第二晶、傭兵と少年
(まいったなぁ……犬でも連れてくるんだった)
水晶の森で、一人の屈強そうな男が立ち往生していた。銀の髪を一つに結び、精悍な顔立ちと碧色の瞳が北方の人間であることを告げている。
男の名は、クォーツ。流れの傭兵で、とある異国の商人から、森へ行ったきり戻ってこない息子の捜索を依頼されていた。
森の入口で、木の幹にナイフで切りつけた目印を見つけたので、それを辿ったところ、ある場所から忽然と印が消えた。地面に真新しい足跡を見つけて後を追ったが、視界の暗さ故に見失ってしまったのだ。
クォーツの生まれ故郷にも広い森はある。だが、白い樹々がまばらに生えた森は、陽の光が射しこみ、視界が明るい。ヴァルト国の森は、黒い樹々が密集して生えているため、日中でも光が射し込まないのだ。
方角を知るため星を見ようにも、樹の枝葉が頭上を覆い隠してしまっている。
ヴァルト国の森は、深くて広い。人の手が入らない未開の森だ。一人で捜索していては一体何日かかることか……と考え、クォーツは溜め息を吐いた。物事を何でも軽く見積もるのは、クォーツの悪い癖だ。
初めは楽な仕事だと思っていたのだが、クォーツは、早くも依頼を引き受けたことを後悔し始めていた。いくら鍛えられた傭兵といえど、光の射さない暗い森で一人彷徨っていては、精神がもたない。
ひとまず最後に見た木の印があった場所まで戻って出直そうとしたところ、クォーツは、己が道を失ってしまっていることに気付き慄然とした。
まさかこのまま自分も、この暗い森で遭難して死ぬのだろうか。
自分の遺体が森の中で転がり、誰にも見つからない未来を想像して、クォーツの身体は震えた。どうにかしなければと、気ばかりが焦る。
その時、突然背後から何かの殺気を感じて、クォーツが横に飛び退った。目の前を、大きな獣が空を切って横切る。
狼だ。クォーツの持つ松明の灯りに照らされて、狼の
これが噂に聞く〝宝石獣〟か、とクォーツは目を見張った。噂でしか聞いたことはないが、身体の一部を結晶化させた生き物が存在するという。この森が、
狼は、クォーツに向かって牙を剥き、低く唸った。その牙も水晶で出来ているようだ。狼の金色に光る目を向けられて、クォーツは腰から剣を抜いて構えた。
一匹なら……と安易に考えた時、樹々の間にある闇の中から、もう一頭……いや二頭、三頭……と他の狼が次々と姿を現した。全部で五頭。狼は、群れで行動するのだ。
クォーツは背中に冷や汗が流れてゆくのを感じながら、左手に持つ松明の火を掲げ、右手で剣の柄を握りしめた。
じりじりと後退しながら狼たちから距離をとる。
一触即発。
ぱちっと松明の火が一際大きな音を立てた。それを合図に、一匹の狼がクォーツへ向かって跳び掛かる。
クォーツは、右手で剣を薙ぎ払い、狼の身体を切りつけた。が、硬い結晶に覆われた身体には、傷一つつけることが出来ない。
(くっ……結晶化していない場所を狙わないと駄目かっ)
狼が再びクォーツを襲う。
今度は、結晶化していない部分を狙って剣を叩き込む。切りつけられた狼は、血を流しながら地に伏し、動かなくなった。
二頭、三頭……と、同じように剣を繰り出す。しかし、背後に回った五頭目の狼がクォーツのふくらはぎに牙を立てた。激しい痛みが全身を駆け巡る。
その隙に、四頭目の狼がクォーツの腕に噛みついた。金属板でできたブーツもガントレットも、狼の牙は難なく貫いている。やはり普通の狼ではない。
クォーツは、痛みに歯を喰いしばりながらも、噛み付いたまま離れない二頭の首に剣を叩き込んだ。
三頭は息絶え、残る二頭は怪我を負いながら森の中へ逃げてゆく。
クォーツは、荒い息をつきながら膝をついた。傷口からどくどくと血が流れ、熱を持ったように痺れている。この怪我では、森の中を歩き回れない。絶望的だった。
再び何かの気配がして、クォーツは顔を上げた。狼が戻って来たのかと思い、剣の柄を握る手に力を込める。
ところが、闇の中から現れたのは、一人の少年だった。膝をついたクォーツよりも少しだけ高い位置に目線がある。黒い髪に白い肌、赤い二つの目が暗がりの中でもやけにはっきりと見えた。どう見ても、十歳ほどの子供だ。
少年は、手に光るナイフを持っていた。クォーツが見たこともない透明なナイフだ。少年がそれを自分の顔の前にかざして見せると、地に転がった松明の灯りを反射しきらきらと光った。
少年の警戒するような赤い視線と、クォーツの碧の視線が闇の中で交差する。
「
少年が呟き、切り詰めていた空気がふっと緩んだ。顔の前で構えていたナイフを下ろす。
「いや迷子はそっちだろう」
クォーツの鋭い返しに、少年は眉をひそめた。
色々と聞きたいことはたくさんあった。だが、クォーツは痛みに意識を失った。
💎✧💎✧💎
「
クォーツは、自分を介抱してくれた少年に礼を言ってから、それを聞いた。
少年は、首を傾げたまま答えようとしない。口が聞けないわけではないだろう。もしかすると言葉が通じないのだろうか。
それとも……と、別の考えに思い当たり、クォーツは愕然とした。名を聞かれても答えられないということは、つまり彼のことを名で呼ぶ者がいないということだ。それは、少年の身の上がいかに壮絶であるのかを物語っている。
クォーツは、少年のために何か気の利いた名前を……と考えかけて、やめた。
昔、実家で飼っていた犬の名前を決めた時、センスの欠片もないと妹から散々罵られたのだ。
「
少年は、クォーツの呼び掛けに小首を傾げた。それが自分のことを指して言っているのだと分からないようだ。
クォーツは笑みを浮かべて、少年を指さしながら何度も〝ユンゲ〟と繰り返した。それでようやく少年は、その言葉が自分のことを指していると理解したようだった。
それからクォーツは、少年のことを〝ユンゲ〟と呼ぶようになった。
足の怪我が治るまでは、この森を動くことが出来ない。
ユンゲは、あまり人の言葉を知らないようだった。親らしき存在は見えなかったし、口減らしのため子を森へ捨てる話はよくある。
片言でしか人の言葉を解さないユンゲに、クォーツは人の言葉を教えた。人の世界を教えてあげた。
ユンゲも、人の話す言葉に興味があるのか、クォーツの話をよく聞いて学んでいった。
ある程度、簡単な言葉でやり取りできるようになってから、クォーツはユンゲに尋ねた。
「ザヒトという男を捜しているんだ。森で見なかっただろうか」
しかし、ユンゲは無言で首を横に振る。
怪我が治ったら、ザヒトを捜しに行かなければな、とクォーツは考えていた。
だが同時に、ザヒトはもう生きてはいないのかもしれない、とも思った。
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