成長痛

つぐみもり

第1話

 谷崎青子はその日の放課後も、いつものように図書室へ行こうと教室を出た。

 だが、思わずその足が止まった。頬の筋肉が、嫌な感じに引きつるのが青子自身にもよく分かった。

 ジャージ姿の、無闇に爽やかな笑顔の若い男性教師が手を振っていた。名は、大山という。見てのとおりの体育教師だが、青子のクラスの担当ではない。しかし入学してすぐに、覚えたくもないのに覚える羽目になった。

「おう、谷崎。いい所で会ったな」

 待ち伏せしていたことは明白だが、ぬけぬけと言ってくる。

「この間の話し、考えておいてくれたか?」

 青子はもう一度、あからさまに顔をしかめた。

「その件でしたら、もうお断りしました」

 視線を会わせないように横をすり抜けようとしたが、肩を掴まれた。

 総毛立つとはこういうことか。首の後ろの産毛が、ちりちりするような感じがする。

「そうは言うがな、一度うちの部の練習を見にこないか? そうしたら気が変わるかもしれない」

 青子は極力それと悟られないように大山の手を振り払い、肩をすぼめて図書室の方へ歩を進めた。

 うちの部とは大山の顧問するバレーボール部のことだ。一度見に行ったが最後、何やかやと理由をつけて練習に参加させられ、入部させられるのがオチだ。

「気は変わりません。私は運動部には入りません。勉強に専念したいんです」

 青子は、いつも猫背をなおすように注意されている。

 原因は、その170㎝を越える身長にある。抜きんでて背が高いことが、青子にはひどく嫌なことで、ついつい身体を縮める姿勢になってしまう。

 周囲の友人たちは羨ましいと言うが、昔から良いことなど一つもなかった。この、他人より背の高いという事実が、青子を幼い頃から幾度も嫌な気分にさせていた。

「だがなあ、せっかくの高校時代を勉強だけで終わらせるのはもったいないと思わないか?」

 聞こえない振りをして、歩き続けた。大山はしつこく後を追ってくる。

 勉強をそれほどしたいと思っているわけではない。方便だ。

 本当は、青子は本を読むことが好きだった。

 身長が高いというだけで運動をするように見られがちだが、どちらかというと体を動かすことよりは、座ってページをめくっていることのほうが多い。

 青子が今の高校を選んだのも、誰だか著名人の寄贈によるという、県下一の蔵書数を誇る図書館があるからだった。

 家からも遠い、友人知人の少ない学校に通うことも、新しい友人が出来る度に身長を聞かれる苦痛も、沢山の本を好きなだけ読めるという幸せに比べれば、些細なことだった。

 この健康優良教師には、そんなことは一生かかっても分からないだろうが。

 歩幅を大きくして、なるたけ早足で歩いたが、大山はとうとう図書室の中までついてきてしまった。

 図書室に入ると、幾人かの生徒がこちらの方に向かって微笑みかけた。声をかけてくる者もいる。

 もちろん、青子へではない。

 大山は単純明快な、よく言えば竹を割ったようなさっぱりとした性格で、容姿もそれなりに良く、女子に人気がある。男子にも、その厭味のなさから兄貴分と慕われている。

 青子はなんとなく生理的に受け付けなかったが。

 結局青子は書架の隅に追いこまれる形で、大山と相対した。

 自然、俯いてしまうが、大山の方が背が高いので顔を見ずにすんだ。

「谷崎は中学でもバレー部に入っていたんだろう。続ける気はないのか?」

 中学生の頃も、上級生に無理やり入部させられたようなものだ。好きでやっていたわけではない。

「身長は…ええと、何㎝だったか?」

「170と、ちょっとです…」

 正確には175㎝。知っているくせに。

「せっかくのその身長を埋もれさせるのは勿体無いと思わないか?」

 身長だけでスポーツが出来るわけではない。それは中学生の頃によくよく思い知らされた。

 背が高いくせに。案外鈍いんだ。格好だけだね。役立たず。……ああ、なんて嫌な思い出ばかりなんだろう。

「せっかくの青春だ。部屋に篭ってばかりいないで、スポーツに情熱を燃やす! 素晴らしいだろう?」

 大山は業を煮やしたように、青子の両肩を掴んで熱っぽく語り出した。

 青子はますます俯く。床の木目が識別できるほどに。

 スポーツだけが青春と誰が決めた? 私は本を読むことが好きなんだ。

「なあ! そうは思わないか!」

 ああ嫌だ。掴まれた肩から、怖気が走る。大山も、この身長も、何もかも嫌だ。吐き気がする。嫌だ嫌だ嫌だ!

「先生。図書室では、お静かに願います」

 ふと横合いからかけられた声が、こぼれかけた涙を押しとどめた。

 少し甲高いが、落ち着いた感じの男子生徒の声。

 青子の俯いた顔の位置からは、2年生の緑のラインの入った上靴しか見えない。

「か、葛城か…。すまん。騒ぐ気はなかったんだが、ちょっと興奮してしまって、な…」

 大山は慌てて手を離し、急にしどろもどろになる。この『カツラギ』という生徒を、大山は苦手にしている節があるのだろうか?

「そ、それじゃあ、またな。谷崎」

 バタバタと走り去る音が聞こえた。音が遠ざかり、気配も遠ざかり、それでもじっと青子は俯き続けた。

 さすがに首が痛くなって顔を上げると、比較的背の低い男子生徒がじっとこちらを見ていた。

 先ほどからのやり取りを、ずっと見られていたのだろうか? ではこの男子生徒が声の主の『カツラキ』なのか? それよりも、つい他人の身長を気にしてしまう嫌な癖が出てしまった…。

 羞恥心と混乱で頭がいっぱいになり、青子はただ呆然と立ち尽くした。そこへ、葛城はゆっくりと近づいてくる。

「すみませんが、少しどいてくれますか? 谷崎さん」

 頬を高潮させながら横へ退けようとした青子は、思わず途中で動きを止めた。何故、この人は自分の名前を知っているのだろう?

 視線に気付いた葛城は、微かに苦笑いの表情を浮かべた。

「谷崎さんは、入学以来毎日のように本を借りに来るでしょう? いつもカウンターにいるから、何時の間にか顔と名前を覚えてしまったんですよ」

 ああ、そういう事か。この人は図書委員なのだ。確かに毎日図書館に通えば、顔も覚えられるだろう。こちらは意識していなかったが、そう言われれば見覚えがあるような気がする。

 軽く目礼して脇を通り抜ける葛城を、青子はなんとなく目で追っていた。

 よくよく見ると葛城の腕には数冊の本が抱えられており、彼はそれらを書架へ片付けに来たのだと知れた。通路に立ち尽くしていた青子が邪魔だったはずなのに、顔を上げるまで待っていてくれたのだ。

 青子は再び頬に血が上がるのを感じ、踵を返しかけたが、また動きを止めた。

 身長の低い葛城が、必死に背伸びをして書架の上の段に本を片付けようとしているのが目に入ったからだ。

「あの…手伝いましょうか?」

 口を突いて出た言葉に、青子自身驚いた。

 葛城はゆっくりと振り向き、微笑んだ。

「ありがとう。では、お願いします」

 不思議と悪い気はしなかった。

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成長痛 つぐみもり @rondopiccolo

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