破、黒猫の詰問

 人は愚かだ。それは遥か昔から現在に至るまで変わらない。

 何かを成すために打算を積み重ねても、一度瓦解すると放り投げる。培った感性のままに抱いた夢や希望を口から垂れても、障壁に面すれば平気で嘘で塗り替える。つまるところ傷つくことを恐れ、上手くいかないことを何者かのせいにして押し付ける、無責任で未熟な存在だ。

 実際その火の粉はオレにも降りかかった。奴らの不衛生さが招いた疫病の蔓延を神の祟りやら悪魔の呪いなどと形容し、挙げ句の果てにはそのような超常存在には干渉することさえままならないために、オレたちを尊き者どもの眷属と解釈して何度も殺しにかかってきたものだ。

 別にその解釈自体は否定しない。神の与える問いの解釈とは自由なものだ。問題なのは奴らの限度というものを知らないところだ。己らを苦しめる病から逃れるために、何の罪のない同胞たちを理不尽に捕え、痛ぶり、惨殺した。その様は今も脳裏にこびりついて離れることはなく、アイツらの悲痛な叫びまでもがオレの中でこだましている。

 幸か不幸かオレは生き残っているが、そんないらぬ記憶ばかり覚えているものだから、いつまで経っても腹の虫のいどころが悪いままだ。いいや、それでも満足することはあった。

 何の罪もない存在に病の原因を押し付けて駆逐するだけしたところで望んでいた効果が得られなかった果てに、いつもの責任転嫁をし合って自滅していった様はとても見ものだったか。

 そんな愚鈍ばかり見ていたせいか、いつしかオレの中で人間に対する興味は辟易としていた。

 しかし、今日、オレの人間への興味を再起させた女がいた。他の愚鈍と違い、いつまでも信念を曲げずに進み続ける女がいた。その道に果てなどないのにも関わらず、選んだ責任を果たすべく諦めることを知らぬ女があった。

 側から見れば無愛想な雰囲気を纏った面白みに欠ける女なのだが、教会の衣に身を包み神に使える役でありながら、ドス黒い何かを内包しているように感じられた。

 ああ、そうだ。確かオレはこれに触れたことがあったか。

 あるだけで周囲を侵食し、腐らせ、何もかもを終わらせる不浄の塊。死してなお残り続ける過去の怨嗟。すなわち穢れ。あろうことか誰よりも敬虔で、清廉潔白でなければならない教会の人間が、不浄の象徴たる穢れを好んで蒐集していたのだ。

 この矛盾に対し溢れる好奇がオレの身体を突き動かしていた。


「おい、お前」

 誰かを呼び止める声が響いた。その声はエリーにわずかな逡巡を与えたが、すぐに振りほどき、気にも留めず前へと進む。旅先ではエリーを呼び止める者が何人もいた。大半のものは敬虔な信徒による呼びかけだったが、今いるような寂れた地では信仰心というものはひどく薄れてしまっており、どこか悪意を持って近づいてくる者が多かった。

 エリーはいつのまにか抱いてしまった利己的な不純さに辟易しながらも、身を守るためであると適当な理由をつけて呑み込もうとした。

「お前だよ。教会の装束を纏った女」

 辺りには人の気配がなく、繁茂する植物に覆われ廃れた家屋が乱立している。何度も呼びかける声に応えうる気配がないことに薄々気づきつつ、服装まで指定されてしまえばエリーは振り返るほかなかった。しかし、声の方向に目をやっても人の姿はなかった。最近の旅は眠れぬ夜が続いている。それゆえに溜まった疲労から来た空耳だろうと自身を納得させて再び歩みを進め始める。

「無視をするな! クソ、面倒くさい。下だよ。振り向いて目線を落とせ!」

 妙に頭に残る甲高い声で叫ぶ何者かは再びエリーに指示を出す。いい加減その声が煩わしくなって、エリーはもう一度振り返り、今度は言葉の通りに目線を落とした。

 そこには、詳しく言えば彼女の足元には柄のない黒一色の猫がエリーを見上げていた。

「猫? ……そんな訳ないか。やっぱり疲れているのかな。そろそろ休まないと」

「止まれ! その通りだ。猫だよ。というか、それしかないだろう。こんな廃村にまともな人間がいるとでも思ったのか? ……それとも人間様以外が言葉を喋ってはならない、という規則でもあるのか?」

「……そんな規則は聞いたことがありませんが、人語を話す黒猫を見れば奇怪に思うのが通常の感性では?」

「ただの嫌味だ。受け取らずに流せ。……真面目かよ」

 非常に愛らしいフォルムから発せられる棘のある言葉はどこかエリーの認識を狂わせる。人間ならともかく動物から話しかけられるというのは初めての経験で、どう対応するべきか迷っている様子だった。

「ええと……何か御用ですか、黒猫さん?」

「……随分印象と違うが、まあいいだろう。要件か。少しお前に興味をそそられてな。お前、随分と穢れているだろう」

「……」

 瞬間、エリーの身体が硬直する。『穢れ』それはこの旅で何度も投げかけられた罵倒だった。信仰なき者や異邦の身である自身を気にくわない者が彼女の旅を否定するべく吐き捨てる、乱暴で非常に無礼な言葉だった。

 両手で数え切れぬほど浴びせられた言葉に薄々慣れてきた頃合いだったが、人とは違う存在によって浴びせられるとまた異なる感情が腹の底から湧いてきた。

「隠しておきたかったのか? なら無駄だ。オレにとっては酷く臭うものだからな」

「……合点がいきました。私の存在が気にくわない、ということですね」

 喉元まで迫り上がってきた感情をなんとか呑み込むと途端に気持ちが落ち着いた。そのおかげか口から飛び出す彼女の言葉にはどこか突き放すような冷たさを纏っている。鋭い言葉をもろに受け取った黒猫は、何がおかしいのか大きく失笑した。

「おいおい、結論を出すのが早すぎるぜ。もしお前の存在が気に食わないのならとうに喉元を掻っ切っている。純粋な好奇だよ。お前のような人間を見るのはオレのにゃん生……人生で初めてだからな。どうしてそうなったのかが気になっているだけだよ」

 引き笑いしながら黒猫は物怖じせず語る。人と違う面持ちから彼女(?)の感情を察することは非常に難しいが、その佇まいから本当に敵意がないことを感じ取れた。しかし、主の祝福を『穢れ』と罵られたのには変わりないため、口調は変えず、淡々と真実のみを語った。


「……洗礼の旅、ねえ。教会の奴らはまだそんな無駄なことをしているのか。いや、しかし、お前みたいな者がいるのを考えると、ある種の成功とも言えるのかな」

「……何か、気にくわないことでもあるのですか。私の、私どもの在り方に」

「ない。別に真実を述べているだけだろう? ほら、お前たちの信ずる神は死んだ。過去の威光に縋ろうとも亡くなったものに祈りを捧げたとて何になる」

「いいえ、まだ主は完全に亡くなってなどしておりません。今やその威光は限りなくゼロに近いものですが、世界に希釈され、巧みに溶け込んで私どもに啓示を与えてくださります」

「ふうん。つまり、過去ではなく現在のありように信心を向けているということか。……面白いな、お前」

 くつくつと低く笑いながら黒猫は言葉を紡ぐ。ときおり煽るような物言いをするが、エリーが反応する度に一点変わって真面目な返答をするため、そういう性分であると呑み込むしかないようだ。

 面倒なものに絡まれたとエリーはこめかみのあたりを抑えて顔を上げる。気がつけば太陽が天上に昇っており、ちょうど昼時であることを告げていた。

「……では、私はこれで。そろそろ行かなければ、次の目的地に到着する頃には日も暮れて、獣か何かと勘違いされそうなので急がせていただきます」

「そうか」

 実際、次の目的地までは遠い。つい昨日発った街で入手した地図から目算すると、急いでも夕暮れ頃には着く時間帯になってしまっていた。ゆえに気早に足を動かさなければならなかった。しかしそれはあくまで建前で、本音としては一刻も早く目の前の問答を放り投げて逃げ出したいというのが最も大きな理由だった。

 黒猫の返答を待つまでもなく振り返り、彼女は目的へと続く道を進み始める。この場合走る、というのがいい選択となるのだろうが、人がいるはずもないのにも関わらず外聞を気にして足音が鳴らない程度の力で地面を蹴って進んでいった。

「随分と急ぐじゃないか。あの街を出た時はそれほど急いでいるようには見えなかったが、何か心変わりでもあったのか?」

「……一体いつから私のことを知っているのですか? いいや、この際それはどうでもいいです。何故ついてくるのですか?」

「ああ、お前の許可が必要だったか? いかんせん面倒なことにだな、お前との会話だけではオレの好奇は満たせないらしい。つまるところ、お前の末路に興味が湧いた。それが理由だ」

 エリーは若干呆れつつ、しかし諦めずに速度を上げる。大抵の人ならば嫌悪感の含まれたその行為を受け取って気を悪くし、諦めてしまうことだろう。しかし、相手は人ではない。なんの変哲もない、特別なことと言えば人語を解する黒猫だ。ゆえに人の感性など通じないのかもしれない。

「そうですか。勝手にしてください。しかし邪魔はしないでください」

 やがて目的地である国の外れの村の入り口を視認しては、逃げ切れなかったことに少しだけ心残りに感じながら、黒猫の旅への動向を渋々容認するのだった。

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