episode A-3 謎のZTコンピューター

「――ねえ、何か言ってよ!」

 僕は目の前の古いコンピューターをがんと軽く殴り、左右二メートルの巨体を見渡してため息をついた。僕のこぶしに反応してくすんと鳴った気がする。このZTコンピューターは様々な目的に使えるそうだけど、僕は「ZT」という名前の意味や由来を知らなかった。普段僕が立ち入らない地下室で、この機械はこれまでどんなことをしてきたのだろう、させられていたのだろうか。

「僕が入れなかった理由……、教えてくれる?」

 つい殴ってしまったものの、壊さずに中身の確認はするつもりだった。お父さんが手紙で言っていたではないか、「生きていく方法」。僕の将来はこの大きな箱の中にある。

 十数畳の広い地下室に、僕はお父さんに連れられて入ったことがあるし鍵のありかも知っていた――だからこそ今ここに立っている――ので、何が何でも娘に見せたくなかったわけではなかろう。ただ僕には勉強用のパーソナルコンピューターを与えられていたから、謎のZTコンピューターにまで興味は持たなかった。

「でも、僕に隠してたのは変わらない……、それを知らなきゃ。あっ」

 そういえばお父さんと時々お母さんもここに来た時、僕はいつも何かをさせられて泣いていた。うん、毎回だったし一番哀しかったのはお母さんが子供の頃に使った蒼いカチューシャを隠された時だっけ。理由は全然分からない。どういう意味があったのだろう。

 僕は頭でっかちに考えるのをやめて右手を前に伸ばし、一気に電源ボタンを押した。ぼんっ、という低い破裂音に今さら緊張する。うわあ、押しちゃったよ。機械らしい無機質な作業工程がういーんん……各機能を次々立ち上げ、やがて淡灰色のデスクトップが現れた。

 僕にも使えるだろうか、うん?

 整列する他のフォルダーやアイコンたちから離れ、中央に「桜へ」と書かれたフォルダーが鎮座しているではないか。間違いない、これだ。お父さんありがとう。僕は持っていた手紙を横に置き、マウスを使って「桜へ」を開いた。歯がぐっと鳴り――、

「ああ……」

 ため息に声が混じった。中は何もない、空だった。

 上から天井を突き抜けて動物らしき声が響き、僕は家の周りを猛獣に取り囲まれる様子を思い描く。発しかけた苦悩の言葉を何度飲み込んだことか、僕はそれからコンピューターの中を探せるだけ探したが、お父さんの「かけら」は見つかりはしなかった。

 まさか、納得しないお母さんが消した? ああもう、二人が死を目前にして僕のことで喧嘩なんて本当悔しい――待って、お父さんは入口のメモを書くには書いたけど、コンピューターの中身に僕への「生き方指南書」を用意する前にお迎えが来たんじゃ……。

「どっちだって、もう手に入らないんだよー」

 僕は頭を抱えてほこりっぽい地下室を後にした。のろのろと階段を上り、無人の廊下で立ち止まる。護られているという保証が全て失われる暗い窓の向こうは風が凪いでいた。ガラスをすり抜けて両手を高く高く伸ばしてみたくなったが、指はその手前で動かなくなる。全く護ってもらえないんだよ? 僕が境界を越えたいのは生きるのに必要だと知っているからで、逆に自分が怖がってることもよく分かっていた。

 ああ、ひりひりするような指先の緊張。僕は窓から後退して灯りの弱い室内を振り返り、水さえ失った透明な箱で視線が止まる。魚はいない、金色の魚は過去に入れられたこともない。この大型の水槽はいくら邪魔を訴えても居座り続け、僕が独りになった今や何度も哀しみを誘ってくる。お父さんとお母さんが楽しそうに魚を泳がせた最後はどれほど前だったろうか、思い出す度にうなだれる僕は今回もくり返し床のしみを見つけ、かかとで踏みつけて負けるなと顔を上げた。

「だめ……、やっぱり怖くて負ける」

 そう、さっきから怖くて逃げてるだけでしょ?

 僕は窓際に戻って外の闇を眺める。危険因子は変わらず動物くらいなものなのに、親がいないだけで一生出られないと思うほど恐怖心は強かった。一生――明日死ぬかもしれないとはいえ、それまで延々この家に閉じ込められ続ける少女。僕は一人で野原を駆け回った過去を忘れてなどいないけれど、〝一人〟が〝独り〟になった今の自分にはできそうになかった。

 お父さん、お母さん……。二人とも僕をおいてどこかへ行っちゃって――そうだ。僕は答えを言葉にする前に目を瞑る。僕が外を恐れるのは、お父さんもお母さんも外で死んだからではないだろうか。

 なら闘おうよ。見えない闇夜も家なら平気と左に一回転し、僕は瞼を上げた。自信は足りないに決まっているから玄関より勝手口を選ぶ。両親二人とも病死で手紙に「桜は感染しない病気」とあったから僕は大丈夫。

 闘おうよ。ただ外に出るだけ、闘えるよ。僕は窓の小さな勝手口の前に立ち、深呼吸をくり返して扉を押し開ける。やはり風は弱々しく、細かい音が地面のそばからじじじりりりと響いてくる。

「――行ける?」

 僕は首を横にも縦にも振り、服の上から膝をたたいた。この程度で怖がるようじゃ、もし外に出ずに生きられたとしても情けない理由で死ぬに違いない。桜それ、頑張れ。僕はすでに境界を越えていた両手を前に伸ばす。

 正直いくら勇気づけても無理ではないかと思ったが、振った腕のせいで体勢を崩し、僕は勝手口の前に「あっ、おあっと……」と最初の一歩を記していた。これまで数えきれないくらい外出してきたくせに、これで「最初の一歩」とはただの女の子が大袈裟で偉そうに。しかし前進は間違いない。僕は勢いを得てやっと広い外に飛び出し、薄く安定した雑音のなか顔を上げた。ここは外だ。

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