ALICE IN EAST ISLAND【東の島のアリス】
グレンのプレゼントを渡す相手の名前は、アリス・コールドウェル。
彼女は二十二歳のフリーターで、様々なアルバイトを掛け持ちしている。
二年前は難関私立大学に通う大学生だったが、とある事件を機に中退を決めてアルバイトを始めた。
アリスは来月、アメリカの大企業ハルモニア・カンパニーの潜水艦に乗って、太平洋の海底採掘を手伝うことになっている。厳しい書類審査を通過して乗組員に採用されたのだ。
この仕事がうまくいけば、唯一無二の親友――カリーナの手術代を用意できる。
しかし、海底採掘には黒い噂が多く、実際に過去の採掘でカリーナの親戚が帰らぬ人となっていた。
アリスはそのことを知ったうえで応募している。たとえ生きて帰れる保証はなくても、親友を救う千載一遇のチャンスを逃す手はなかった。
もしかすると、来月が人生最期の月になるかもしれない。
アリスはなるべく来月のことを考えないようにして、目の前のアンドロイド点検作業に集中した。特に今日は残業できない理由がある。
インディーズ・バンドの新星グレン・シアーズが参加するパーティーに、アリスも誘われているのだ。
憧れのバンドマンとプライベートで対面し、サイン入りのタブレット端末を貰えるなんて夢のようだとアリスは再び感激する。
彼女の胸中はパーティーの待ち遠しさと来月の不安で溢れ返り、普段のテキパキとした動きで仕事をこなすことができなかった。
何とか仕事を終えたアリスは一目散にカミヤマ・タウンの自室に帰る。
彼女はすぐにシャワーを浴びて慣れないヘアセットを行った。それから洗面台に両手をついて仕上がりを確認する。
黒い頭髪は普段よりも艷やかな質感だった。毛先が肩に触れる程度のウルフヘアーもいつもより整っている。後ろ髪の内側にはパープルアッシュという紫色のインナーカラーが入っていて、程よくアリスの黒髪を際立てていた。
カリーナから予め助言を貰っていたこともあって、アリスは悪くない出来栄えだと自負する。一つだけ気に入らないところがあるとすれば、嬉しそうにしている自分自身。
許せない。心のどこかで自分を罰するアリスがいる。
彼女は底が見えない深海のように青い瞳で、無意識のうちに自分を睨んでいた。少し吊り目で三白眼なこともあり、眼差しは鋼鉄の銃口に似た冷たさを帯びる。
先に睨みつけたのは鏡の中のアリスか。もしくはアリス本人なのか。どちらも本当は睨んでおらず、単なるアリスの錯覚なのか。アリスには判別がつかない。
いや、こんな調子でパーティーに行くべきではない。折角の空気を壊してしまう。そう考えたアリスは、せめて笑顔でいようと鏡に向かって微笑みかけた。
だが、彼女の青い瞳に映る自分は、邪悪な笑みを浮かべていた。まるで無差別に銃を撃つ犯罪者のように。あるいは、二年前に犯した罪を忘れたのかと嘲笑うかのように。
「これからグレン・シアーズと会えるのに、酷い顔してる……」
アリスは笑うことを諦める。そして冷たい瞳の中に無表情の自分を納めた。
「そうだ……自分が楽しむ必要なんてない。カリーナのために行くんだもの。笑わなくたっていい。グレン・シアーズに会ったあとは、空気みたいに立っていれば……メイクも髪型も、これなら変に目立ったりしないはず。大丈夫」
アリスは自分にそう言い聞かせて、寝室にある全身鏡の前に移動する。そしてクローゼットから先日買ったばかりの服を一式取り出した。
過去にカリーナから勧められたコーディネートで、自分で選んだものではない。
上着は白くてゆったりとしているシャツで、袖がふんわりと膨らんでいるギャザー・ボリュームスリーブというもの。下は膝丈まである暗いベージュ色のスカート。
勧められた時は服装に頓着がなく、メモに残して揃えることはしなかった。
「今の私にも似合うかな、これ」
アリスはふと、カリーナの屈託のない笑顔を思い出す。
背が高くてスタイル抜群なアリスなら、絶対に似合う。カリーナは自信満々にそう言ってくれた。
その笑顔を信じて、アリスは揃えた服に着替え始める。
「ねぇ、カリーナ……グレン・シアーズの復活コンサートが決まったら、一緒に行こうよ。私、この服を着ていくから」
アリスがグレンのバンドを知ったきっかけは、カリーナの鼻歌だった。
グレンのバンドは企業に属さないインディーズ・バンドで、知名度は決して高くない。それでもグレンの歌は唯一無二で、アリスのように多くのファンを魅了し続けている。
心が打ちひしがれた時、アリスはいつもグレンの歌に救われてきた。
アリスがパーティーに参加する理由は、グレンに応援の気持ちを伝えるため。そしてサイン入りタブレットをカリーナにプレゼントするため。
もしものときは、それが自分の形見にもなる。
アリスは念入りに着こなしを確認し、手提げカバンを持って夜のトウキョウ市に繰り出した。
彼女は深呼吸で息を整え、パーティー会場のダイコクテンへと向かう。
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///〘US/////
〘Year 2184.Tokyo city,USA〙
[市
/////〚いくらでも方法はあるんだよ。探せば見つかると信じてる〛/////
[市
[市
[市
[市民の皆さま! ご存知の通り、トウキョウ市の地中送電網は、我々ハルモニア・カンパニーが開発したものです! 電力源は/////〚私なら忍び込める。あとはパターンを調べればいいんでしょ?〛/////超深海層から採取した高エネルギーのメタンハイドレート。ハルモニア・カンパニーは自社開発の採掘潜水艦で、今日も市民の皆さまに電力をお届けすべく深 㴱 豺 シン 𝔓𝔯𝔬𝔣𝔲𝔫𝔡𝔞 ae6b7b10d0a 1110011010110111101100010000110100001010海へ潜っています]
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//////[海底の採掘には安全性の問題が//////未知の生物に襲われ//////////い潜水服//////コストカット/////上は書類審査//////安心したまえ。水圧で潰れてしまえば、全員同じだよ]/////
[この美しい配電パイプをご覧ください! 銃弾も通さない超合金仕様、そして最新鋭の技術を使って送電ロスをほぼゼロに! 地中送電網には最新鋭のセキュリティ・ドローンと、パワードアーマーを装備した警備隊////〚私が上目遣いで微笑むとね、みんなついてくるの。ひとけのない場所に連れ込めば、生まれたままの姿で抱いてくれる。愛する人がいるのにね〛/////を常に配備しております。この空間は聖域です。ハルモニア・カンパニーは調和の女神の名において、市民の皆さまの生活を今日もお守りしていま 眞 マ e381be 縺セ
〚今 の 人 間 は も う 駄 目 だ〛
黒髪ボブヘアーとロリータ・ファッションを着こなす女性がダイコクテンに入店する。
彼女の一挙手一投足にはどこかあどけなさがあり、それでいてミステリアスな雰囲気をまとっていた。
それから二十分が経過する。
しばらくして、女性の携帯端末に一通のメッセージが届いた。
送信者はジュンイチ・サイトウである。
[お疲れ様です、マニカさん。店内の様子はどうですか?]
ミステリアスであどけない女性――マニカ・シナトは、ブラウン・シュガー・シロップをたっぷりかけたジャパニーズ・ライスケーキ・ワラビモチを口に運んで、もぐもぐしながら返信内容を考えた。
彼女の席が出入り口に近いこともあり、隣接するカブキ・ストリートの喧騒がはっきりと聞こえてくる。
今宵も渇ききった市民が忘れられない一夜を求めて、ピンク色に染まる街の中へと吸い込まれていった。
カブキ・ストリートのとある風俗店の前には際どい格好をした女性アンドロイドが立ちはだかり、思わせぶりな動きと甘えた声でみだりに客引きをしている。
そのアンドロイドは店の前を通ったジャパニーズの大男に思い切り抱きついた。
[ねぇ、お兄さん! とっても逞しい身体してるね……ゾクゾクしちゃう。今夜のお相手はもうお決まり? 私たちホット・ドールを選んでくれたら、普通の人にはできないこともできちゃうよ……?]
次の瞬間、大男は鮮やかな動きでアンドロイドを振り払うと、その場から忽然と姿を消した。一連の動作はまるで、すり抜ける黒い煙のようだった。
アンドロイドは何が起きたのか理解できず、同じポーズのままフリーズする。
アンドロイドに抱き着かれた大男――ジュンイチ・サイトウは、素知らぬ顔で通行人の波に混じった。
道中、ジュンイチは不審な人物を探して辺りを注意深く視まわす。
通りを行き交う人々の中には、身体をHBRと呼ばれる手術で電子制御肢体――サイバー・オーガンに置換した男が二人いた。
男の一人は左手を五本の赤い触手に置換している。
触手には小さな突起が無数についていて、なぜか粘ついていた。
触手男の隣には、肉体の九割をサイバー・オーガンに置換した男。
男の胴体は漆黒のメタリック・ボディーであり、細部を彩る金色のLEDライトが気品漂う薔薇のマークを関節部に描き出している。全体のフォルムはスマートで切れ長く、まるでアクションゲームの主役のようにスタイリッシュだ。
だからこそ、残り一割の股間部がとにかく目立つ。そこだけが唯一の生身だった。
股間で輝く金のブーメランパンツは、これ見よがしにネオンの光を乱反射している。
HBRは富裕層の特権であり象徴でもある。通行人のほとんどは生身の一般人だが、それでも奇抜で挙動不審なことに変わりはなかった。
ジュンイチは溜め息をついて腕を組む。
「元より混沌とした地であれば、魔術もまた景色に溶け込むものか……」
あらかじめダイコクテンの周辺は調べ終えている。しかし、当日になった今でも特に異変は見られない。
店内の様子は助手のマニカ・シナトが一般客に紛れて調査している最中で、詳細は彼女からの返信待ちだ。
集合時間までまだ余裕がある。
ジュンイチは歩道の脇に避けてマニカからの報告を待った。
数分後、彼の携帯端末にマニカからの報告が届く。
[人生初の食体験♡ デザートまでワショクとは、青天の霹靂☆ ブラック・シュガー・シロップと、ローステッド・ソイビーン・フラウワをかけたワラビモチがもちもちで最高♪]
違う。そうじゃない。食レポを待っていたんじゃない。めちゃくちゃ美味しそうな写真を送ってくるんじゃない。普通に楽しんでいるじゃないか。
ジュンイチは喉から出かかったツッコミを込めて返事を送った。
[わあ〜! とっても美味しそう♡ 初めて見るデザートだね♪ お店の回りで六つも死体が見つかってなかったら、私も食べに行ったのにな〜☠ で、何か不審な点は?]
[お客さんや店員さんは皆さん普通で、雰囲気も落ち着いています。ただ、聞き慣れない音を耳にしました]
[詳しくお願いします]
ジュンイチは左手を口元に添えて、眉間を険しく狭めた。
マニカは鋭敏な第六感を備えており、全ての五感を通じてこの世ならざるものを知覚できる。
ジュンイチには感じ取れないものを、マニカなら感じ取ることができるのだ。
[歌のように聞こえました。とても小さな音で、時々コンセントや電灯から聞こえてきます。あの感じは英語じゃなくて、たぶん日本語です]
[歌の内容は?]
[すいません。そこまでは分かりませんでした。ただ、か〜、という発音はハッキリ聞こえました]
[なるほど。ありがとうございます。マニカさんはいつでも車を出せるように、近場のパーキングエリアで待機していて下さい。パーティー中に異変が起きたら、双牙のピアスを鳴らします]
ジュンイチはメッセージを返したあと、左耳のピアスに触れた。
すると、とても小さな音量で狼の遠吠えのような音がピアスから鳴る。
マニカの右耳にあるピアスも同じように音が鳴っていた。彼女はすぐに返事を送る。
[聞こえました。ちゃんと位置もわかります]
[こちらもマニカさんの位置がわかります。動作は良好ですね]
双牙のピアスは異形の牙で作った魔具だ。
仲間を呼ぶ意志を持ってこれに触れると、装着している者同士の位置を感覚的に共有できる。
ピアスの動作確認を終えたジュンイチは携帯端末に表示されている時刻を見て、パーティー開始の時刻が迫っていることに気づいた。
[そろそろパーティーが始まる頃合いです。それでは]
[ジュンイチさん。どうかご無事で。余裕があったら、ワラビモチのテイクアウトをお願いします]
[分かりました。事務所に戻ったら一緒に頂きましょうか]
ジュンイチは携帯端末をダブル・レザージャケットの内ポケットにしまい込み、横断歩道を渡った。
彼はその先に待ち構えるジャパニーズ・バル・ダイコクテンを見上げる。
店は三階建てで、二階がパーティー会場に使うフロアだ。
店の入り口にはダイコクテンの名の通り、かつてこの列島で福の神とされていた存在が立体映像で描き出されている。
その神は朗らかな笑顔を浮かべる小柄でふくよかな男性の姿で、右手で小槌を掲げながら左手で大きな袋の口を掴み、肩にかけて背負っていた。
神の足下にあるネオンは列島に残る言語の遺物――漢字で大黒天と描いてある。
ジュンイチは福の神を眺めながら、今は亡き父親に思いを巡らせた。
ジュンイチの父親は純血のジャパニーズで、日本の文化に詳しかった。ジュンイチの名に漢字表記も考えていたほどだ。
もし父親が存命であれば、この店に興味を持ったに違いないとジュンイチは思う。
「純粋に楽しみたいものだがな……」
ジュンイチはダイコクテンに入店し、出入り口のカウンターで予約の確認を済ませてから左手にある階段を登った。
店内の内装はバイオ
所々にあしらわれた金色の装飾は店内を慎ましくも華やかに飾り立てていた。
短い廊下の先には黄金の船を描いた荘厳な引き戸があり、これがパーティールームの入り口である。
ジュンイチは引き戸を開けて中に入った。
その途端、神秘的な桜吹雪が彼の視界を覆い尽くす。
ジュンイチは少し驚いたが、花びらの感触がないことから全て立体映像だと即座に見抜いた。
彼は視界が晴れるまでじっと前を見続ける。やがて桜が止み、舞い降りる花びらの影から若い女性の姿が現れた。
女性は桜の花びらと同じピンク色の頭髪をしている。
髪型は鎖骨の下まであるウェーブヘアーで、ジュンイチの胸板に目線があるほど背が高い。
顔立ちは垂れ目が特徴的な童顔である。
女性は首を傾げながら、淡い金色の瞳でジュンイチを見上げた。
「あなたがグレンのお友達かしら?」
ジュンイチは頷いて背筋を丸め、物腰低くお辞儀する。彼は鋭い目つきが嘘のように爽やかな笑みを浮かべた。
「ええ。初めまして。ウィリアム・コーウェンです。グレンの紹介で来ました」
ジュンイチは一般人に名乗るとき、ウィリアム・コーウェンという偽名を用いる。
ジュンイチ・サイトウは暴動を起こした死刑囚の一人として、死んだことになっているからだ。
集団墓地に建っているジュンイチ・サイトウの墓には、誰も知らない赤の他人が埋まっている。
女性はジュンイチ――ウィリアムに向かってにこやかに微笑み返した。
「初めまして。私はノーラ。あなたのことはグレンから聞いているわ。今日のパーティーは私が主催だから、困ったことがあればなんでも相談してね」
「それでは早速なんですけど……アリスさんって、もういらっしゃってます? 彼女宛のプレゼントを預かってまして」
「アリスちゃんなら、ワシツ・スペースにいるんじゃないかしら」
「ワシツ・スペース……」
ウィリアムはノーラの視線を追う。
室内は立体映像で再現された四季の風景が入り乱れており、色とりどりの木々のもとにバイオ
部屋の一番奥には畳と屏風に掛け軸など、それらしく作られたジャパニーズ風の休憩スペースがあった。
「奥に見えるのが、ワシツ・スペースですか?」
「そう。素敵でしょう? 私が文献を集めてデザインしたのよ」
「すごいですね……ノーラさんは、お店の関係者なんですか?」
「お父さんの仕事を少し手伝わせてもらっただけ。今日のパーティーはお店の宣伝も兼ねたものだから、ウィリアムさんも気兼ねなく楽しんでいって欲しいわ」
「ありがとうございます」
「それとね、アリスちゃんにはまだグレンのことを伝えていないのよ……とっても楽しみにしていたから、言い出しづらくて」
「あぁ……なるほど。まあ、俺から説明するんで。大丈夫です」
「ごめんね! それじゃあ、今夜は素敵なひとときを」
ウィリアムはノーラと別れたあと、立体映像で描かれた桜の下を通り抜けた。
そしてセミの鳴き声がする林を進み、紅葉の並木道から雪景色へと進む。
その先には煌びやかな砂金と小判の山、その隙間から覗く大海原。まるで金銀財宝を積んだ宝の船から見える景色だ。
遠目からだと四季の風景が手前にあって、この辺りは見えないようになっている。
ウィリアムはそのとき初めて、一番奥にあるワシツ・スペースは船上を意識したデザインだと気づいた。
船の甲板を見回したウィリアムは、テーブル席に着いている若い女性を見かける。
女性は賑やかな談笑の輪に混ざろうとせず、独り静かに佇みながらワイングラスを傾けていた。
その女性は椅子に座ったままでもよくわかるほど、曲線美のあるスポーティーなモデル体型をしている。
髪型は黒い頭髪のウルフヘアーで、後ろ髪の内側には鮮やかな紫色のインナーカラーが入っていた。
目は大きくて吊り目がちな三白眼。瞳は深海のように深みのある青色。その視線はパーティールームの出入り口を横目で常に気にかけている。
まるで誰かを待っているようだ。そう察したウィリアムは、女性に近寄って気さくな笑顔を浮かべる。
「どうも、こんばんは。ウィリアム・コーウェンです。初めまして」
女性は話しかけられると思っておらず、少し呆気にとられた様子だった。彼女はグラスをテーブルに置いて小さくお辞儀を返す。
「……初めまして」
「お名前を伺っても?」
「アリスです……」
「アリスさん……ということは、あなたがアリス・コールドウェルさん?」
「そうですけど……」
「会えて良かった。ちょうどあなたを探していたんです。今日はグレンの紹介で来たんですが、彼からあなた宛のプレゼントを預かっていて」
「グレンって……グレン・シアーズ?」
「はい。グレンは今日来れなくなってしまって……俺がその代理です」
「え……今日、来れない……?」
「そうです」
「グレン・シアーズが……?」
「はい」
ウィリアムの答えを聞いた途端、アリスの目がカッと見開いて丸くなった。口はポカンと空いたまま動かなくなる。
その顔はまるで、異臭を嗅いでしまったネコのようだ。
「頑張って残業しないように帰ってきて、慣れない身支度までしたのに……?」
「あぁ……それは、お気の毒に……」
「で、ピッチピチのジャパニーズ・マッチョが、グレン・シアーズの代わり……?」
「ジャパニーズ・マッチョ……俺のことか……?」
アリスは溢れ出る疑問をウィリアムに投げかけようとする。
「あの……どうして、その……そんなにバルクがあるの?」
バルクとは、ボディービルダー界隈で筋肉の厚みを指す言葉だ。
実のところアリスは筋肉フェチである。
もう気になることが多すぎて、アリスは何を問うべきか判断できていなかった。
ウィリアムは突飛な質問に首をかしげる。
「バルク……? あ、筋肉のこと?」
「ごめん、忘れて! ちょっと整理するから!」
ウィリアムは困る。
彼はグレンから電話を受けたとき、深夜割り増しの料金を貰っておくべきだったと後悔した。
「どこまで話すべきか……グレンが来れなくなったのは、活動再開に向けたレコーディングがあるからです。これもアリスさんのお陰ですよ」
「え……?」
「グレンはあなたに感謝していました。活動できない期間があっても、覚えていてくれる人がいると……アリスさんのようなファンが、本当に心の励みになると。約束のプレゼントを届けたい一心で、何人もの知人にコンタクトを取っていたくらいです」
「それで、あなたが……?」
ウィリアムは頷くと、ダブル・レザージャケットの内ポケットからタブレット端末を取り出し、アリスに差し出す。
アリスは恐る恐るタブレット端末を受け取って、裏に描かれたサインを見つめた。
筆記体の英語で、グレン・シアーズと書いてある。間違いなくグレンの字だと、アリスはそう直感した。
「すごい。これ、本当にグレンが……!」
「起動してみて下さい」
「…………?」
アリスは言われた通り、タブレット端末を起動してロックを解除する。
すると、停止していた動画が再生され、端末から立体映像の光が飛び出した。
端末の上にグレンの胸から上が現れる。そして話し始めた。
「行けなくなってごめん、アリスちゃん! めちゃくちゃ大事な仕事が入っちゃってさ! 代わりと言っちゃなんだけど、緊急でこの動画を撮ったんだ。俺、新しい曲を出すよ。メンバーは俺一人になっちゃったから、今までとは違う形になると思うけど……またコンサートとか路上ライブとかして、みんなと盛り上がりたい。ライブ会場なら今度こそ会えると思うし。いや、絶対会おう! 約束する! それと、俺のことを覚えていてくれてありがとう。お陰でめちゃくちゃ元気もらった。それじゃあ次は、ライブ会場で……あ! あと、念のため! これ売らないでね! 友達とかに見せるのはいいけど、売るのだけは勘弁ね! それじゃあ、これからも応援よろしく!」
そこでグレンの映像が止まる。
アリスは驚きと感動のあまり、左手の甲で口元を抑えた。泣くのを堪えている。
彼女の対面に腰を下ろしたウィリアムは、アリスが落ち着くのを微笑ましく見守った。彼はこの場にグレンがいないことを惜しむ。アリスが喜ぶ姿は、グレンにとっても感動的だっただろうにと。
やがて深呼吸を始めたアリスは、タブレット端末を抱きしめてウィリアムに頭を下げた。
「ありがとう、ございます……その、ごめんなさい。さっきは失礼なことを言ってしまって……」
「いやいや、気にしていませんよ。喜んでもらえて何よりです」
二人の会話に割り込むように、一人の女性が料理を乗せたトレーを持ってテーブルの側に現れた。
女性は茶髪のセミロングにサイドテールをしていて、ゆったりとしたデニム・オーバーオールを着ている。
「雰囲気がいいところごめんね。これ、とっても美味しかったからみんなに配ってるの」
トレーの上にある料理はきつね色の衣をまとった香ばしい揚げ物だった。
ウィリアムは見たことのあるワショクを前に、懐かしい気分になる。
「テンプラですね。昔、母が作ってくれました」
「そうそう! 当たり! 運んでくれたウェイトレスは、お野菜と海鮮のテンプラって言ってたよ」
アリスはテンプラの芳しい香りに食欲をそそられる。
「へぇ……」
茶髪の女性はアリスの前にトレーを差し出した。
「食べてみる?」
「じゃあ、この丸いやつで……」
「スキャーロップだね。ジャパニーズだと、ホタテっていうらしいよ」
次に女性はウィリアムの前にトレーを差し出した。
ウィリアムは平たいテンプラを手に取る。
「これは、スイートポテトですかね」
「たぶんね」
女性は二人の食事風景を見届けて、にんまりと笑みを浮かべた。
「それじゃあ、向こうの人にも配ってくるから」
女性はそう言うと、人が集まっている休憩スペースの方へ歩いていく。
パーティー会場に集まった人数はウィリアムとアリスを含めて十人で、各々が思い思いに交流を楽しんでいた。
だがアリスは決して自分から話しかけに行こうとはしない。
ウィリアムはそのことについてアリスに尋ねてみる。
「賑やかな集まりは、あまり得意ではないとか?」
アリスはワインを一口飲んで頷いた。
「うん。グレン・シアーズに会いたくて来ただけ。タブレットをもらったら、あとは空気になってるつもりだった」
「なるほど。実を言うと、俺も得意じゃないんですよ。グレンの熱意に押されて、タブレット片手に足を運んできました」
「そっか……じゃあ一緒だね。私たち」
「そうですね。アリスさんにプレゼントを渡したあとは帰っていいと、見兼ねたグレンに言われましたよ。まあ、今は帰れない事情ができてしまったんですが……アリスさんはどうですか? パーティーに残る理由はお有りで?」
アリスは首を横に振る。
「ううん。私は特に……」
答えを聞いたウィリアムは、アリスにいたずらっぽく微笑みかけた。
「もしよければ、俺が適当に誤魔化しておきますんで。アリスさんはそのうちに抜けて下さい」
「え……いいの?」
ウィリアムの提案は居心地が悪そうなアリスを純粋に気遣ってのこと。少しでも早く帰してあげようという親切心からくるものだった。
同時に、彼女を店から遠ざけたいという側面もある。
マニカの報告内容は、この店に何らかの異変が起きていることを示していた。
それが命に関わるものなのか、怪死体と関係しているのかはまだ分からない。しかし、程度は定かでなくとも、ここは危険地帯なのだ。一人でも多く逃がすに限る。
「アリスさんはここまでお一人でしたか? 送迎の予定などは……?」
「別に、一人で来たけど……」
「それは勇敢ですね。余計なお世話かもしれませんが、トウキョウの夜道は危険ですから。どうぞこちらを」
ウィリアムはそう言って一枚の名刺をテーブルの上に乗せる。
有人タクシー会社『シルバーナイツ・タクシー』のものだ。
「信頼できるタクシー会社です。俺の名前を出せば安くしてくれると思います」
「すごい……ウィリアムさんって、何者なの?」
「しがないフリーターですよ。職場を転々としているうちに知り合いが増えまして」
「そうなんだ……実はね、私もフリーターなの」
「アリスさんも? 俺はてっきり、モデル業をしていらっしゃるのかと」
「少し当たってるかも。そういう仕事も受けたことあるよ。でも、容姿で人目につくの、凄い嫌でさ。だからこういう集まりも好きじゃないんだ」
「確かに……下心の視線というのは悪寒がしますね。異性であっても、そうでなくとも」
実際に、今も男性陣の方からアリスに向けてたびたび視線が送られてくる。隣にいるだけのウィリアムも肌で感じ取れるほどの熱烈な視線だ。
アリスはウィリアムの提案に心から救われた気持ちになった。一方で、救いの手を掴もうとすれば後ろめたさが深く胸に突き刺さる。それでもこの場から離れたい一心で、彼女の指先はそっとシルバーナイツ・タクシーの名刺に触れた。
「ウィリアムさん……その、本当に頼っても大丈夫? お言葉に甘えてもいい……?」
「ええ、もちろん。あとはお任せ下さい」
ウィリアムはアリスに微笑み返し、彼女に席を立つよう紳士的な手振りをする。
アリスはうなずいて席を立つと、ウィリアムに深々とお辞儀した。
彼女は携帯端末を取り出して、百ドルの送金をするためのコードを表示する。
「本当にありがとう。これ、私の気持ち」
その時、金髪の若い男性が一人、アリスに向かって手を振った。
若い男は軽やかな足取りで近づいてくる。
「ねぇ、お姉さん。こっちでも楽しまない? 二人だけで話してないでさ」
即座にウィリアムも席を立って、男の前に歩み出た。そしてお金は受け取れないとアリスにジェスチャーを送りつつ、パーティールームを出るよう促す。
アリスは何度も小さく頭を下げると、足早にパーティールームを飛び出した。
その様子を横目で見送ったウィリアムは、若い男に合わせて同族の仮面を被る。
若い男はウィリアムに向けて不満げに片眉を吊り上げた。
「なんだよ。野郎には興味ないぜ。失せなジャップ」
「まあ聞けよ兄弟。あの女は止めとけ。お硬い上に攻撃的だ。ここまで一人でくるようなレディーだぜ……直接話して確かめた。間違いない」
「うわぁお……そういうのもイイが、あんたの見立てじゃ割に合わないってか」
「そういうことだ。ところで、兄弟はナチュラリストかい?」
「いいや、別に」
「実はな……ここに来る途中、カブキ・ストリートを通ったんだが、アンドロイドのイイ店があった。ありゃ唆るぜ……客引きがもう最高だ」
「アンドロイドか……でも、マトモな店は高くつくだろ? 俺、安いとこなら入ったことあるけどよ、ありゃアンドロイドじゃなくてマネキンだ! ウンともスンとも言わねぇ!」
「なら話が早い。兄弟の言う通り、いい店ほど値は張るだろうが……アンドロイドの台数で料金が変わるってのは、もう分かるな?」
「そりゃそうだ」
「そこで一つ提案なんだが、俺と兄弟で折半しようぜ。相手のアンドロイドは一体、使うのは俺と兄弟。ここまで言ったらもうわかるだろ?」
「うわ……俺たち初対面だってのに……イカれてんのか?」
「裸の付き合いってやつさ。正直、俺もああいう店は初めてでな……道連れが欲しい。なにせ今日の俺は数合わせの代役だぜ? タダメシ、タダノミ、あとはアンドロイドでも女が付けば完璧だろ」
「ぷ……ははは! あんた、今すぐトウキョウ市議に立候補したほうがいい! 欲張りなところがお似合いだよ! それもタダメシのくせに初対面の俺とご一緒してでも風俗を折半って……あんたが当選した暁には、ケチくさ過ぎて数年ぶりの財政黒字が見られるな」
「気乗りしないなら、兄弟が四で、俺が六でもいいんだぜ? 兄弟の会費を出してやってもいい。悪くない話だろ?」
「あんた最高にクレイジーだよ。名前は?」
「ウィリアムだ。ウィルって呼んでくれ」
「カールだ。あんたの夜遊びに付き合ってやるよ、ウィル。最初の通り折半でいい」
「よし決まりだ。たらふく食って備えておこうな、カール」
ウィリアムの話は全て、カールを女性陣から引き離すための出任せである。
二人の会話の最中、アリスはすぐに階段を降りてカウンターの前にいた。
せめてウィリアムの連絡先を聞いておけば、後でお礼ができたのに。そう後悔しても後戻りはできず、アリスはしばし立ち尽くす。
「そうだ……」
アリスはウェイトレスのアンドロイドを手招きした。
「ねえ、上のパーティールームにいるウィリアムって人に、料理を届けてくれない?」
[かしこまりました。ご注文の品は?]
「えっと……じゃあ、テンプラで。メッセージを伝えて欲しいんだけど、できる?」
[可能でございます]
「それじゃあ……私の連絡先と、お礼がしたいから連絡が欲しいってことを伝えて」
[かしこまりました]
アリスはアンドロイドに自分の連絡先を伝えたあと、出入り口の自動ドアに向かった。
彼女はグレンのサイン入りタブレットを抱き締めて店の外に出る。
その瞬間、アリスの視界が暗闇に覆われた。方向感覚がなくなり、キーンという酷い耳鳴りがする。
やがて暗闇の中に、無数に連なる六芒星の模様が浮かび上がった。まるで砂嵐のノイズが走るアンティーク・テレビの画面のように、無数に連なる六芒星は左右に捻れて歪んで戻り、左右に捻れて歪んで戻りを繰り返す。
耳鳴りは次第に強くなった。キーン、キーーーン、キーーーーーン。そして耳鳴りの中から歌が聞こえてくる。聞き慣れない日本語の歌が。
歌が鮮明に聞こえた途端、アリスは腹の中を弄られているかのような不快感を覚えた。凄まじい吐き気と悪寒に襲われ、彼女はたちまち膝から崩れ落ちる。
アリスがうつむいて地面に手をついたその時、聞いたことのある声がした。
「アリスさん?」
ウィリアムの声だった。
アリスは恐る恐る顔をあげて周りを見る。
そこは、パーティールームだった。
「…………?」
あまりにも理解が追いつかず、アリスは驚きの言葉すらでない。
彼女はただ両目を見開いたまま、会話を終えたウィリアムと見つめ合うことしかできなかった。
アリスが瞬きをするたび、まぶたの裏に残った六芒星の残光が見える。それは左右に捻れて歪んで戻り、左右に捻れて歪んで戻りを繰り返していた。
手がかりを一つ追う内に、儀式はさらなる手順を踏む。また一つ、また一つ、悪魔は密かに、誰かのそばで。
悪魔は小声で呟いた。あとは品定めだけだと――
Laid-back//Case_File001_What’s done is done.【終わったのだ。前を向け】 アンガス・ベーコン @Aberdeen-Angus
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