子猫の幻像

先崎 咲

子猫の幻像

 はじめは、なんとなく、普段猫ばかりにかまける彼の目をこちらに向けてやろうとしたのです。あの、端正で、物静かな、美青年の興味が少しでもこちらに向いたなら、と思ってしまったのです。


 ある午睡時、ニャアニャアとうるさい声がしました。わたしが、猫がいるよ、と声を上げても家の中からはなんの返事もありません。この時間は彼も在宅しているはずでした。この声が聞こえないはずはないはずでした。

 その反応に不快感を覚えたわたしは猫を彼の目の前に突き出してやろうと考えました。そのために仕方無しに家を探索し始めました。すると、果たしてそこに猫はいました。五分も経たずに見つかりました。縁側で丸くなって毛づくろいをしているようでした。

 ふてぶてしい子猫で今思えば醜悪な形をしていたと思います。その姿はいびつで、どこかが欠けていたような気がします。けれどもわたしは、その子猫を見た瞬間から、それを愛らしくも彼の心を奪う憎き的だと思い、一計を案じることにしました。


 わたしは台所から煮干しを取ってきました。その尾に糸を括り付けました。興奮か緊張か、何度も失敗しながらも執念深くそれを続けました。その頃には彼のこともすっかり忘れていたのです。ただひたすらに、子猫が、憎くて。


 ずいぶん糸括り煮干しを作るのに手間取っていたので、子猫はいつの間にか部屋の中にまで入ってきていました。

 そうしてできた糸括り煮干しをわたしは物陰から子猫の方に放り投げました。子猫がこれを掴もうとしたときに糸を引っ張り、嘲笑ってやろうという、幼稚でくだらない思い付きです。けれどその時のわたしは、自らが孔明にでもなったような気分で、天才的で類を見ない奇計だとうぬぼれていました。


 子猫は放り投げられた煮干しをちらりと一瞥した後、体を伸ばしました。そうして、頭を掻いた後。



 ──にゃあ。



 こちらを見て鳴いたのです。


 その瞬間、物陰で隠れて見ていたわたしはその子猫が恐ろしくて恐ろしくて、間借りしている自室に逃げ帰って、ぶるぶると震えているばかりでございました。 しかし、子猫のいる今に本を置きっぱなしにしたと気づいたわたしは、文士を志すものとして本を邪悪なる敵の魔の手つめから守ろうと心奮わせて、自室の扉を開けることにしたのです。 


 はたして、子猫はそこにいました。

 わたしは、奮わせていた勇気がしぼむのを感じました。みっともなく顔は蒼白になったと感じました。その時、懐におさめていた財布が落ちました。硬貨がジャリジャリと音を立てて落ちました。


 わたしは貧乏学生でしたから、頭の中も真っ白になりました。子猫は醜悪な顔をこちらから地面に向けると、わたしの落とした硬貨を口に入れました。

 それを見たときのわたしは、顔から火が出るような、それでいて体の芯が凍りつくような羞恥と恐怖に包まれました。子猫にこんなせせこましいことを気にしているわたしを馬鹿にされているような、それでいてわたしよりも小さな動物の知性がわたしよりもさかしいように思えてプライドというものが脅かされてしまったようなそんなものでした。 


 わたしは白い頭のまま狂行に及びました。硬貨に夢中の子猫に対して座布団を投げ、その上から子猫を踏みました。

 何度も何度も執拗に、まるで親の仇か無邪気な子供の残酷な遊びのように。 不思議と、踏んでいる間は生々しさを感じませんでした。 


 しかし、ああ、そろそろ死んだだろうという思考が脳に飛来した瞬間、自身が吐き気がするような醜悪を成した事に気づきました。突然足裏の感覚が生々しくわたしの頭に襲いかかりました。 わたしは成したことが怖くて怖くて、けれどその証拠が目の前にあるという事実も耐えられませんでした。罪を目で認めたくなかったのです。

 そしてわたしは座布団越しに子猫をひっつかみました。座布団に目を合わせないようにして、両手でそれを持ち上げました。床に落ちた硬貨の音がして、わたしはそれに責め立てられるように走り去りました。 


 まるで、狂人のようでした。 そこから先は覚えていません。どこかに投げ捨てたのか埋めたのか。けれど、わたしが家に帰ってきたとき自室の前の床を恐怖するようになったのは確かで、何も跡が着いていないことが、より一層わたしの記憶の中の罪の記憶を確かにするのです。


 しばらくして、わたしは引っ越しました。その家の場所はもう朧気です。けれどあの6畳間の床だけは、その模様すらはっきりと焼き付いているのです。

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子猫の幻像 先崎 咲 @saki_03

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