力は何があっても解き放ってはならぬ。命が危うければ命を捨てよ。その時はよくやったと彼岸の世で褒めてとらす。

白田 まろん

プロローグ 王国滅亡

「我が愛しい息子アリオンよ、其方そなたは生きよ」


 コルスタイン王国の王都トートロンにある王城の一室で、親子の最後の会話が交わされていた。


「父上! 私も共に戦います!」

「ならぬ。サバトリム帝国が相手では勝ち目などない。帝都ラウスハンに送った使者は帰らず、コルムットの王フェリクスも援軍は送れぬと返してきた。エルキオ聖教皇国からも援軍要請は断られた」


 コルスタイン王国はロトノア大陸の東に位置し、南西にサバトリム帝国、北にコルムット王国、北西にエルキオ聖教皇国の三国と国境を接している。このうちコルムット王国とは友好関係にあり、エルキオ聖教を国教としているため聖教皇国とも敵対関係にはない。にも関わらずこの二国からの援軍は望めなかった。


 一方サバトリム帝国はコルスタイン王国を手中に収めれば大陸最大の領土を誇ることとなる。このコルスタイン侵攻を足掛かりにロトノア大陸に覇を唱えるのが帝国の狙いだった。


「何故です!? 我が国が落ちれば次はコルムット王国が狙われるのではありませんか!? エルキオ聖教皇国にしても……」

「帝国はコルムットが属国となることで国土は安堵、自治も認めると言ってきたそうだ」

「そんな! あの帝国が約束を守るとでも!?」


 聖教皇国とは同盟を結んでいるわけではなかったので、援軍要請を断られたのは仕方ないとアリオンは理解していた。


「逆らったところで勝ち目はない。それよりもアリオンよ、お前はコルムットに落ち延びるのだ。フェリクス王がお前をかくまってくれる」

「ならばっ! ならば父上と母上も共にコルムットに逃げましょう!」


「アリー、私たちは王族として最後まで逃げるわけにはいかないのです」


 母は目に涙を浮かべて息子をそっと抱き寄せたが、すぐに腕をほどいて離す。


「解せませぬ! なぜ共に戦うことも逃げることもお許し頂けないのですかっ!?」

「帝国に私たちの命と引き替えにこれ以上の民の殺戮をやめるよう求め、応じるとの返答があったのだ」

「では、私も死ななければならないのでは……」


 アリオンの言葉を父が遮る。


「帝国は我が国を属領化した後、お前を領主に置いて民心をおさめる腹づもりなのだよ」

「そんな!」


「聞き分けるのだ、アリオン。私たちも帝国の思惑通りにさせるつもりはない。だから何としてもコルムットに逃げるのだ」

「民を犠牲にしてでもですか!?」

「アリオン、私たちは王族として民とともにこの地で果てましょう。ですがコルスタイン家の血はあなたによって受け継がれるのです」


 もはや母は流れる涙を隠そうとはしていなかった。


「本当は孫の顔も見たかったのですよ」

「母上……」

「もっとゆっくり別れを惜しみたいところだが時間がない」


 親子の最後の会話が終わりに近いことを、国王である父から告げられた。


「この隠し通路から外に出よ。よいかアリオン、其方の力は何があっても解き放ってはならぬ。命が危うければ命を捨てよ。その時はよくやったと彼岸の世で其方を褒めてとらす」


 父は部屋の片隅に置かれていた小さな仏像に手をかざす。すると音もなく壁の一部が、人が一人通れるほどの真っ暗な口を開けた。


「ここにお前がいなければすぐに追っ手が差し向けられるだろう。この通路は地下牢のすぐ脇を通る。お前が世話を焼いているハーフエルフの娘を連れて行くがよい。あれは必ずお前の助けとなり決して裏切ることはない」

「父上、まさか……」

つくよみの術者ぞ。分からぬと思ったか」


 イタズラ心に満ちた微笑みは、アリオンがこの世で見る最後の父のそれだった。


「さあ行け。ほどなく帝国の兵がここに来る。急ぐのだ!」


 それでもためらう息子を、父王は壁の闇に向かって突き飛ばした。直後、壁の口は跡形もなく消えて元に戻る。闇が塞がるのと帝国の兵士たちが部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。



◆◇◆◇



「アリオン殿下、傷は大丈夫ですか?」


 ぼろ布と言って違和感のない粗末なローブの脇腹あたりに滲んだ少年の血をみて、少女は心配そうに眉を曇らせた。


 崩れかけた石造りの家の陰に身を潜める二つの影。どちらかというと黒が強いブルーブラックの髪が肩にかかり、エメラルドのような緑の瞳が印象的な十七歳の美少年。身長は隣の少女より頭一つ分ほど高いが、少女の方がむしろ小柄なため彼もそれほど大きいというわけではない。加えて華奢な体型は少年をより一層小さく見せていた。


 一方少女の方は腰まであるピンクブロンドの髪に、長い睫毛の下の大きく蒼く澄んだ瞳が可愛らしい。腰のところを紐で巻いただけの貫頭衣からのぞく四肢は雪のように白く、少年よりさらに華奢に見える。ただ胸はやや膨らんでおり、その細い体型のせいで余計に目立っていた。だが、少女にはそれ以上に目立つ特徴があった。


 一見美少年、美少女の二人だが今はどう見てもそんな面影など微塵もない。二人は瓦礫の山と化した王都トートロンからの脱出の機会を窺っていた。


 すでに原形をとどめている家屋はなく、至るところで炎や黒煙が上がっている。サバトリム帝国軍は約束を守らず、コルスタイン王国国王ブレナン・ド・コルスタインと王妃オーフェリア・コルスタインの首を刎ねた後、無差別に民衆の虐殺と略奪を始めたのだ。


 怒号と悲鳴が飛び交い、男や老人は容赦なく殺されていく。女は年端もいかないような少女まで暴行を受け、その場で殺されるか連れ去られていった。


 辺りには背中に矢が刺さったままうつ伏せに倒れていたり、首を刎ねられて血だまりの中にある遺体が散乱する、さながら地獄絵図であった。


「いたかっ!?」

「そっちを探せ!」

「遠くには行ってないはずだ!」


 甲冑を身につけた兵士たちは金属がこすれるような足音を響かせて、足元の死体をまるでゴミのように蹴りつけながら何かを探している。


 うつ伏せになっている遺体は蹴り上げて仰向けにさせ、顔を確認してから叩きつけたり踏みつけたりと散々だ。彼らは剣や槍、ボウガンなどの武器を持ち、瓦礫の隙間を覗いたり入れそうな家屋には立ち入っては出てくるを繰り返す。不運にもそんな場所に隠れていた者は見つかって外に引きずり出されていった。


 そこで数人の甲冑をつけていない軍服姿の兵士の前に連れていかれ首実検となる。探している人物と違うと見なされればその場で首を刎ねられていた。


「くそっ! アイツら!!」

「いけません! アリオン殿下!!」


 傷口を押さえながら外に出ようとする少年を、少女は正面から抱きついて止める。抱きつかれたため脇腹の苦痛が増し、華奢で弱々しく見える少女の腕さえふりほどくことが出来ず少年は唇を噛んだ。


 少年はそれ以上、少女に逆らうことを諦めた。自分より小柄で二歳も年下の少女の力に適わないのであれば、あの場に出ても何も出来ないだろう。


 いや、彼らが探しているのは自分なのだから出ていけば兵士たちは捜索をやめ、隠れている人たちがあぶり出されることはもうなくなるかも知れない。しかしそれは献身的に寄り添ってくれている少女をも危険にさらすことになる。


「ニア、殿下はまずい。私はもう王子ではないのだ」


 苦しそうに時折息を切らせながら、アリオンは少女の耳元に小声で囁く。ニアと呼ばれた少女は彼の荒い息が顔幅ほども横に長い耳にかかり、不謹慎とは知りつつも頬を赤らめてしまう。少女は半身にエルフの血が流れるハーフエルフであった。


「では、あるじさま」

「ん?」

「人族がハーフエルフを奴隷として連れていることは不自然ではございません」


 アリオンの傷が心配でならなかったが、今はそれよりも気力を切らさないことの方が大切だということをニアは知っていた。だから努めて明るく、小声ではあったが冗談めかして言った。


「そうだな。すまないがそう呼んでくれ」


 しかしアリオンの声は、彼女のそんな気遣いを知ってか知らずか力なかった。


「触媒さえあれば傷はすぐに治して差し上げられますのに……」


 ハーフエルフは魔法を使える。エルフから受け継いだ能力だが威力はエルフのそれに勝っていた。ただし魔法を使うためには触媒が必要で、宝石や大量の血がそれに当たる。もっとも宝石なら何でもいいと言うわけではなく、ダイヤ、ルビー等の希少な種類に限られていた。


 また、血が触媒になるとは言えこちらはかなりの量が必要で、傷口から滲み出ている程度では気休めにもならない。つまり普段は魔法は使えないのと同じなのだ。ちなみに純血のエルフは特別に強力な魔法でなければ触媒を用いる必要はない。


「兵士たちがいなくなったらあの方に助けて頂くことにしましょう。今は儀式を行う時間もありません」


 ニアは小声で囁いた。その指が差す先には首をはねられた遺体が横たわっている。流れ出た血は未だほとんど乾いていない。


 遺体は商人を示す黄色で縁取りされた緑色のコートを着ていた。コートの胸には商人が所属する商会を示す、羽を広げた白鳥のような紋章が刺しゅうされている。アリオンにはその紋章に見覚えがあったが、今は思い出すことが出来なかった。


「ニア……死者の血を触媒とすることは……」

「さまよう霊魂をまとった死者の血を触媒とすれば、その霊魂は永遠に救われることなくこの世にとどまります。しかしエルフの血を引く私であれば、私がこの世を去るときに冥界に連れ帰ることも可能なのです」


 ニアは穏やかな微笑を口元に浮かべた。


「ウソだ! 君が前に教えてくれたのは、儀式をせずに死者の血を触媒としたならば行き場を失った霊魂は術者の体を蝕むということだったはずだっ!!」


 そんなニアの瞳を彼は強い意志を持って見据えて小声で叫んだ。まだ兵士たちが近くを捜索しているのだ。大声を出すわけにはいかない。


あるじさま、どうか落ち着いてください。蝕むと言いましても日々に少しの苦痛があるのと、寿命がわずかに削られるくらいです」

「寿命……寿命まで削られるのか……ダメだっ! 断じてダメだ!」

「主さま、ですからどうか少し落ち着いてください」


 ニアの肩をつかんで大きく首を左右に振り傷の痛みに口元を歪めながら憤る彼を、彼女は優しく見つめながら言葉をつなぐ。


「主さまの傷はすぐに癒やさなければ致命傷となります。私にとっては主さまを失うこと以上の苦痛はございません」


 彼女は自分の肩に置かれたアリオンの手に自分の手を重ねた。


「それに寿命と申しましても私にはエルフの血が流れているのですよ。ですからたとえ死者の呪いで寿命が縮まったとしても、主さまより先に逝くことはごさいません」


 だから心配するな、とニアは微笑む。


「ニア……それでも私はお前に苦痛を強いることなど……」

「私のこの身この命は今日のために、あの日主さまに救われたのです。ですから呪毒の苦痛がどれほどの痛みでも、主さまのためなら喜んで受けたいと思っております」

「ニア……」


 アリオンは脇腹の痛みをこらえながらニアを強くその腕の中に抱きしめた。ともすれば意識を飛ばしてしまいそうになるのを必死に気力でつなぎとめる。彼女も彼の痛みが増さないように、触れる程度の強さでそっとその背中に手を回した。


 ニアに魔法を使わせなければ、彼女が死者の呪いに苛まれることはない。しかし、自分が一緒にいなければニアはこの世界で生きていくことすら出来ないだろう。


 決して自分がいれば彼女が幸せになれると自惚れているわけではない。だが少なくとも自分が傍にいれば彼女を守ってやることは出来る。なぜならハーフエルフはただ一食の対価に奴隷として差し出されることもあり、その命は家畜より軽く扱われるからだ。


 それでも人に仕えているハーフエルフであれば、所有者の承諾なしに売買されることも命を奪われることもない。これはコルスタイン王国だけではなく、エルキオ聖教を国教とする国の共通の法だった。ただしサバトリム帝国はエルキオ聖教を邪教として扱っているためこの法は通じない。


 アリオンはハーフエルフを物のように扱う考え方が吐き気をもよおすほど嫌いだったが、この法に頼ることがニアを守る唯一の方法である。しかし今ここで自分が倒れ彼女が帝国兵に捕まれば、明日はおろか今日を無事に生きることすらままならないだろう。


 なんとしてでもコルムット王国に逃げ延びねばならないのだ。そう思ってはみたものの、ニアにもたれかかるようにして彼の意識は朦朧としていた。そんなアリオンを見てニアは直感した。残された時間はあまりないのだと。


 彼の脇腹の傷は帝国兵の目を逃れながら家々の間をぬっている時、爆風に飛ばされた小石が貫通したものだ。幸い太い血管には届いていないようだったが、貫通してしまっているのでなかなか血が止まらない。


 流れた血はほとんどがローブに吸われて兵士たちに血痕を辿られるようなことはなかったが、負傷してから相当の時間が経っている。痛みと出血による体力の消耗は確実に彼を死の淵に追い詰めていた。


「主さま、お気を確かに!」


 兵士たちはすでに視界からは消えていたが、こちらも隠れているので全体を見渡せているわけではない。見えている範囲にはいないだけで、ほんの一歩脇にはもしかしたらまだ帝国兵がいるかも知れない。辺り一帯はすでに一度捜索されており、だからこそこの建物の陰を隠れ場所に選んだのだが楽観は命取りだ。


「父上……母上……」

 アリオンの口からうわごとが漏れた。


 ニアは心を決めた。自分の命と体、そして心までも救ってくれた若き王子殿下。いや、すでに彼は身分を失ったと言っていた。それでも自分にとってはかけがえのない主さまだ。その主さまの命の灯火が今まさに消えようとしている。


 主さまと一緒なら、この身はどうなろうとも構わない。しかし救えるのに救わず、主さまを死なせてしまうことだけはどうしても許せなかった。


 魔法を使って主さまを救うには、二十メートルほど先に倒れている首を落とされた遺体から流れ出た血を触媒とする必要がある。そしてここまで消耗した命を回復させるには長く深い祈りが必要だ。


 祈りの間は完全に無防備になる。祈りが成就し魔法が発動する前に兵士に見つかってしまえば、自分と主さまは敵の手に落ちるだろう。自分が殺されるのは構わない。だが、主さまが敵の手に落ちてしまうのは絶対にダメだ。


 このまま何もしなければあとわずかな時間で主さまは死んでしまう。完全に死んでしまっては、どんなに強力な魔法でも生き返らせることは出来ない。祈りに必要な時間も含めるともう迷っている時間などないのだ。


 ニアは意を決して建物の陰から飛び出し、首のない遺体へと駆けていく。薄れゆく意識の中でアリオンは遺体から流れ出た血の海にひざまずき祈りを捧げるニアの姿を見ていた。


「癒しの女神パンナケア様、どうか私の主アリオン・ド・コルスタイン様をお救い下さい。代償に私の寿命を支払い、命ある限り人々の苦痛をこの身に受けさせていただきます」


 広がった血溜まりの中心に膝をつき、両手を胸の前で握って目を閉じた。ニアの耳から辺りの音が消え、淡い金色の光が彼女を包み込む。さらにまるで空中に宝石を散りばめたかのように無数の点のような輝きが光を際立たせていた。


 間もなく光はゆっくりとアリオンの許に届き、脇腹から流れ出ていた血が止まって傷が塞がっていく。彼の表情から苦痛は消えたが、そのせいで意識を手放してしまった。


「癒しの女神パンナケア様、願いを聞き届けて下さったこと、感謝いたします」


 祈りの中でアリオンの治癒を感じた彼女はいつの間にか消えてなくなった血の海で立ち上がる。用心深く周囲を見回し、誰もいないことを確かめてから急いでアリオンの許に駆け寄った。


 目を閉じて横たわる主の姿に一瞬息を吞んだが、気を失っているだけだと分かると彼の頭を膝に抱く。治癒の祈りは流れた血をも再生するので、間もなく主さまは目を覚ますだろう。それまで帝国兵に見つからないことを願うばかりだった。


 しかし物陰から走り出た時、すでに彼女の姿は一人の帝国兵に見つかっていた。熊のように大柄で、筋肉質な背中に大人の背丈ほどもあろうかという大剣を背負った兵士の名はせんこうの二つ名を持つジルグ。金の短髪に鋭い眼光、顎に生えた無精髭は髪と同じ色で角張った輪郭に高い鼻と大きな口は戦士の風貌だった。


 ただ彼は今回のコルスタイン王国への侵攻のために帝国に雇われた傭兵で軍人ではない。そんな彼だが今回の参戦に後悔していた。


『誇りある帝国軍は敗戦国に対し略奪を行わない。敵国の王族は戦犯として処刑するが、の民は新たな帝国民として丁重に扱う』


 これが当初聞かされていた戦後処理の内容だったのである。ところが蓋を開けてみればどうだ。誇りある帝国軍は無辜の民を虐殺し犯し、略奪の限りを尽くすばかりだった。だから彼は命令に背き、怯える王国民を見つけても手出ししなかった。向かってくる敗残兵も仕方なく倒したに過ぎない。


 ジルグはニアを見つけても慌てることもなく、また他の帝国兵に知らせるでもなくゆっくりと人影が見えた方へと歩いていった。


「確かこの辺りだったはずなんだがな」


 ジルグは人影が走り去った辺りに目を凝らした。そこで彼は目を見開いて驚くことになる。視線の先には首のない死体から溢れ出た血だまりに両膝をつき、祈りを捧げている少女の姿があったのだ。


 見るからに弱々しく、戦場の逃避行で身につけている貫頭衣もボロボロである。おそらく美しかったであろうピンクブロンドの髪もボサボサで憐れみさえ感じられた。


「エルフ……? ハーフエルフか。しかし……」


 少女の横に長い耳を見て、自らに無意味な問いをつぶやく。エルフとハーフエルフの違いは横に尖った耳の長さだ。ハーフエルフの耳はエルフと比べて半分以下の長さしかない。


 だがジルグはそれ以上進むことも言葉を発することも出来なかった。あまりにも美しい、いや神々しいと言った方がいいほどの少女の姿に全身が硬直してしまったのだ。


 正確にいうと完全に硬直してしまったわけではない。ジルグの様子を不信に思った帝国兵が寄ってこようとしたのを、何でもないと手を振って近寄らせなかった程度には動けた。


 しかし短い時間とは言え、正気を奪われていたのは事実だ。ジルグはしばらく祈りを捧げるハーフエルフを見ていたが、そこに向かって合掌すると踵を返して来た方へと戻って行くのだった。



◆◇◆◇



「そうか。コルスタイン王国が陥落したか」

「ブレナン国王とオーフェリア王妃は王都トートロンの中央広場に首を晒されいるそうです」

「酷いことを……」


 エルキオ聖教皇国教皇フーマハニ・レナヒエラ・ユートピアはすうきょうアルフォンス・ランディ・スタークからの報告に憂鬱な表情を隠そうとはしなかった。今更ながらにコルスタイン王国からの援軍要請に応じなかったことが悔やまれる。


 しかしたとえ国教をエルキオ聖教と定めていた王国でも援軍を送るわけにはいかなかった。何故ならサバトリム帝国と戦を交えることになり、多くの兵や民が死ぬことになるからだ。


 コルスタイン王国はサバトリム帝国と軍事同盟を結んでおり、エルキオ聖教皇国と結んでいたのは不可侵条約のみだった。これも派兵出来なかった理由の一つである。


 帝国が同盟を破棄してまで王国に攻め込んだのは、いずれこのエルキオ聖教皇国に侵攻するためであることは明白だった。とはいえ現在帝国との国境付近で大小に関わらずいざこざは起きていない。しかしそれはいずれ皇国を攻める準備を進めるのに余計な消耗を防ぐ目的からだろう。


 コルスタイン王国の次に狙われるのは北のコルムット王国、皇国からだと東にある小さな国だ。コルスタイン侵攻時の密約により帝国の属国となったが、近いうちに王族は駆逐され属領となるのは明白である。何故ならこれまで帝国は約束通り属国を安堵したことなど一度もなかったからだ。コルムットの王が知らないわけはないはずだが、国力の差故に言いなりになる他はなかったとは容易に推測出来る。


 帝国はその後にタリスシア共和国を落とし、コルムット王国とタリスシア共和国の軍港を経由して北から海軍を投入すれば皇国包囲網が完成する。


 それを見越して共和国との軍事同盟締結を急いだ。コルムット王国は帝国の属国となってしまったために同盟締結が間に合わなかったのである。加えて帝国の法によりエルキオ聖教信者が異端とされ、多くの難民が押し寄せてくる結果となっていた。帝国には決まった国教はなかったが、エルキオ聖教だけは認められていなかったのである。


「ですがフーマハニ教皇げい、帝国は王太子アリオン・ド・コルスタインを取り逃がしたようです」

「異能一族が生き残ったか。アリオン王子の異能は分かっておるのか?」


「射た矢の軌道を自在に操り、狙った獲物は外さないとのことです」

「それだけか?」

「報告では他には何も」


「ブレナン国王の異能はつくよみの術、未来視だ。オーフェリア王妃は異能で自然現象まで複製してしまう。故にあの国は日照りが続いても、異能によって雨を降らせることで干ばつの被害を受けたことがないと聞く」

「猊下は王太子にもっと別の異能があると?」


「分からんが、親の異能に比べて矢の軌道を変えるだけというのは考えにくいと思わないかね?」

「ですが暗殺であれば絶大な威力を発揮すると思われます」

「帝国が王太子を探しているとすれば理由はそれだろうな」


「こちらに取り込むことが出来れば皇帝モルトーラ・セルゼビエ・サバトリムの暗殺も可能かも知れませんね」

「アリオン王子は帝国に恨みを抱いているはず。何としても帝国より先に見つけ出し保護するのだ」


「御意。すぐにてんもうに伝えて王太子を保護させましょう。私も第一騎士団とともに向かいます」

「頼んだぞ」

「それでは失礼致します」


 天網とはエルキオ聖教皇国の密偵団の名である。アルフォンス枢機卿は一礼して教皇の執務室を後にするのだった。

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力は何があっても解き放ってはならぬ。命が危うければ命を捨てよ。その時はよくやったと彼岸の世で褒めてとらす。 白田 まろん @shiratamaron

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