百番の孤独

@jikokuyu001

第1回

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、100__つまりゴルムズリア家の3世代目の男___は恐らく父親に連れられて初めて「」を見た、あの、茹るような夏の夜の喧騒と、素知らぬ顔をしたお青白い月を思い出したに違いない。当時の村には創世以来誰にも顧みられたことのないであろうごつごつとした物悲しい岩がまだ多く転がっており、そのことが余計“それ“自体のもつ、ある種異常とも取れる角のなさ、柔らかさのような優しさと憂いを帯びた笑みの恐ろしさを引きたたていたのである。

「」がこの村で祀られるようになったのはいつの頃からであったろうか?もしかすると、いいや、村の誕生以前から、“それ“は畏れられていたのに違いないだろう。「」があの形をしてあの笑みを湛えている限り、人という脆い種は畏怖の念を抱かざるを得ないのだ。

この村で「」に初めて触れたのはは2と5の夫婦だった。2と5__その頃はまだハスパ・ゴルムズリアとセカ・ゴルムズリアという名前を持っていた___は、遠く20レピカは離れている別の村を飛び出して、道中出会った多くの若者を引き連れながらこの、水捌けの良い川のほとりの地にやってきた。当初この地はシダの生い茂るばかりであったが、ハスパ・ゴルムズリアは本人でさえ気が付いていなかった指導者としての才覚を発揮して、男たちをまとめ上げ、畑を作り、牛馬を飼い、家を建て、たった3年で立派な村を作りあげた。その功績の裏にはセカ・ゴルムズリアと彼女の纏める女たちの献身があったことをハスパは最期までまで知らなかっただろうが。

一年と五ヶ月続いた雨季が終わったあと、ハスパとセカは街で驢馬を買った帰り、道に迷った。ジャングルとは生来迷いやすいものではあるがしかしその迷い方は常道を外していたと言っても過言ではない。太陽は沈まず常に地平の果てを跳ねるように動き、蔦は不気味に蠢く。街で買った驢馬はすでに喰らっている。三日だったか四日だったか(それすらもわからなかった)歩き続けたのち、少しひらけた場所に出た。何らかの遺跡のようなところで舞台があり、その上に塔のようなものがある。塔の上には像があり、その像は微笑のようであった。もしも二人に少々の学があればそれがアルカイックスマイルというものであったことに気づいたのかもしれない。当初、二人は押し寄せる情報___感情だとか知識だとかそういったものではない胸に去来するナニカ__に打ち震えるしかなかったのだが、太陽が三度跳ねた頃にはやがて頭も冷え始めていた。そして後には確信、否、歴然とした事実だけが残った。

「我は『5』なり。畏てこれを崇め奉り子等にその数を与えり…」

かつてハスパ・ゴルムズリアだった男、5は叫んだ。

「我は『2』なり。我予言す。『1』の名をもつ女、降りて村の男との間に子を成したまえり、その子悪魔なりや?福音なりや?…汝、禁忌を犯すなかれ。肉親の子、禁忌の子、忌子、この地に災厄を齎し、等の人々の建つる街を得ざらしめん…」

かつてセカ・ゴルムズリアだった女、2はそう叫んだ。

太陽はついに発狂することに決めたかのように天球を縦横に駆け回ったが、二人にとってはどうでも良いことだった。

二人は「確信」に従い___いや、従うなどという次元のものではなくただ“そう“あるからそうすると言った、さながら我々が存在するように、定言命法の自明として“そう“したのだが___村に帰り、やがて村の者全員にその「名付け」を受けさせた。彼らはそれぞれ自らの素数を確信した。この村の第一世代の者どもが「素数の民」と呼ばれるのはこれが所以である。

幾らかの歳月が過ぎて、村と「」が小さな獣道で繋がれ、また、村の中央に電気が通るほどには村が発展した頃、17の女が初めての子を産んだ。それは芒洋として捉え所の何とも大きな赤ん坊であったが、しかし村の者どもに訪れたのは困惑であった。その頃の村では皆、名前という観念が消失していたがために、その赤ん坊を何と呼べばよいのか、「数字を持たないもの」がそもそも人間であるのか確信が持てなくなってしまったからである。赤ん坊の父親である23はその夜彼の親戚一族を引き連れ細い森の獣道へと分け入っていったのを2と5はただ見送るしかなかった。やがて、夜の明ける頃、鳥の騒めきの甲高い声と共に地平線が真っ赤に染まったかと思うと、数刻して17と23が赤ん坊を抱えて戻ってきた。赤ん坊の額にははっきりと391と描かれていた。17・23=391。彼が第一の「刻まれたもの」だった。

5達が畑を耕し、家を建て、生まれた子供は5歳になるまでは一様に0と呼び、5歳の歳の祭りで「名付け」を行おうなどとと決めている間に、いつしか2も子を孕んだ。2のお産は難しく険しいものであった。ようやく中の子の双頭が彼女の腹から顔を出した時、彼女の懐妊から十二度の雨季が過ぎ去っていた。その双子___同じ時に腹から出てきたにも関わらず男女だった___の兄はやがて筋骨逞しい立派な体躯を持ち、また頭の回転も知的好奇心も人一倍早かったがしかし粗野な言動が目立つような、あるいは村を建てた立派な父へのコンプレックスから自らにその粗暴さ荒々しさを課していたのかもしれない。若者へと成長した。一方妹は、特に何か他者に対して優れて秀でたところはないが、どこか懐かしいような暖かさのもつ少女へと成長した。この兄妹の評価は「優れているところ見るべきところはあるがどことなく父母にいまひとつ及ばぬ兄妹」で一致している。

さらに30回の雨季が流れ、妹の10は村の要人の一人息子であり、「こちらは親の遺伝子を余すところなく受け継いだ」と噂されている21___親の3と7の才覚は2と5のそれに比べて劣っていたと言わざるを得ないのだが___の元に嫁いだが、当初2はこの縁談に反対していたことは触れておかなければならないだろう。というのも21の母である3は2の従姉妹に当たる人物だからだ。

「血縁が近すぎるわ。小さい村ですもの、こんなことを繰り返せばいつかはこの村は滅んでしまうでしょ?」

「汝、禁忌を犯すなかれ。肉親の子、禁忌の子、忌子、この地に災厄を齎し、等の人々の建つる街を得ざらしめん。」

それは彼女自身が口にした予言であった。

しかし当時の多少の繁栄にあって村に突如立ち現れ始めた「政治」的重要性という観点から5と7が急速にその縁談を進めたのだった。それでも、10と21の結婚にはそのような裏話はあったにせよ、二人の仲は険悪ということはなく、むしろ睦まじかった。兄の10もまた、粗暴ではあったが妹には優しく、時折新婚の彼らの元に立ち寄っては世話を焼いていた。

いずれの嵐の夜であったか、10もまた子を孕んだ。これには2も5も初めての孫に喜んだが、しかし、10のお産はその母にもまして険しいものであった。妊娠が発覚した夜に、夜空は蒼白く輝き始め、驢馬は嘶き、やがて世が明けるとその太陽は真っ赤だった。そして子が腹から生まれてくるまでの1年、一切の雨は降らなかった。「天が裂け、聖者像の中からは赤蟻が湧き出すほどの痛み」という10の言もあながち間違いではなかったのだろう、10もまたほとんど寝たきりになった。そして一年の季節が巡った嵐の日、ついにその頭が腹から出た。彼が産声を上げた瞬間に落ちた雷はその産屋に大きな焦げ跡を残したが、彼自身は全くの無事であった。

生まれた時、彼はその通常の赤ん坊の体躯に関わらずさながら薄絹のような重さで皆を驚かせ、また不安がらせたが、やがて成長するにつれて体重も一般的なものになり、その出生に対してある種凡庸とも言えるような男児へと育った。村の同世代の子らと無闇に集まり野放図にただ走り回った記憶。結局のところ、彼の長い人生において「幸福」とは、女でも名誉でも何か恐ろしく大きな流れのようなものへ寄りかかる安心感でもなんでもなく、あの日のなんともない午後の日差しにこそあったのかもしれない。それは余人にはわかりかねることだ。しかし彼の心のどこか柔らかい部分にその、幼き日の、光景がこびりついていたのは、後年の彼の追憶から考えても事実だったろう。彼自身がそのことについて自覚的だったかは定かでないが。

いつしか彼も幼年期に差し掛かり五歳の誕生日を迎えるに至った。

その日の薄暮は雨こそ降っていなかったものの、2ヶ月前から続く雨季のせいでひどく曇っていて、分厚い雲が松明の薄紅い灯りをぼうと反射して怪しげな雰囲気だった。親である妹の10と21はまたその親としての儀式があるのか、彼の隣にはおらず、幼い彼にはそれがひどくよそよそしいことに感ぜられたのだが、兄の10が側にいて「祭り」を周っていたのだけが心を少々落ち着かせた。その祭壇は村のものどもの手によって彩色と装飾が施されて、かつてハスパ・ゴルムズリアとセカ・ゴルムズリアの発見した頃の静謐で荒々しく、生々しい神聖さはあまり感じられなかったものの、初めて「祭り」というものの異様な熱気に圧倒されて、視界に映るもの全てが煌めいて見えている彼にとって、それはもはやどうでも良いことだった。

熱に当てられて彼は、その場にあるもの全てに指を刺し名を呼んでいった。世界の全てを記述しようかとするように。彼のその浮かれた声を聞いて10も笑みを浮かべた。

「みんな、名があるのだね。それはつまり、みんなここにしかと存在しているということを許されているのだね。」

幼い頭で考えつく限りのものの名前を言い終えて、彼がそうひとりごちると10は微笑んで

「けれども、名があるからこそ、許されないこともあるのだ。名によって縛られる。俺たちは名によって規定されて、承認を得る代わりに名の求める役割を完璧に演じることを求められる。同質であるはずのものが名によって分断され、排斥され、認められないこともまた、一つの真実だ。」

と、言った。彼の少し上がった口角の形は憐憫とも嘲笑とも韜晦とも取ることのできるものだったが、彼にはまだ、その中のどの感情も解し得なかった。

空が不気味に唸って、やがて弱々しく雨が降り出す。それはさながら巨大な神の涙する様子である。いつしか横にあったはずの10の姿が消えていたことに彼が気がついたのはこの時だった。ぐるりと辺りを見回してみたが、彼は幽霊のようにどこかに消え去ってしまっていた。雨に気がついて顔を上げる人々の取り憑かれたようないつもの顔を眺めながら所在なさげに立っていると、やがて5がやってきてテントの中に入るように言った。テントの中は外にもまして薄暗く、松明の明かりもまたさらに怪しげだった。紅く照らされた老人たちの顔が幽鬼のように思え何か冷たいものが背をなぞった。ふと気配がしたので振り返れば正装をした10と21があった。このあまりにエスニックな場において異国の正装をした彼らの姿は滑稽に思えたが、自らの装いもそう大差ないことに気がついて彼は口をつぐむことに決めた。

そうして彼は21と10と手を繋いで長い長い暗闇を歩き始めた。

彼は21の手が酷く冷たいことに気がついた、それは21の父親としての緊張の表れであり、人間らしさの証明ですらあったのだろうが、彼には21がブリキのおもちゃとそう大差ないもののように感じられ、それが彼を酷く悲しく思わせた。一方、10の手は普段と変わらぬ温かいものであった。それが鈍感によるものなのか、はたまた行き過ぎた繊細によるものなのか、それは誰にもわからなかった。

3日だったろうか4日だったろうか、それすらもわからなくなるほど長い時間歩き続けたのち、少しひらけた場所に出た。何らかの遺跡のようなところで舞台があり、その上に塔のようなものがある。彼はそこで初めて「」を見た。「異形」というのが彼の「」に対する第一印象だった。この空間を覆っているたテントに反射し手様々な方向から降りかかる紅い灯りを一身に受けて、一見アンバランスでありながらその実奇妙なバランスで成り立っている塔の上の像は、柔らかく優しげでありそしてどこか悲しげであって、それが何より恐ろしかったのだった。

21が礼をした。その先には2と5がいた。彼らもまた礼をした。そして5が頷いた。10に促されて“それ“に近づいた時だった。

彼の頭の中で何かが弾けた。何か白っぽいものが頭の中で爆ぜる感覚。それはやがて全身へと広がっていく。やがて彼は立っていられなくなってその場に崩れ落ちた。驢馬も鳥も豚も赤蟻も聖者も盗人も全てが嘶いて、やがて三つの流星が降った。彼の叫ともつかぬ掠れ声が微かに聞こえる頃、30レピカ離れた小川のせせらぎが皆の耳にはっきりと聞こえた。21と10は思わず手で覆ったが、多くの「名付け」を見てきた2と5は沈痛な面持ちでぢっとそれを見ていた。

やがて、夜が明けようとする頃、彼はゆっくりと立ち上がった。彼は「名付け」を経て、ついに個人となったのだった。彼の額にはこれまでの0に変わって新たに210が刻まれているはずだった。

0

最初に違和感に気がついたのは2、セカ・ゴルズムリアだった女だった。

0

それは、予感というほどでもない何か「気づき」のようなものだった。

0

そしてどんどんんと胸の奥へと侵入していった。

00

「汝、禁忌を犯すなかれ。肉親の子、禁忌の子、忌子、この地に災厄を齎し、等の人々の建つる街を得ざらしめん。」

00

それは彼女がかつて言い放った予言だった。彼女はそれを思い返していた。

00

10は顔を伏せていた。この時の10は何を思っていたか。













100






彼___百番の男の額にはそう刻まれていた。

雨の激しく打ちつける音がテントにこだました。

10が人の前に姿を見せたのはこれが最後のことだった。

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