episode A-4 紙切れを握りしめた

 騒がしかった動物はどこへ行ったのだろう。お父さんもお母さんも、名も知らぬ恐ろしい病気に殺されてしまった。その正確な日時は明らかにしようもないが、家を出たのは同じ日の午前中。手紙にもあったとはいえ、そんな親の命をまとめて奪うほどの「強敵」に娘の僕が感染しなかったのはどうしてだろうか。

「…………」

 雲間で星が鋭く流れた。簡単に答えが見つかるはずもなく、自分の両手のひらを眺めて首をかしげる僕。もう少し考えようよ。ほら、潜伏期間が長いそうだから今はもうこの星の環境から病原体が絶滅――それだと親から感染するか、なら人間同士では感染しない病気とか僕が特別感染しにくい体質してるとか? そうこのように、独りになった僕が考える時間は掃いて捨てるほどあるのだった。

 ねえ桜、死ななかった僕には生かされる理由があるのかな。僕は足元の草を蹴り、そのままうつむいて方向も決めずに歩きだし――、

 えっ? 突然嘘みたいな強風が地をはい、ふくらはぎが押されるに任せて僕は歩く速度を上げる。どうしようと思った時にはもう泣きながら走っており、

「うわっ、あ、きゃっ!」

 窪んだ砂地で足をすべらせて背中から転んだ――あああの入っちゃいけない窪地! 砂と一緒に斜めに落ちる身体は自由が利かず、両手をついて強引に止めようとするも無力、自然に止まるまで抵抗が通用しなかった。

 ちょっと、何だよ急に……。僕は身体を起こして顔を上げる。ここは家から五十メートルも離れてないのに初めて足を踏み入れた窪地の底、目の前には風と地形のいたずらか時間と汚れにまみれた物体がごろごろ集まっている。立ち上がった僕は「これ、まさか」と今や何を言ってもそうなる独り言で手を伸ばし、穴のあいた小さなベルトの前で動きを止める。奥側に裏返った銀色の円盤が――、ずいぶん前になくした僕の、お父さんから初めてもらった腕時計だよね?

 過去を思い出して複雑な感情になった時、ちりっと脳をかすめる感触。時計の隣にこれはまた……?

 ふいの風が腰を押してくる。僕はよろけながらゴミに埋もれた〝それ〟を拾い上げ、ゴミを避けて数歩下がった。茶色く変色した紙切れは一番長い辺が八、九センチほどの三角形をして――それより鉛筆かシャーペンで言葉が記されている。


 し桜が 私たち  

子供じ ないと知 て


 僕は両親と違って真っ暗に近くても字が読める。冷静さは失われそうだったけどちぎれたと思われる周りの言葉を補い、

「もし桜が、私たちの子供じゃないと知って……」

 最後の「て」の先は分からない、そんなことどうでもいい。ここが入ってはいけない場所だったのはあくまで風と地形、この紙切れのせいではない。僕はそのお母さんの筆跡――もうなつかしくすら感じる――が告げる言葉の意味に愕然としていた。

 僕は、お父さんとお母さんの実の子じゃないんだ。

 空を見上げるとそこには大きな三分の二の月。風はやんでおり、怖いくらいに蒼い光が雲を鮮やかに染めている。私たちの子供じゃない。私たちの子供じゃない。他の言葉が入る可能性は? だめ、考えられない。

 ああ、これも夫婦喧嘩の一つだったのかな。僕は長く息を吐いて紙をぎりりと握りしめ、急斜面を登り始めた。ただ黙々と硬そうな土を選んで登っていく。そうだ、僕は誰か別の人の子だから例の病気に感染しなかったのでは?

 僕は何度も足をすべらせては小さな悲鳴をあげ、それでもお母さんが書いた紙を手放さずに平地にたどり着いた。これは自分へのメッセージではないけど形見になる。でも両親の手書きなんて家にいっぱいあるし、この紙には「私たちの子供じゃない」という残酷すぎる事実が書かれている。僕が後生大事にする価値はあるだろうか。

 そばに見える藍色の屋根と白い壁の家に向かって歩きだす僕。この星に暮らす人間はもはや牧野桜だけ、居場所の分からぬ本当の親も僕に感染させなかったから病気ではないとして、すでにこの世には別れを告げたと考えざるをえない。僕が顔も名前もすぐに思い浮かぶお父さんとお母さんの子供ではないなら、形見なぞ持っていても意味ない? ZTコンピューターのすきまに眠っていたお父さんからの手紙だっていらない。

 僕は立ち止まって右手を見る。

 い――、いや。逆だよ。

 たとえ血がつながってなくとも、両親はほんの三日前まで生意気な僕の面倒を見てくれていた、自分たちの本当の娘でもないのに。そう僕は二人の実の娘ではないからこそその想いを大切にしなければならない。愛してくれた二人の想いに応えなければならない――かった。

 なのに。僕は深くうなだれ、自分への悔しさでえい、えい、と暗い地面に穴をあける。僕はお父さんとお母さんが死の病で絶望しているのに気づきもしなかった。過去から今この瞬間まで僕の人生はとんだ失敗作、最悪の代物。幸せな僕は両親からただ愛されていただけで、二人の何の役にも立ってこなかった。恩返しはこれからだったといくら自分に言い訳しても、二人の前に〝これから〟が残されていない以上二度と返すことはできないのだ。

 また自分のことを考えれば、問題の病気はともかく僕だって死ぬだろう。終わりがいつになるか知らされてないだけで、僕にも何らかの形で必ず終わりはやってくる。それでも僕が生きていく意味ある? 僕は沈黙する土をいじるのをやめて天を仰ぎ、哀しみの紙を握る力を強めた。生きていく、意味……。

 遠く一番美しい山の前を三羽の鳥が競うように飛んでいく。僕は自分のことを一番よく知っている。自分――牧野桜という人間が生きる意味は、きっと誰かのための行いを良かったと思えた時に生まれる。しかし僕はお父さんお母さんにもう何も返せないし、自分にさえ〝ただ生きている〟以上のものは与えられないだろう。これでは生きていく意味にならない。

 桜、それで終わりなのか? 今死んでも同じになっちゃうぞ?

 そんなの嫌。誰でもいいから人のためになりたい。どんなひどい奴でもいい、僕を知られず終わっても大きな損をしてもいっそ殺されてもかまわない。重く苦しい孤独は僕の判断を誤らせていることだろう。たとえこの世界に誰もいなくても誰かのためになりたい。実現可能性のない希望だけど、僕はそう願わずにいられなかった。

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