啓行世界録
秋月 影隻
序、エリーの洗礼
教会の離れ、月明かりが照らす湖畔を臨む花園にて黒い絹衣を纏う少女が呆然と立つ。教会の信徒である彼女はこの清風明月な光景を見て何を想うのだろうか。革製の手提げ鞄を持って、仏頂面のままぼんやりとしていた。
「エリーは神様のどんなところが好きなんだい」
芳しい花の香りを纏った花園の主が声を上げる。信徒らしからぬとんがり帽子を被った彼女は、どこか楽しそうな表情を浮かべていた。
「好き、ですか?」
「ええ……あまり要領を得ないかしら?」
彼女の問いかけに反応して、エリーはようやく眼下の景色から目を外す。秘め事を隠すように濃厚に重ねられた芳香は眠気を誘うように芳しく、しかし、爛れるような甘さに呑まれることなく彼女の目をまっすぐと見た。
「私は彼らの自由さが好きだわ。自由に生まれ、自由に生き、自由に殺し、自由に生かす。彼らの些細な感情の動きは、私たちにとってはとても理不尽で壊滅的なものなのかもしれない。でもね、それは視座の違いに過ぎないの」
花園の主の答えを聞き、彼女が何を言いたいのかようやく合点がいった。
視座の違い。それは教会の教えにも確かに存在するものだ。
大地が揺れるということは主が喜ばれていることの形容だ。木々が燃えるということは何かが間違っていたことへの解答だ。川が溢れるということは恵まれぬ者たちへの慈悲の応酬だ。空が荒れるということは抑えきれない憤怒を抱いていることの証明だ。
外界の存在に敗れ、死に腐り、森羅万象へと霧散した主はそのようにして我々に意思を伝えてくださる。恵みを与えてくださる。より善く、より神聖なものへ昇華するために。
「視座の違いによって私たちと彼らの認識には大きなズレが生じてしまう。ああ、別に教義を否定しているというわけではないよ。だけど、どうしてもズレというものは生じてしまうものなのさ。しかし、一つの事象で多くのことを解釈させる自由さと、そのズレた解釈さえも己の意思として容認する寛容さがとても好きなの。……難しいかしら」
「いいえ、わかります。教義の外側にある神への認識、ですよね」
その通り、と力強く肯定して、花園の主は湖畔へと続く道を行く。言われるまでもなくエリーは彼女の後に続き、『神への愛』という問いについて考える。今までの苦境を、祈りを、救いを、それらが齎した全てを思い返して思考する。
「私は……特にありません」
「あら、意外。君は他の教徒と比べてより一層敬虔じゃないか。それに一切の理由がないとでも言うのかい?」
「理由はあります。しかし、それは貴女の考えるような俗物的なものと必ずしも一致するものとは思えないのです」
「……俗物的、か。真面目ね。そりゃ、洗礼の巫女に選ばれるわけだ」
核心的な部分を突かれ、花園の主は黙り込む。教会の意向とは裏腹に俗物的な観点で神を捉え、それを上手いように利用していた彼女にとってはちくりと刺さる針のように鋭利な言葉だった。しかし、その背徳感よりもエリーの敬虔な思いにどこか胸のすくような感情を抱いたのも真実だった。
「……強いて言うなら、盲目的に信頼を寄せる者に応えてくださるところでしょうか。……私は生まれながら『愛』というものを知りません。孤独な育ちだったがゆえにそのようなものは何もわからないのです。義父は主に愛を捧げなさいと言いますが、一切知り得ず形容できないモノを妄想し捧げることなどできません。ゆえに私は、何もわからないまま大切な物を捧げました。『愛』というものは何かを犠牲にして、その上で払われた代価を受け取った者が解釈して生み出すものでしょう? そう、知りました。……花を捧げました。私は花を育てるのが上手かったので、庭に咲く全ての花弁を刈り取り、輪にしました。本を捧げました。他の教徒よりも読み書きができ、外部の者とも関わりを持てたので、義父よりいただいた全ての書物を燃やし、知恵を贈りました。髪を捧げました。義父が私の黒い髪を綺麗だと言ってくれたことを思い出したのですぐに切り落としました。血を捧げました。己の縁(ゆかり)無きを呪っていたとき、唯一義父が私の赤に祝福を与えてくれたので首を切り裂きました。……思い返せば諦めもあったのでしょう。思いつくものを片端から捧げていつからか私は捧げるものがなくなってしまいました。しかし、そんな幾重にも渡る愚行も主は許してくれました。彼は私に気づきを与えてくれたのです。望むことの愚かさを。変わりゆくことの雄大さを。しかし、それは私が見出した愛です。それが貴女の言う好印象に繋がるとは思えない」
淡々と語ったエリーの答えは花園の主が提示した問いの意図とは少しズレた回答だった。しかし、同時に納得もあった。彼女は如何にして敬虔たる旅の巫女へと推薦されたのかを、花園の主はようやく理解することができたのだ。
「ふむ。あくまで伝道者にはならない、と言うことなのね」
「どこかおかしいでしょうか。それともやはり私は他の方々と比べて吝嗇に塗れているのでしょうか」
「どうだろうね。その答えをこれからの旅で探してみるのもいいと思うよ」
ほんの少しの時間潰しのために始めた応酬は花園の主に予想以上の意義を与え、終わりを迎えた。白のビロードの坂を降り終え、二人の目前には白い花弁の浮かんだ湖が広がっていた。
「さて、与太話はこれまでだ。これ以上君と彼らを待たせるのは忍びないからね」
月はすでに天球の頂へと至っていた。花の間から覗かせる水面は三日月とそれに侍る星々を写している。しかし、鏡面を過ぎれば昏い水が満たしており、月の欠けたるところを通じて湧き出ているように感じられた。
「湖畔の魔女の名の下に、これより湖の封印を解く。教会より見出されし敬虔なる巫女よ、先の水鏡にて身を浸したまえ。そして、初めの祝福を拝領するのだ」
水時計の杖を持つ彼女が何やら聞き慣れぬ言葉を呟くと、湖の中心が大きく跳ねた。下から眺めれば、月のぽっかりと空いた虚空と湖が一時的にだが繋がったように見えたことだろう。鏡が砕けるような音を響かせて、決定的な何かが崩れ去ったことをエリーに知らせた。
花園の主の言葉に従いエリーは裸足で湖に歩を進める。足を動かすたびに彼女を起点として湖面に波紋を生み出し、写していた星空が偽物であることを知らせた。それでも足に触れる冷たさは歩む彼女の動きを拒ませる。それは鏡面上の完全な律を本物へと押し上げようとしているようだった。だが、この拝領を拒むことは許されない。ゆえにエリーは染み入る冷たさに身を任せながら昏い水へと沈めていった。
肩まで浸かるころには浮上させようとする力が完全に消失した。昏い湖の底、冷たい深淵は彼女を受け入れたのだ。実感して、すぐに状況が転じる。彼女のか細い足の指先を深い泥濘が捉え、その全身を水中に引き込んだ。
エリーは抵抗する素振りさえ見せず身を任せ、背を深淵に向けて水面を仰ぎ見る。水の昏さとは裏腹に、湖面の裏面には宇宙が広がっていた。どうしようもなく眩いそれから目を避けようにも、肢体は自身の制御が効かぬほどまで重くなり、身をよじることさえままならなくなっていた。冷たさは増し、息も絶える。だが、苦しさはどこにもなく、そこには全身を包む心地よさだけが存在していた。停滞した空間に流れはなく、しかし、心地よさに身を任せていれば自然と身体が宙を周り、水底に目が入った。
そこにこそ輝きがあった。裏面の星々より分たれてもなお、懸命に光る塊があった。
教主や花園の主より祝福の正体について何の言葉も賜っていなかったが、僅かな確信がエリーの心中に現れる。それはいつか得た気づきに似ていた。どこか冷たく拒絶するようでいて、しかし暖かな輝きを持った神からの愛に。泥濘の微睡みの中、エリーは赤く柔らかいそれを掴みとり、一口で飲み込んだ。
神は敗れ、腐り落ち、霧散した。であるのならば、再び全てを蒐集しよう。そしてその全てを呑み込んで己の腹に孕ませよう。
邪な想いを全て捨て去って、ただこの幸福を拝領できることを彼女は悦に感じた。
それこそが彼女の旅の始まりで得た最初の洗礼だった。
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