宇宙に溺れよう

一野 蕾

【出会い別れるから、僕の旅なのだ】


 宇宙は暗くて広くて、とても冷たくて、怖いというひとがいる。

 それを理由に、他の星への旅行など一切しないというひともいた。


阿呆あほうめ、と思う。それが宇宙の良いところじゃないか。


 確かにこの僕の旅の出発点も、宇宙の魅力に取り憑かれたからだとかではなかった。もっともっと陳腐な理由が他にあった。けれども、少なくとも今はこうして、車窓から眺める宇宙の景色が旅の楽しみだ。だから今の僕の旅の理由は、これでいい。


 ある地点で拾った列車はいていた。

 どうやら座席が埋まるほど混むことも少ないようで、しばらくこの列車の行路に身を任せることにした。各駅停車らしく、列車はたびたび星に停まった。数少ない乗客は、そうした流れの中で何度も顔ぶれを変えた。


 しかしこのあたりの星は、どこもかしこも似たような気候のようだ。

 夜空を離脱し、降り立った先で駅舎と並ぶたび、窓から外を眺める。見渡す限り熱帯雨林の星も、建物が全て鉄製の街も、地面の見えない渓谷の国も、ここ数駅は青空しか見ていない。それも、初夏か、盛夏の湿気をまとった、けだるくなるような暑さをともなっていた。

 どこかのタイミングで降りようと考えていたものの、こう夏季ばかりでは立ち上がろうという気力も削がれる。

 座席のせもたれに体重を預けると、ベルが鳴り、少しガタつきながらドアが閉まっていくのが見えた。列車自体が古いのだ。


 その閉じていくドアの前に、立ちすくむひとがいた。


「……降りないのかい」


 離れた位置からかけた声ではあったが、届いたようだ。

 彼女は――女性に見えるけれど、どうだろう――少し前から同じ車両に乗り合わせた乗客のひとりで、これより前の駅でも、何度か列車を降りようと試みていた。しかし駅舎に着き、ドアが開いて、そこで眩しい晴天と摂氏せっし二十八度超の気温にあてられると、今のようにドアの正面で足を止めてしまうのだった。彼女がそれを繰り返すうち、この車両には僕たち以外の乗客がいなくなってしまった。


 僕を見やった彼女は、健康的な小麦色の肌をしたひとだった。肩から下をすっぽりと旅用のマントでおおっているわりに、荷物はそう多くない。


「そんなところに立ちっぱなしじゃ疲れるし、座ったらどうだい。少しの時間しか居合わせていないけれどね、あなたのことが少し分かってきたよ。また、次の星で降りる心算つもりなんだろう?」

「……居合わせたもなにも、ほんの数駅でしょ」

「そうだね。でもあなたはその数駅の間で何度も同じことをしていたから」


 彼女が閉じた唇の奥で、ため息を飲み込んだ気がした。

 発車準備の整った列車が、一度大きく揺れて、再び走り出した。岩石だらけのゴツゴツした星を離れる時間が来たようだ。みるみるうちに遠くなっていく景色に鼻歌を送る。やがて外は暗くなって、車両の内部にまで侵入していた温気が宇宙の冷気で霧散していくのを感じた。


「ねぇ。聞いてもいい?」


 彼女はいつしか僕の斜め左前側の座席に座っていた。通路をはさんでいるので、それほど近い距離ではなかったが、彼女が女性ではなく女性体を模した身体を持つ無性の生物種であることは判別がついた。美しいものはたやすく雌雄を超越するので、驚きはなかった。


「なにかな」

「貴方、どうして頭にヘルメットを被っているの?」

「気になるかい、これ」


 目が合っている気がしていたつもりが、彼女の目線をさらっていたものはこの僕の頭を覆うカーボンだったようだ。


「列車旅には必要ない物だから、つい。フルフェイスである必要があるの?」


 興味深そうな、至極シンプルな視線は居心地が良かった。気になるのも無理はない。首から下は至って普通の服だから。


「ヘルメットというよりこれは、潜水服かな。この僕の旅には欠かせないんだ。この広い宇宙を泳いで渡るためにはね。あなたのマントと同じようなものだよ」

「私のこれは……、欠かせない物ってわけじゃない」

「そうなのかい? 旅人の装いとしては大切な装備だよ、マントは」


 僕はしていないけどね、と笑えば、彼女はくだけた微笑みを浮かべて、裾をつまみ上げた。


「こんなのただの服。どちらかというとタオルを着てるような気持ちだよ。暑いときは汗を吸ってくれるし、日焼けをある程度抑えてくれるし。……それに、寒いところに出たら、くるまれる物が必要でしょ」


 マントの裾から出た腕をさすっている。その手の内側が幾分か白いのを見て、彼女の小麦色は日焼けなのだと知った。


「ふむ、しかし、寒いところか。近ごろは滅多に行き当たらないね」

「旅をして長いの?」

「それなりにはね」

「聞きたいんだけど、旅の中で冬に出会ったことはない? 雪が降らなくてもいいの、少なくとも夏じゃないところ。日差しが弱くて、暑くない場所。もしくは人でもいい」


 首を傾けた。人でもいい、か。

 どこかの星には、季節に準じた性質を持つ人間がいるらしいと聞いたことがある。僕が渡って来た銀河には少なかったのか、思い返せる限りでは恐らく会ったことがない。

 季節の意味での冬にもしばらく見舞っていないので、首を横に振った。

 彼女から落胆の気配がした。


「そう……」

「冬を探しているのかい。もしかして、さっきまでの右往左往も」

「うん。そう」


 脱力した彼女は、座席にもたれた。


「どこの星からも冬が消え始めてることは知ってる?」


 是、を返す。

 宇宙規模の話だ。

 ありとあらゆる星から、冬という季節が失われつつあるそうだ。

 事実僕がここ最近で辿り着いた星には冬が訪れていなかったし、急速的に広がっている現象なのだろう。例によって先程から夏の星ばかりなように。


「私の故郷でも冬が眠ったの。ずいぶん抗ったんだけど、駄目だった」

「あなたが故郷を発ったのは、冬の為にというわけかい」

「思い立った次の日には飛行機に乗ってた」


 ふと顔を上げて笑った彼女の瞳が、きらり、と星粒の輝きを宿した気がした。いや、あれは氷の粒スノーダストと喩えるべきだろうか。


「まさか、ここまで長い旅になるとは思わなかったけどね。最初はただ移住場所を見つけてあげるだけの簡単な引越しのつもりだったから」

「そういえば……もう晩秋にさしかかっていてもおかしくない時節だったね」

「困った話だよ。本当、本当」


 苦笑いを浮かべていた彼女の頬が強ばり、みるみると全身に広がった。

 座席の上で膝を抱える彼女の小さな身体を支えなければ、と思って、僕は腰を上げた。


「……目的地の不明確な旅は辛さをともなうものさ」


 華奢な肩に隣合う。


「どこもかしこも夏ばかりで飽き飽きする。〝夏じゃなければ良い〟だけなのにこんなにも見つからない」


 活力を失った声は批判的で弱弱しい。僕はそっと身体を寄せ、互いの腕を触れ合わせた。触れ合う布の感触から、静かに夢想する。

 行く星、巡る星、降り立つ度に彼女を焼く日射しと、失望。雪に触れ慣れた肌に焼き付いて馴染んでしまった。このマントの網目一つ一つから滑り込んで、チリチリと火花を散らし、肌に焼印を残すのだ。雪の結晶の形をした焼印を。


「疲れた」


 ぽつり、呟いた彼女が窓の外を見やる。


「所詮はひとりよがりの旅。最初から、冬がどこにあるか、冬が何故夏に押しつぶされているのか、何も知らずに続けてきた。……こんな旅、全部全部が無駄なのかも」


 組んだ腕に顔を半分埋めたまま、奥へ遠くへと繋がる無窮の宙を眺める。

 その横顔は綺麗で。……彼女は冬を求めながら、その実、一人で凍え続けているのだと知る。健気なジレンマに脳を焼かれて尚、冬を恋い焦がれている。

 思考の深みを潜ってしまった彼女を引き上げることができるのは、潜水服を着た誰かだけだろう。


「聞いてくれ、季節を求める素敵な人」


 二の腕に感じるかすかなこすれが、彼女が耳を傾けてくれていることを告げる。


「旅の目的や意味というものは、自分自身で決めるものなんだよ。当初と逸れた目的になっても構わない。道をたがえる結果になっても、紛れもなくあなたの旅だ」

「気が、遠くならない?」

「なるさ。だけれどそれが旅だよ。歩きながら、巡りながら。泳ぎながら探して、決めるんだ。その先で旅が終わるのか、新しく始まるのか。それはその人次第さ」


 僕は新しく始めることにした。何度となく終わりを迎えようとしては、また始めた。


「時には人に委ねたこともあった」

「誰かと一緒に旅を?」

「そうさ。行き先を決めてもらったこともね。一箇所に留まろうとしたこともあった。それもなかなか良いものだったよ」

「冬が見つからない限り、最後の選択肢はないかな……」

「一つ明確なところがあったようだ。いい調子だ。さぁ、あなたの旅を探してみて」


 彼女は逡巡する素振りを見せてから、目を伏せ、静やかな呼吸を始めた。やがて氷が融けるように、組んでいた腕と膝とが自由になり、華奢な手が座面を滑った。


「私の、旅か」


 その手に、なんとはなしに手を重ねる。

 宇宙で息をしているような心地になった。


「そう。あなたの旅だ」





 永遠とも思える刹那の時間は、列車の軌道に乗って終わりを迎えた。

 ベルが鳴り、無機質なアナウンスが次の星に到着することを告げる。

 僕たちは荷物をまとめるため、どちらともなく手を離し席を立った。触れていた指には隙間風を感じた。


「私の旅は、やっぱり冬を起こす為の旅」


 二本足でしっかりと立った彼女は、幾分か晴れやかな面持ちでそれを言った。出会ったばかりの不安げで心もとなさそうな背中は、もういない。ガタつく列車が停車位置へと滑り込む。


「だけどそれは、冬の為じゃなくて私の為。私がもう一度会いたいから、会える場所を探しに行く」

「……とても、有意義な旅だ。素敵だね」

「ありがとう。貴方のおかげだよ。私はまた、旅を始められる」


 薄く焼けた頬でにこやかに笑う彼女の旅の理由に、僕はなれないようだ。彼女の手に触れることももうないだろう。スピードをなめらかに落とした列車が、完全に停止した。ドアが全て開き、駅舎が僕たちを迎え入れる。

 反対側の窓の外は、まだ宇宙の片面があった。


「お礼をいわれるようなことではないさ。今日乗り合わせたこの列車は、新しい旅を始める足掛かりになるんだ。……お互いのね」

「どこへ行くの?」


 ドアは自力で開けることはできないので、窓枠を押し上げた。呼吸を奪う不可思議な質量が、潜水服越しに顔面に押し寄せる。


「僕も旅を始めるよ。どこかで旅路が交わったら、また会おう。さようなら、素敵な人」


 僕は手を振って、窓枠の外に身を投げた。

 悲鳴を吸った彼女が慌てて駆け寄る姿が、チラリと視界をかすめた。


 宇宙の空気にくるまれ、僕は腕を動かす。水ではないけれど、足で闇色の虚空を蹴って、遥か彼方に見える銀河を腕でかきながら泳いだ。列車から少し、また少しと離れ、じきに彼女の姿も見えなくなる。無重力の海の中、僕はただひたすら泳いだ。肺を満たす冷たい想いを吐き出すように、潜水服の内側で必死に呼吸をした。


 大きな宇宙の中、矮小で愚かな僕は、過去のヒビ割ればかりが痕を残す心を抱えてあてもなくさまよう。心を終わらせる為。心を繋ぐ為。宇宙がいつかこの息の根を止めてくれる日を待ちながら、その道中にまた、新しいなにかが見つかるだろう。なにか意味を見出すだろう。


 僕はそれを旅と呼んでいる。








『宇宙に溺れよう』/終

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