな光沢を得て極上の絹衣へと変化する。
「黒猫という名は捨てよう。もうその皮を被る必要は無くなったからな。オレは、オレこそは! 原初の神より分たれし三番目の眷属であり、大罪を冠する悪魔なり! 我が名をガイア! 677の記号を刻み、燃ゆる権能を振るう神の代行者である!」
声を上げる者は黒猫ではなかった。黒一色の召物を纏った目を見張るほど麗しい貴婦人だった。
「さて、オレの聖女よ。改めて問おう。名前を何という?」
ガイアは棺の前で膝をついた彼女に手を差し伸べた。丁寧に割れ物でも扱うかの如く優しく問いかける。
「私は、エリー……エーデルト・リネアーネ・トムソン」
エリーは目の前の使徒に名を告げる。誰にも明かしたことのない、主しか呼ぶことのできない真名を。
すなわち、エリーはようやく自分の自分としてのありようを見つけ旅の終点へと至ったのだ。
啓行世界録 秋月 影隻 @eiseki3145
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